「探したんだけど? 何やってんだよ。こんなところで」

 ふわっと花束のような香り、恋しくて仕方なかった香りがした。
 空を見上げていた顔を下げると、引き留めていた涙が一筋流れた。

「……綱くんっ、」

 点滴スタンドを片手に押しながら、病院のパジャマ姿で現れた。その姿がこの病院の患者だということがまぎれもない事実だと教えてくれた。私の隣に腰を下ろすと言葉を続ける。

 
「あの看護師さ、1年目なんだって。患者の個人情報言うとかやばくね? この病院、守秘義務どうなってんだ」
「……」
「花純の様子見た限りは……バレちゃったかー」

 ははっと笑った声はいつもより覇気がなく、無理して笑っているように見えた。


「ごめん。私が綱くんの病気を知っている風に装ったの。だから看護師さんも私が病気のこと知っていると思ったんだと思う。残りの時間を大切にって……。ち、違うよね?」
「……」
「違うよね? 私が考えているようなことじゃないよね? なにかの間違いだよね」

 縋りつくようい質問攻めをした。それは私の心の叫びだった。
 違うと言って――。

 期待した考えを否定するかのように、顔を小さく横に振った。

「悪い。俺、死ぬんだ」

 二文字が頭の中でこだまする。銅器で殴られたような凄まじい衝撃が頭に走った。心が激しく動揺する。
 改めて綱くを見ると、久しぶりに見る綱くんは、心なしかやつれたようにも見える。腕には点滴のチューブが見えた。筋張って男らしかった腕は細くなったような気さえした。

 「死ぬ」その二文字を聞くまでは見て見ぬふりをしていたのに。もう見逃すことが出来ない。受け止めたくない現実を、目の前にいる綱くんの姿が、認めざるを得ない。

「俺、膵臓癌なんだ……」
「す、い、ぞう、がん」
「初期症状がほとんどなくて、見つかったころにはステージ4。手遅れだった」
「……」

 言葉が出なかった。今何を言葉にしても安っぽくなってしまう。相応しい言葉が見つからない。


「この町に転校してきたのも、病気のためだったんだ。俺の癌について有名な先生がいて、その先生に見てもらうために引っ越してきた。最後の頼みの綱だった。だけど……若いから進行も早くて膵臓癌の名医でも、手の施しようがないって。……もう緩和ケアに切り替えようってなったわけ」

 相槌を打つ私に言葉を続ける。
 
「引っ越したこの町で、学校に通ったのは……俺の希望だったんだ。どうせ死ぬなら、病院で入院暮らしより、学校いきてーな、って。どうせなら、新しい地で俺の病気を知らないところで、普通の人と同じように学校に通いたかった。そして転校した先で……花純と出会った」
「うん……」
「最近調子良くなくて……学校には行けそうにないや。このまま、ここで死ぬんだと思う。だから……今までありがとうな。短い時間だったけど、楽しかったよ」

 綱くんの言葉を最後にシンと静まり返る。点滴の滴が落ちる音が聞こえてきそうなほどの重い静寂だった。
 なんて言葉をかけていいのか分からなかった。現実のはずなのに、受け止めきれなくてどこか浮世離れしていた。

「……ここには、もう来るなよ。元気でな」

 ゆっくり立ち上がり、私の返事を待つことなく歩き出す。もう一度、振り向いてもらえないかと淡い期待を視線に乗せるも、綱くんが振り返ることはなかった。彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
 止めることも、質問責めすることも今の私には出来ない。遠くなる愛しい人の背中を見つめていた。
 気の利いた言葉の1つも言えなかった。そんな言葉出てこなかった、言ったところで全てが嘘っぽくなってしまう。

 だって、今の私の心にある気持ちは。
 ――死なないで欲しい。
 この気持ちだけだった。


「あのー、大丈夫ですか?」

 病院の見回りをしていたであろう警備員さんに声をかけられた。空は暗くなり夜になりかけていた。綱くんが去っていった後も、中庭のベンチに座ってぼーっとしていたみたいだ。

「す、すみません。大丈夫です」

 気まずさに足早にその場を後にした。帰路に着くまで、溢れてくる涙が止まることはなかった。
 綱くんが言った言葉は心に重くのしかかる。儚げに笑う表情が目に焼きついて離れてはくれない。
 
 私の人生は、人に嫌われて、いじめられ、虐しいたげられる人生だった。
 目的も分からない、希望も消えて、先も見えない暗闇を、独りで歩き続ける人生だった。そんな私の元に綱くんが現れて光を見せてくれた。

 思い返すほど、何度も助けられたことを思い出す。
 どうして綱くんなのだろう。
 どうして。なんで。
 
 ――私が代わってあげられたら。

 心に芽生えた感情にハッとした。
 『誰かの苦しみを代わってあげたい』なんて思ったこと今までなかった。代わってあげたいと思うほど、彼を想っている。

 この感情が愛だと知った。
 後戻りが出来ないくらい、どうしようもなく好きになっていた。

 この止まることを知らない涙が答えだ。