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「おはよう」
「おはよー」
朝の挨拶をする生徒達の声が乱雑に飛び交う。
そんな中、誰にも挨拶をされずにいつも通り1人で教室へと向かう。
昨日は思いっきり説教をされた。光希が帰宅した後も、母の機嫌が悪くて家の中の空気はどんよりしていた。
今朝も気まずさを残したまま、家を出てきた。蔵の鍵を無理やり開けて、無断で入り込んだ私たちが悪いので仕方ない。
破り取られた書物のことが気になるが、目をつけられたこともあり、当分の間は蔵に近づけそうにない。呪いを解く方法があるなんて、淡い期待をしてしまった。期待することはもう忘れて、今までの日常に戻るだけだ。
学校の空気を吸いこむと、活気あふれた球技大会のことを思い出した。余韻がまだ残っているおかげで足取りは軽くなる。
ガラッ、ドアを開けて雑談が飛び交う教室へと一歩踏み出す。ガヤガヤと雑談していたクラスメイトの視線が一気に私に向けられる。
突き刺さる視線は、今までと同様だった。
球技大会で少し話したからって、今までとなにが変わるわけないか。
心の片隅にあった淡い期待は瞬時に消えた。
心に鎧を被った。悪口を言われても心が傷つかないように。
悪口を言われる準備は出来た。大丈夫。慣れっこだから。
鎧をまとい、身構えていると、予想していたものとは違う言葉を投げかけられた。
「鬼王さん、球技大会お疲れ様!」
「肩大丈夫だった?」
「シュート上手かったね」
「女子バスケの得点王!」
耳を疑った。私に向かって放たれた言葉は、悪口や中傷ではなかったからだ。
「え、」
あたたかい言葉に慣れていない私は戸惑いを隠しきれない。
優しくあたたかい言葉達は私に向かられてるはずがない。と後ろを振り返ったり辺りをキョロキョロしてしまう。
「みんな、鬼王さんに言ってるんだよ」
挙動不審な様子をみて、私の気持ちを察してくれた一ノ瀬さんが教えてくれた。
みんなが私に話しかけてくれている。
悪い意味ではなく、注目されているのも急に恥ずかしくなる。どこかに身を隠したいくらいだった。
クラスメイトから悪意のない視線を向けられるのは初めてだ。気恥ずかしい気持ちを乗り越えて、自分の気持ちを精一杯声に出す。
「きゅ、球技大会に、さ、参加させてくれてありがとう」
盛大に噛んだ。ドキドキと緊張で心臓がはち切れそうな中、自分の気持ちをなんとか言語化出来た。
反応が怖くて目を固く瞑った。返答がなかなか耳に届かず、失言をしてしまったかと不安が襲ってくる。
おそるおそる顔を上げると、クラスメイトの気まずそうな顔が視界に飛び込んできた。
「勝てたのは鬼王さんのおかげだしね」
「お礼を言うのは、俺らっていうか……」
「うん、なんか……」
「球技大会に参加してくれてありがとう」
「あと、謝りたい事あるっていうか……」
「その、今まで酷いことしてごめん」
あちこちから聞こえる声と共に、まず頭を下げたのはクラスの中心にいる目立つ男子だった。謝率先して私にいじめをしていた人物でもある。
「私も嫌がらせをしてごめんなさい」
「俺、机に落書きした。ごめん」
「私は酷いことを、わざと聞こえるように言った。ごめんなさい」
次々と謝罪の言葉が聞こえてくる。予想をしていなかった展開にコミュ障が発動して、挙動不審になる。
なんて返せばいいのだろう。教室は何とも言えない異様な空気に包まれる。
「なに? 何事?」
困り果ててる時に、あくびをしながら気だるげそうに教室に入って来たのは綱くんだった。
「俺ら、今まで鬼王さんに酷いことして来たから……謝ってたんだよ」
状況を把握出来ていない綱くんにクラスの男子生徒は言いにくそうに説明した。終始気まずそうな表情を浮かべている。
私とクラスメイトの顔を交互に見た綱くんは、私の戸惑う姿を見て状況を感じ取ったようだ。
「花純は? どうしたいの?」
「……私は、」
綱くんは、困っている私にいつも助け舟を出してくれる。
せっかく、みんなが謝ってくれてるんだから平穏に終わらせたい。「私も鬼の子で悪いから」と、自分をぞんざいに扱えばこの場は丸く収まる。
そう頭では分かっているけど、気持ちの方が追いつかない。
