綱くんが学校を休み初めて2週間が経つ。
 開かれた教室の窓からは、サッカーボールが蹴られる音、野球のバッドがボールを打つ音、生徒達の笑い声が飛び込んでくる。

 前の席にいたはずの綱くんがいない。見慣れた景色に消えた人影を探してしまう。空いている席を眺めていると、寂しい気持ちがとめどなく溢れてくる。

「綱くん、ずっと学校にきてないね」
「どうしたんだろう」
「鬼の子の呪い――とかじゃないよね」
「馬鹿。やめなって。そういうのやめるって言ったじゃん」

 私が好きって伝えたから、怖くなって学校に来なくなったのかな。罪悪感や後悔の念が止めどなく溢れてくる。
 
 廊下の通路からは、吹奏楽部が演奏の練習をしている音が、遠くの方から優しい音で耳に届く。耳に優しく、いつまでもこの音たちを聞いていたくて、目を閉じて耳を澄ましていた。

「花純?」

 自分の世界に入り込んでいた私の名前を呼んで現実に連れ戻してくれたのは、光希だった。
 待ち望んでいた人物ではなく、ガッカリしている自分がいた。

「光希――」
「話あんだけど」
「うん」

 改まって話があるというなんて、初めてのことだった。
 一緒に帰ることになったが、肩を並べて歩く二人の距離感は遠い。
 
「……」
「……」 

 話があると言ったくせに、一向に話し出さなくて、気まずい空気が流れる。
 

「今日も、綱は休みだった?」
「え、うん」
「心配?」
「う、うん、少し」

 本当は凄く心配で仕方ないのに、強がって嘘をついてしまう。

「顔に心配で堪りません。って書いてあるけど?」
「う、うそ」
 
 焦って慌てて顔を両手で覆い隠した。そんな私を見る光希の目がいつもと攻撃的な眼差しと違って優し気だった。


「綱が、好きなの?」
「そ、そんな……」
「あいつはやめとけ」
「そんなこと、光希に言われる筋合いないよ」
「こんな時期に転校してくるなんて、ろくな奴じゃないって言っただろ」
「綱くんはそんな人じゃないって。光希だってわかったでしょ?」

 綱くんのことを悪く言うのが許せなくて、責め立てるように口調が強くなる。
 

「あいつ、もう学校こないよ」
「ど、どういうこと?」
「……親父が言ってた。あいつ、入院してる」
「え、に、入院? なんで? じ、事故とか?」

 どくんと心臓が跳ねて、次にはどくどくと嫌な音を立てて心臓が鼓動する。
 今まで見たことないような悲し気に瞳を揺らす光希を見て、嫌な予感が全身をめぐる。

「だから、ろくな奴じゃないって言っただろ」
「待って、どうして綱くんは入院しているの? ねえ!」
「俺の口から言っていいことじゃないから……。連絡もないってことは、花純にも知られたくないってことだろ? だからあいつのことなんて……」

 声が曇ってきて聞いたことのないような弱々しいで呟くので、胸騒ぎが止まらない。
 なぜ、どうして。と繰り返し頭の中で問うばかり。

「……お願い。知りたい……」

 絞り出した声は震えていた。

「3階……W3病棟」
「え、」
「俺の口から言えることじゃねーから。知りたきゃ自分で聞けよ」
「あ、ありがとう」
「話はそれだけだ」
「あ、あのさ、なんで教えてくれたの?」
「は? 別に。あいつ生きてんんか。少し……気になっただけ」
「そっか。光希も綱くんのこと心配なんだね」
「はあ? お前、人の話聞いてんのか? 誰が心配してるなんて言ったよ」

 口では悪態をついているが心配していることが表情から伝わってくる。
 その場で光希と別れて、その足で病院へと向かう。

 あの日から、学校に来ていない綱くん。
 バスケが上手なのに、球技大会に出なかった綱くん。
 死ぬのが怖くないと言った綱くん。
 たまに見せる、いつもと違う顔の綱くん。

 今まで頭の片隅の残っていた違和感が、次々と頭に浮かんできた。信じたくないのに、これまで感じた違和感が事実だと主張するようだった。
 それはまるで、散りばめられたパズルのピースがはまっていくかのようだった。

