叔父さんの働く病院に着くと、病院特有の消毒の匂いが鼻に残った。この匂いは昔から嫌いじゃない。

 叔父さんは本来内科医なのだが、鬼の子(わたし)の事は医師も嫌がり診てくれないので、整形外科医の代わりに診察してくれる。本来の内科の診察が終わってから、診てもらえるということだったので、病院の待合室の人目の少ないところで待つことになった。

 そんな私を横目に見て、ヒソヒソと話す人達は多かった。これだから病院は嫌いだ。鬼の子の光希はもちろん有名だ。今日は隣に光希がいることで、悪口や中傷の数は少ない。

 待合室で長い待ち時間の後、診察室へと通された。診察室には一段と消毒の匂いが強くて鼻に残る。



「だいぶ内出血してるけど、レントゲンで見るには骨は折れてないようだね。湿布貼って様子を見てみよう」
「叔父さん、ありがとう」

 今もジンジンと鈍い痛みがある肩は、ただの打撲で良かった。安堵の溜め息が自然と漏れた。


「それにしても、光希から連絡来た時は驚いたよ。花純が球技大会で怪我したっていうから。」
「叔父さん忙しいのに、ごめんね」
「全然いいよ。良かったな。球技大会に参加出来て」

 叔父さんは優しく微笑んでくれた。叔母さんや光希の高圧的な口調と違い、話し方もゆっくりで性格が穏やかな人だ。その優しさのせいで、叔母さんに主導権を握られ、逆らえないというのは欠点でもある。



「花純、表情が柔らかくなったね?」
「え、そう?」
「笑顔が自然で、笑う回数が増えたよ」

 自分では全く気づかなかった。叔父さんに指摘されて、初めて気づかされた。


「うん。実は今日初めて高校生活が楽しいと思えたんだ。ドラマや漫画でしか見たことがなかった学園生活が、自分の目の前で起きててね……」


 優しい叔父さんになら、胸の内を話してもいいと思えた。相槌を打ちながら聞いていた叔父さんは目頭を押さえて、嗚咽の声が漏れ出した。


「お、叔父さん?」

 いきなり泣き出したので、私は驚いてあたふたする。


「良かった……花純、よかったね」

 どうやら叔父さんは、私が高校生活が楽しかったと言ったことが嬉しくて泣いているらしい。
 私のことで泣いている叔父さんを見て、なんともいえない幸福な気持ちになる。

 コンコン。
 診察室のドアがノックされ、光希が大きな溜息を漏らしながら、呆れた顔で立っている。


「親父、遅いと思ったら何泣いてんの?」
「花純、高校生活が楽しいって……叔父さん、その言葉を聞けたのが嬉しくて……だって、あの花純が……うぅ」
「あー。はいはい。ジジィの「だって」はやめてくれ。クソキモい。母さんにバレたらまた怒鳴られるよ?」
「そ、それは……光希言わない、でくれ」
「小遣い」
「……取引成立だ」

 やはり叔母さんに頭が上がらないらしい。

「花純、帰るぞ」
「うん。叔父さんありがとうね」

「花純、本当に良かったな。本当に……」

 また泣き出してしまった叔父さんを残して、私達は病院を後にした。




 外出ると肌に当たる風が冷たい。風に木の葉が揺さぶられている。9月半ばになると、夕方は一段と冷える。やっと残暑が終わったかと思えばもう一気に秋だ。

 今日という1日は、経験したことのない夢のような時間だった。
 みんなとスポーツが出来たこと。たくさんの人に声援を送られ応援されたこと。楽しすぎてあっという間に過ぎ去ってしまった。

 満ち足りた気持ちは言葉1つでどん底につき落とされる。

「お前さ、なに球技大会とか出ちゃってんの?」
「……」

 私が球技大会に参加したことが納得いかないような顔をして、冷ややかな視線向けてくる。さっきまでの満ち足りた感情が抜け落ちて行く。

「……クラスの了承得たんだからいいでしょ」

 決死の反発も、鼻で笑い飛ばされた。

「あいつが転校してきて、ちょっと味方されたくらいで調子乗ってんのか?」
「……綱くんのこと?」
「同情で味方されてんのに、そこまで調子乗れる花純って……すげぇな。馬鹿だろ」

 光希の言葉は居心地が悪い。激しい嫌悪感を抱く。
 隣から漂う空気がピリピリしていて、今日は特に機嫌が悪そうだ。

「あいつだって、三年の二学期に転校してくるなんて、なんか訳ありだろ? 前の学校で暴行事件とかやらかしたりしてな」
「綱くんはそんな人じゃないよ。憶測でそういうこと言わないで」
「あ?  お前、本性知らないだけじゃねえの?」
「綱くんはそんな人じゃないよ! 光希の方が知らないくせに、悪く言わないで」
「お前、あいつに洗脳でもされてんのかよ。絶対ヤバい奴じゃん。明日学校中に言いふらしてやる」
「やめて……」

