唇に触れる寸前でぴたりと止まる。次の瞬間、綱くんの乾き切った唇に落ちたのは、私の唇ではない。
 ――1粒の涙だった。

 涙の雫が、彼の乾き切った唇にポツリと落ちた。

 呪いのキスを落とすことは出来ない。
 綱くんの命を救えるかもしれないけれど、反対に殺してしまうかもしれない。

 殺めてしまう可能性があるのに、大好きな人に呪いの口付けをするなんて、私には出来ない。
 涙の雫は彼の眠っている顔に落ちていく。

 私は弱い。なんて弱くて脆いのだろう。そんな自分が心底いやになる。強い子だったら出来たのかもしれない。

 私には出来ないよ。1日でも長く生きていて欲しい。好きな人を殺すことになるかもしれないのに、接吻を落とせるはずがなかった。

 その後のことは正直あまり覚えていない。
 私の様子を心配する綱くんのお母さんに、軽く会釈をして病室を飛び出してきた。

 外に飛び出すと、どんよりだった曇り空から、小雨が降り始めていた。
 帰り道で人目を憚らずに泣いた。傘も刺さずに泣きながら歩いた。道ゆく人々が私に怪訝そうに視線を送る。そんな視線を気にしてられないくらい、勝手に涙が溢れてくるのだ。

 まるで私の心を表すように、雨は次第に強くなる。身体は濡れて服は色が変わっていた。
 何が正解でどうすればいいのか。鬼の子の呪いは『人を殺すのか』『人の命を延ばすのか』
 神様がいれば教えてください。こんなに神様の存在を願ったことはなかった。

 なぜ彼が癌という病魔に負けてしまうのか、どうせなら、町の人から嫌われ、迷惑がられている私が死んだ方が世の中の為になるのに。なぜ彼なのだろう。

 もう何も望まないから、綱くん命を助けて欲しい。泣きじゃくりながら、空を見上げて願った。

 びしょ濡れになって、泣きながら家に帰った。その姿を見たお母さんは、急いでふかふかのバスタオルを持ってきてくれた。雨で濡れた私の髪と体を拭いてくれた。

 驚いた表情を浮かべて心配していた。当然だろう。娘がわんわんと号泣しながら、びしょ濡れで帰ってきたのだから。


「……私、彼を助けたいのに、呪いが怖くて出来なかった。助けられるかもしれないのに……。でも、もし呪いで殺してしまったら、また私は一人になってしまう。好きな人を自らの手で殺すかもしれないなんて、怖くて哀しくて。……私には出来なかった」

 言葉に詰まりながら泣きじゃくる私を、お母さんはギュッと抱きしめてくれた。びしょ濡れの私を、抱きしめたら自分も濡れてしまうのに、そんなことはお構いなしと言わんばかりに、ギュッと抱きしめてくれた。

「……」

 抱きしめられるという行動に、うろたえて戸惑った。驚いて涙が一瞬止まる程だった。
 ここまで驚くには理由がある。
 私は、両親から抱きしめられた記憶がない。幼い頃に、他の子のようにぎゅーっと抱きしめて欲しくて、抱きつくと勢いよく突き飛ばされた。手を繋いだこともない。普通の子供ならされて当然のスキンシップという愛情をもらえなかった。

 鬼の子の呪いが、いつ発動するのか手探りの状態だったので、今思えば仕方がないと分かる。
 でも、幼い頃の私がそんなこと理解出来るはずもなく、愛されていないんだ、と思い生きてきた。

 今抱きしめられている状況に、嬉しさよりも驚きと戸惑いの感情が強い。どうしていいのか分からず、固まっている私の耳にすすり泣く声が届いた。母が涙を流している。


「お母さん……?」
「花純、ごめんね。本当は、こうして抱きしめたかった。ずっと後悔していたの。幼い頃の花純を抱きしめてあげられなかったこと。無条件で愛を求めてくる幼い花純に答えてあげられなかったこと」

 感情が言葉にならず、頷くことしか出来なかった。

「……私はいらない子だったんだよね?」

 今まで聞きたくても、怖くて聞けない質問を投げかけた。
 私の質問に大きく顔を横に振る。

「いらない子な訳ないじゃない。ごめんね。優しくできなかったのは、おかあさんとお父さんが弱かったから。……花純の名前の由来はね。西洋の花言葉からつけたの。カスミソウの西洋花言葉は『永遠の愛』。花純はお母さんとお父さんに愛されていると伝えたくてつけた名前なの」
「し、知らなかった……だって、私は呪われた鬼の子に生まれてきちゃったから、愛されてないんだと思ってた」
「ごめんなさい。しきたりに縛られて、隠された花言葉の名前で伝えることしかできなかった」
「……」
「ずっと後悔していた。何も考えずに、幼い頃の花純を抱きしめれば良かった。あの頃に戻って抱きしめてあげたい……お母さんとお父さんは、昔も今もずっと愛してるよ」
「……」
「もし、鬼の子の呪いで、人を殺めてしまっても、お母さんとお父さんは味方だから。花純のこと、ずっと愛してるよ。鬼の子でも、例え悪魔でも、愛してるよ。たった一人の娘だもの――」