どのくらい泣いていただろう。涙が枯れないということも初めて知った。抱え込んだ枕はシミが残るくらい涙が流れていた。
カーテンの隙間から入り込む朝日の光で朝が来たことに気づかされる。
「……もう、朝か」
当たり前のように迎えるこの朝日を、綱くんはあと何回見られるのだろう。
そんなことを考えて、また一筋の涙が頬を伝う。
泣きたいのは私じゃなくて、綱くんなのに。
窓の外から入り込む光で部屋は次第に明るくなっていく。部屋の片隅に置いてある全身鏡に映し出された自分の顔を見て驚いた。
「酷い顔」
泣きすぎて腫れてる目。スキンケアもせず一晩中涙が伝った頬はガサガサだ。
「学校は休もう。誰も私の心配なんてしないし、いいよね」
こんなボロボロの状態で、学校に行けるはずもない。いくらいじめられようと、休まず行っていた学校を初めてずる休みする。再び布団に潜り込んだ。
頬を伝う涙を拭うと睡魔が襲ってきた。泣いていたので寝ていない。うとうと、と夢の世界に足を踏み込みそうになっていると、家の中で騒がしい物音が聞こえてくる。
現実世界と夢の世界の狭間はざまにいる。聞こえてくる雑音を無視する事にした。
ドタドタと階段を登る足音が強くなる。嫌な予感がする。私の嫌な予感は的中し、部屋のドアが力強く開かれた。
「花純! お前連絡よこせよ!」
怒鳴り声と共に乱暴にドアが開けられる。光希が部屋までやってきたのだ。従兄弟だからといって、勝手に部屋まで押し寄せるなんて。部屋に招き入れた母に嫌悪感を抱く。
「おい! 花純! 携帯みてねえーのか」
スマホを確認すると、光希から着信が数十件。メールも来ていた。余裕のない私は全く気づいていなかった。
しかし、今は誰とも話したくない。人の心を土足で踏み荒らす光希とは特に話したくない。
「今はそういう状況じゃなくて。本当ごめん」
「……」
「……落ち着いてからいうから。今は……」
口調を強めにして断りを入れようと布団から顔を出した。視界に飛び込んできた光希の表情を見て固まる。唇を噛み締めて悔しそうに瞳には涙を溜めていたからだ。
「綱が入院してる病院に行こう」
「な、なん、で、知ってるの?」
「昨日、綱から電話が来て大体のことは聞いた」
「もう来るな、って言われたから……」
消え入りそうな声は痛々しい。いっそのこと消えてしまいたい。
「綱が花純のこと心配して、俺に連絡くれたんだ。病気で苦しいのにそんな時でも自分のことより、花純のことを心配してたんだぞ?」
どこまで優しい人なのだろう。私のことを心配してくれるなんて。
「このまま、もう、会わなくていいのか?」
光希の声が震えているのに気づいた。顔を上げると瞳が揺れていた。昨日電話で聞いたということは、光希も綱くんが死ぬことを知っているんだ。ここにも苦しんでいる人がいる。
なんで私だけこんなに苦しいの。と悲劇のヒロインになっていた。ここに、綱くんの病気のことで同じように心を痛めている光希がいる。
そして、1番苦しいのは綱くん本人だ。
「私、本当は……会いに行きたい。もう一度ちゃんと話をしたい」
「……だったら行くしかないだろ」
一晩思いっきり泣いた。
悲劇のヒロイン気取りはもうお終いだ。
私たちは重い足取りで、病院へとやってきた。
「もう、来るな」と昨日言われた言葉が頭の中に、何度も浮かびあがってくる。
衝動的に来てしまったけれど、拒否されてしまうのではないか。と恐怖心で心臓がギュッと締め付けられた。足取りもどんどん重くなっていく。
なんとか、病棟の入り口まで着くとピタリと光希の足が止まった。
「後は1人で行ってこい」
「え、なんで……」
「俺が行く意味ねーだろ」
足を進めたくても、その一歩が出ない。
そんな私を察したのか、背中をポンっと後押しするように優しく叩いてくれた。自然と足が前に出て、驚いて振り返る。なぜ驚いたかというと、光希が初めて私に触れたからだ。
従兄弟で幼い頃から兄弟のように同じ時間を過ごした。鬼の子という特殊な境遇で、普通の従兄弟同士より絆は深いような気さえしていた。それでも、鬼の子の呪いのせいで光希が私に触れてくる事はなかった。
私を後押しするために背中をポンと押した手は震えているように見える。生まれた時から、鬼の子の呪いを聞かされ、そばで感じてきた光希。
私に触れた手は、どれだけの勇気と決断が必要だったのだろう。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
「あー、ちゃんと話してこいよ」
光希に見送られながら、私は自分の足で会いたい人の元へと向かう。
ナースステーションに立ち寄ると、看護師さんと話す女性がいた。視線を感じたので、チラッと横目で確認すると、その女性と目が合う。そして、優しく微笑みながら私の元へ近づいてきた。
女性の目元を見てすぐに分かった。きっと、綱くんのお母さんだ。
「……もしかして、綱のお友達?」
「……はい」
とても綺麗な顔立ちで、綱くんの端正な顔立ちは母親譲りだったのだろう。
「私、渡辺綱の母です。もしよかったら、少し話せる?」