私、本当は――。
本音を言おうとするが、喉まで出かかった言葉が出てこない。みんなに伝える勇気が出ない。
口をパクパクとするだけで声が出ない。そんな私の背中をポンッと優しく押してくれた。
背中を押されると同時に、意を決して口を開いた。
「……私、本当は嫌だったし、辛かった」
ありったけの勇気を振り絞って自分の気持ちを伝えようと思った。俯いていた顔を上げて、私に視線を向けるクラスメイトに向けて言葉を投げかけた。
「毎日のように悪口を言われるのも、机に落書きされるのも、机と椅子を毎日廊下に放り出されることも、嫌だった。心にナイフが刺さったように、痛くて……苦しかった」
いくら言葉で打ち明けても、あの時に感じた辛い心情をすべて伝えることはできないだろう。ただ、少しでも、ほんの少しでもいいから伝わって欲しい。言葉は武器になるということを。あなた達の言葉は、私の心に今も突き刺さったままだということを。
私がこんなことを言うとは思ってもみなかったのか、みんなポカンと口を開けて固まっていた。
「本当に、毎日が苦痛で辛かった。私は何もしてないのに。生まれたくて鬼の子に生まれたわけじゃないのに……だから、今回は私鬼の子だからって、謝りたくない!」
私は心の叫びを声にした。「私も鬼の子でごめん」と社交辞令のように謝れば、済む問題だったのに。すべて吐き出してしまった。心臓はバクバクと嫌な音を立てて鳴り響く。
ずっと背負っていたものを吐き出せて心はスッキリしている。清々しい気持ちでいっぱいだ。私はずっと、この感情を吐き出したかったのかもしれない。
「そうだよね。本当にごめんなさい」
「申し訳なかったと思ってる」
「本当に酷いことをしてしまったと反省してる」
「謝って許されることじゃないと思うけど……」
次々と謝罪の言葉が届く。私なんかが、意見をしたので怒られると思っていた。素直に謝られたことに驚きを隠せない。
「花純、謝られてるけど、許す? 許さない?」
「今まで凄く辛かったけど、謝ってもらえたのは、素直に嬉しいです。すぐには無理かもしれないけど、これからは、少しずつみんなと話せたら嬉しいでふ」
みんなの前で発言する緊張感に動揺して、大事なところで盛大に噛んでしまった。
重い沈黙が続いていたが、綱くんが「ここで噛むなよ」と軽い突っこみを入れると、空気感が変わった。教室全体を穏やかな空気が覆っていた。
クラスメイトと笑い合う日がくるなんて。
暗闇に1人取り残されたと思っていた昔の自分に教えてあげたい。
今までのことを全て忘れる事は出来ないけど、素直に辛かったと伝えられた事で、私の中の胸のつかえが取れた気がした。
教室の空気がこんなに清々しいのは、初めてだ。
「良かったな」
私にだけ聞こえるくらいの声量で、優しい声で囁くと背中にポンと触れた。
今回も助けてもらった。辛い時や困ってる時に、手を差し伸べてくれる。暗闇の世界に独りでいた私にとって、綱くんは光だった。
綱くんの後ろの席に座ると、大きな背中が、手を伸ばせばすぐ届くところにある。
いくら感謝しても足りない。込み上げてくる、このあたたかい気持ちはなんだろう。ずっと、ここに居たくなるような、この気持ち。
休み時間、前の席に座る綱くんは私に身体を向けて話かけてきた。
「昨日、大丈夫だったか?」
母に促されて一足早く帰宅した綱くんは、心配してくれているようだった。申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「うん……かなり絞られたけど」
「だよなー。俺も改めて謝罪に行こうか?」
言葉遣いは少々乱暴で、突拍子もない行動をしたりするのに、こういうところはしっかりしている。好感度が上がるしかない。
「それは、大丈夫。ただ、せっかく鬼の子の呪いを解く手掛かりを探そうって言ってくれたけど、当分は無理そう……」
「そっか」
「でも、本当にありがとう。……探そうって言ってくれて、う、嬉しかった」
改めてお礼を伝える。恥ずかしさから語尾が消え入りそうにか細くなっていく。
「あー、何も力になれてないけどなー」
「そ、そんなことない! 綱くんの存在にどれだけ救われているか!」
高ぶった気持ちはそのまま声に表された。突如大きくなった声量にぽかんと口を半開きで驚いている。