 入院しているといっても、大きな病気とは限らない。
 手術して数日で退院するかもしれない。病気ではなく怪我をしたのかもしれない。
 命に関わる病気だとは限らない。そう思うのに、どうして嫌な胸騒ぎが収まらないのだろう。

 大丈夫。きっと大丈夫。そう思えば思うほど、何故か不安になってくる。不安で胸が落ち着かない。

 光希に教えてもらったW3病棟を目指す。看板で確認したが、診療科は書いていなかった。今は個人情報とやらで記載していないのかもしれない。綱くんが入院している病棟が何科なのか分からない。余計に不安は強くなるばかりだった。

 外来は患者さんで溢れかえっていたのに、離れていくに連れ、病院の廊下を歩く人だかりはだんだん減っていく。雑音も減っていく。


 廊下の角を曲がると、W3病棟が見えてきた。
 まだ何科なのか分からない。掻きむしられるように乱れる心をなんとか落ち着かせようと、何度も深呼吸を試みる。呆然と立ち尽くす私のそばを、スッと通り過ぎる人がいた。私は反射的に言葉を投げかける。

「あ、あの……ここは何科ですか?」
「ここは『緩和ケア病棟』よ?」

 突然声を掛けられた婦人は少し驚いたような表情をして、次の瞬間には柔らかい笑顔で答えてくれた。その答えと同時に心臓に痛みが走る。

『緩和ケア』その言葉の意味を頭が理解すると考える力が止まった。何も考えられない。考えたくない。
 テレビで聞いたことがあるくらいの知識でも、その言葉の意味が分かった。気が動転して頭が上手く回らない。

 緩和ケア病棟に入院しているからって、命に危険があある病気だとはまだわからない。そうだよ。違うよ。綱くんが死ぬわけ……ない。動揺を鎮めるために、何度も自分と会話をした。暗示のように「大丈夫」その言葉を繰り返していた。

 動揺して立っているのがやっとの私に優し気な声で、ナース服に身を包む看護師さんが声をかけてくれた。

「あれ? その制服って……」
「あ、えっと、渡辺綱くんって……」

 平然を装い綱くんの名前を口にした。
 「そんな名前の患者さん知らないよ」そう言って欲しい。心の中で必死に願った。


「綱くんの友達? なんだー。いつも友達なんていねーから。とか強がってるくせに、こんなに可愛い彼女いるんだ」
「彼女じゃ……あの、綱くんに聞いてここに来たんですけど……」

 嘘をついた。病気のことを聞き出すためだ。


「綱くんから、聞いてるんだ……」
「は、はい」

 嘘をついた罪悪感が重くのしかかる。しかし、罪悪感を背負ってでも、彼がなぜここに入院しているのか知りたかった。不安で押しつぶされそうな自分を一刻も早く助けたかったのかもしれない。
 
「そう……。なるべく一緒にいてあげてね。残された時間、有意義になるように私たちもサポートを誠心誠意努めるから」

 彼女の言葉に頭が混乱する。気が動転して言葉が出てこない。今の言い方って。

「残された時間」それって、まるで――。
 もうすぐ死んでしまうみたいじゃないか。

 そんなはずない。そんなはずない。
 そう思うのに、心のどこかでそう予感していたのかもしれない。
 現実を受け止めきれず、心が動揺して、手足が震えだす。

「今、綱くん呼んでこようか? 今日は調子もよさそうだったし、病室にいるはずだから」

 看護師さんの問いかけに答えられなかった。綱くんの口から聞いたら、本当の真実になってしまう。綱くんが死ぬなんて受け入れたくない。真実を知るのが怖くてたまらなくなり走ってその場から逃げた。

「あ、ちょっと待って!」

 背後から聞こえる看護師さんの呼び掛けにも振り向くことが出来ずに走った。
 病院で走ってはいけない。走る私を好奇な視線が突き刺さる。

 家に帰る気にもなれず、病院の中庭のベンチに腰掛けた。深呼吸して、走って息が上がった肺を落ち着かせた。しばらく経つと、乱れた呼吸は整ったのに、心の動機は収まってはくれない。

 看護師さんの言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っている。上を向いて込み上げてくる涙を食い止めて、ひたすら空を眺めていた。青空の青と、夕暮れのオレンジが混ざり合い、綺麗な空が広がる。普段なら綺麗と感じるはずなのに、そう思える心の余裕が今の私にはない。