突然話しかけられて、心の準備が出来ていない私は動揺が顔に出ていただろう。そんな私を気遣うように優しい笑みを浮かべてくれた。
「ここでは、綱にバレちゃうから……」
私たちは、病棟から少し離れた談話室で話すことになった。自販機コーナーの手前に丸いテーブルと椅子が2つ。簡易的に作られたその場所は、病院関係者やお見舞いに来た人が、何人も横を通り過ぎていく。そんな場所で、私たちは沈んだ面持ちをしていた。
「呼び止めてごめんね。昨日、綱の友達が来てたって、看護師さんに聞いたの。少しお話ししていい?」
「は、はい。だい、大丈夫です」
緊張で上手く話せない私に、穏やかな優しい声で話を続けた。
「あなたが花純さん?」
「……はい」
「やっぱり。そうじゃないかと思ったんだ。綱から話を聞いていたの」
「は、はい」
「花純さん、緩和ケアって知ってる?」
「テレビなどで、知ってる程度です」
緩和ケア。その言葉を聞いただけで、鼻の奥がツンと痛くなる。込み上げてくる感情を我慢するのに必死だった。
「緩和ケア病棟にいるってことは、死を宣告されてるの。もちろん、緩和ケア病棟の全員がそうって訳ではないけど……。綱は膵臓癌の早期発見が遅くてね。手の施しようがないって言われてる」
静かに頷いた。そんな私に視線を向けて言葉を続ける。
「綱は死に向かって歩んで行かなければならない。途轍とてつもなく不安で怖いと思う」
『死に向かって歩んで行かなければならない』
その言葉が重く心にのしかかる。
私は堪えていた涙を抑える事ができなかった。必死に我慢していた涙は、1滴頬を伝えばとめどなく溢れてきた。ここで私が泣くべきではないと頭で分かっているのに。止めることが出来なかった。
そんな私に優しい眼差しを向けて話を続ける。
「緩和ケア病棟に来たのは、綱の意思なの。人生最期のステージへの準備と、自分でいろいろ模索したいって……。なんでそんなに頑張れるの? って聞いた事があったの。そしたら『クラスに辛い環境なのに、頑張ってる奴がいる。俺も負けれないな』って笑ってたの」
「……っ、うっ」
声を出さないように我慢していたけれど、完全に涙腺は崩壊した。心も崩壊している。
「この土地に引っ越してきたのは、夏が始まる前だった。他の病院もたくさん回って、ここの先生が最後の頼みの綱だったの。それがもう手の施しようがありませんって言われた時、綱は荒れて荒れて大変だった」
「……」
「荒れたと思ったら、生気が抜けたように、いきなり学校に行きたいって言い出したの。驚いたけど、最後に普通の生活がしたい。ってお願いされて、2学期から転入する事になった。行かせて良かったわ。そのおかげで、花純さんと出会えて、病気と向き合えたんだもの」
「そんな事が……私何も知らなくて」
初めて会った時から綱くんは、自分が死ぬことを分かっていたなんて……。
「死にたがりだから」彼のことが浮かぶ。もっと早く気付いていたら、何かできる事があったのではないか。助けてもらうばかりで、私は何一つ助けてあげられなかった。後悔の念が心を押しつぶす。
病気
「私の口からもお礼を言わせて。ありがとう」
まさか綱くんのお母さんからお礼を言われるなんて思ってもいなくて困惑する。
それに、私はお礼を言われるようなことを何一つしていない。
「す、すみません。私そんなお礼を言ってもらえるような奴じゃなくて……」
この人には、隠し事をしたくなくて、自分の口から鬼の子であることを話そうと思った。
しかし、長年のトラウマから自分の口から鬼の子と告げるのは、相当の勇気が必要だった。頭では伝えた方がいいと分かっていても、心と体がいうことを聞かない。喉まで出かかっている伝えたい言葉を、声にすることが出来ずにいた。
「……大丈夫。聞いてるよ?」
言葉に詰まって固まっている私の様子を見ると、柔らかい笑顔を浮かべて言葉を続ける。
「花純さんが鬼の子って事は聞いてるわ。私はこの町の出身じゃないから呪いのことはよく知らない。町の人から噂を聞いたけど、綱から聞く花純さんとは別人のようだった。それに、私にとって花純さんは鬼の子ではなくて、大事な息子を前向きにしてくれた同級生でしかないのよ」
私には勿体無いくらいの優しい言葉に、やっぱり綱くんのお母さんだ。と変に納得してしまった。このお母さんに育てられたから、優しくて人の気持ちを考えられる綱くんに育ったんだ。瞬時にそう感じた。私には恐れ多い言葉に、ただ、泣きながら頷くことしか出来なかった。
「息子には人生悔いなく最後まで生きて欲しい。花純さんには辛い想いさせてしまうことになるけど、可能であればそばにいてあげて欲しいって思ってしまうの。親バカでごめんね」
ハンカチで目元を抑えながら伝えられた言葉に、私はなんて返せばいいか分からなかった。
この綺麗な涙の前では、私が泣くことさえ失礼だと思った。
ひとしきり泣いた私達は、病室へと足を進めた。綱くんが入院している病室は1番奥の部屋だった。
部屋にたどり着くまでの道のりで辺りを見渡すと、酸素マスクをして寝たきりの方や、沢山のチューブが繋がれている患者さんが視界に入り心が動揺していた。