「花純って、なんか面白いよな。くくっ。いきなり大声出したり……」
「こ、これは、人と極端にコミュニケーション不足だから……慣れてなくて」
「今まで一人で頑張ってたんだもんな」
優しい眼差しを向けると共に、大きな手のひらが頭にそっと触れた。頭をなでるように優しかった。
初めて会った日に、迷うことなく私に触れた彼は、難なく私の頭にも触れるのだ。
鬼の象徴のツノを見ても、引いたり蔑さげすんだりせずに触れてくる。胸の鼓動はどんどん早くなって波打つばかりだ。
幼い頃から、鬼の子の呪いのせいで、周りから嫌がられ、罵られ、悪意のある視線を向けられるばかりだった。そんな人生を歩んできた私からすると、綱くんのする行動は、全部新鮮で嬉しいことばかりだ。
ただ、彼は何を考えているのか分からない。
何故、躊躇なく私に触れられるのか。
鬼の子の呪いは怖くないのか。
何故、公園でマスク越しにキスをしたのか。
私のことをどう思っているのか。考え出すと分からないことだらけだった。
分からないことだらけだけど、今のこの自分の気持ちは、もう――。
誤魔化しようがない。
誤魔化しようがないくらい、ドキドキしている。
だめだとわかっている。
鬼の子の私が、恋をする資格なんてない。
わかってる。わかっているけれど。
この生まれた感情に名前をつけるなら、これが恋かもしれない。
高鳴る鼓動に胸がはち切れそうになっていると綱くんのスマホの着信音が鳴り響く。「ちょっとごめんな」そう言ってスマホの通話ボタンを押した。私を手助けするようなタイミングでスマホが鳴り、正直ほっと息をついた。あのまま見つめられていたら、鼓動が速くなるばかりで心臓が止まりそうだったからだ。
私は綱くんに触られた髪の毛を、自分の指でなぞる。途端にさっきまでの光景が頭に浮かんできて、恥ずかしさで顔が熱くなる。1番後ろの席で良かった。恥ずかしさで真っ赤に染まった顔を、誰にも見られずに済んだから。
また明日も、明後日も、その次の日も、綱くんと話したい。今はそれだけで幸せだ。
好きな人がいるだけで、こんなにも毎日が色鮮やかになるなんて、知らなかった。
ずっと真っ黒だった私のキャンバスに、色彩が戻ってきたような感覚だった。
明日は、なにを話そう。
今度、また遊びに行こうと誘ったら、きてくれるだろうか。
今までは明日のことを考えても、こんなに満ち足りた気持ちになることなんてなかった。
綱くんのことを考えると、こんなにも幸せであたたかい気持ちになれる。
この幸せがずっと続けばいいのに。胸の奥のあたたかさが恋しくて、そう願わずには居られなかった。
「――好き」
昂った気持ちは溢れ出した。
心の声を口に出していた。
言うはずのなかった言葉。言わずに大切に閉まっておこうと思っていた言葉。
綱くんは通話をしているので、きっと聞こえていない。期待を込めて顔を上げると、耳に当てていたスマホはすでに彼の手の中に収められている。「あ」と短い声を上げて、気まずそうな表情を浮かべる。
きっと、聞かれてしまった。そう解釈するのに時間はかからなかった。
思いがけずに気持ちが伝わってしまった。
呼吸がしずらくなるくらい、緊張が全身に回る。言ってしまった手前、言葉を待つことにした。
「ごめん。あの、俺は――」
視線を逸らし呟いた言葉は予想していた言葉だ。分かっていた。こうなることを分かっていたから言うつもりなどなかった。分かっていたくせに、しっかり心は傷ついている。
「わ、私の方こそ、ごめん! なに言ってるんだろう。間違えたの! ご、ごめん!」
綱くんが何か言いかけたのを分かっていた。分かっていて、聞きたくなかった。これ以上傷つきたくなかったんだ。
一方的に言い残して、その場から走って逃げた。
フラれることなんて、分かっていた。
私に恋する権利などないのだから。
フラれて後悔はしていない。この温かい気持ちも、幸せな気持ちも、好きという感情が教えてくれたから。
ただ、綱くんが言いかけた言葉が、今になって気になる。
明日もう一度話そう。
勇気を出して、続きを聞こう。
そう決意したのに……その儚い願いは叶うことなく散っていく。
――次の日から綱くんは学校に来なくなった。