 私の訴えに聞く耳を持たず、スタスタと歩いて行く。苛ついている様子の光希を見ると、有る事無い事変な噂を言いかねないと思った。
 自分のことは良くても綱くんのことを悪く言われるのは、どうしも許せなかった。
 そして、今日は幸せなことがありすぎた。幸せすぎて私の感覚を狂わせた。
 
「ねえ! 綱くんのこと、でたらめな悪口を言いふらしたりしないでよ? ねえ!」
 
 聞く耳を持たない光希に苛立ち、勢いで腕を掴んでしまった。
 触れたと同時に、本物の鬼のような血相で腕を思い切り振り払われた。その力は凄まじく、払われた腕ごと私の身体は宙に浮いた。お尻から尻餅をつく。

「おい! なに触ってんだ! 穢らわしい! 俺に触るな! 殺人鬼!」

 光希の言葉が心に鉛のように重くのしかかる。尻餅をついたお尻よりも、心の方が痛かった。
 ぞっとするような表情で、汚いモノを見るような目で睨んでくる。
 綱くんが普通に触れてくるのが日常化してしまい、感覚が狂っていたのかもしれない。間違いを犯したのは私だ。腕に触れた私が完全に悪い。

 立ち上がれない私を見下ろす眼差しが、凍るように冷たくて身体が震える。

「お前、なに勘違いしてんだよ。お前は人を殺すかもしれない殺人鬼なんだぞ? なに普通に話して、腕掴んでんだよ? そんな権利お前にないだろ」
 
 光希の言葉は鞭のように心を叩いていく。私が触れてしまった。悪いのも事実だ。幸せボケをしてしまった心は、また暗い闇に覆われていく。

 私の目の前で仁王立ちをして見下ろされる。まるで私たちの関係性を表すようだった。孤独に追いかけられる。抜け出せたと思っていたのは幻想だった。これが現実だ。頭の上から耳を塞ぎたくなるような暴言が降ってくる。言葉に蹴落とされ、立ち上がりたいのに立ち上がれない。


 「――花純っ」
 
 遠くから声が聞こえてくるような錯覚に陥る。
 きっとまた幻想だ。自分に都合のいい幻想だ。だって、この声は――。

「花純! 大丈夫か?」
 
 俯いて地面しか映っていなかった視界を広げる。顔を上げると目の前には、しゃがみ込み顔を覗き込む綱くんがいた。

「本物――?」
「なんだよそれ」

 ふっと軽く笑う。本物だ。
 ただ顔を見ただけで、ただ声を聞いただけで、心を覆っていた闇が晴れていく。
 
「やっぱり心配で……病院に行ってみたら、今帰ったって言われて……。光希……くん? 女の子が尻餅着いたら手を貸すのが男だろ?」
「なっ。そいつは女じゃねーだろ、鬼の子だろ」
「女の子だよ。立派な女の子だろ」
「呪われてる鬼の子なんて、人間じゃねーよ」
「……」

 綱くんは急に黙り込み、なにか考えるような表情を浮かべている。

「あのさ、鬼の子の呪いって誰が言ったの?」
「言ったんじゃねーよ。そもそも呪われた鬼の子が産まれるなんて200年ぶりなんだよ。知るやつ生きてるわけねーだろ。鬼王家に伝わる書物に記されていたんだ」
「それって、確実なわけ? 呪いなら……その呪いを解く方法はないのか?」

 改めて聞かれると答えが分からなかった。
 幼い頃から、「呪われた鬼の子に接吻された者は死ぬ」
 そう何度も言われ続けてきたので、事実なのだと疑うことがなかったからだ。

「確実かと聞かれると……誰にも分からない。令和の現在、知ってる人がいないから……」

 ――鬼の子の呪いを解く方法。
 考えた事がないわけではない。鬼王家に産まれたのだから、鬼の子の呪いは背負っていかないといけないとばかり考えていた。

 鬼の子の呪いを解く方法があるかもしれないという可能性は、考えないようにしていた。期待や希望を持つほど、辛くなることを知っていたから。


「でも、お父さんとお母さんが呪いを解く方法がないか、調べてくれたよ? 調べてもなかったって……」
「それって、いつの話?」
「私が生まれた頃って言ってたけど……」
「花純が生まれた頃の話なら、だいぶ昔の話じゃん。もう一回調べてみないか? 俺たちで」

「あのさ、俺たちの中には、まさか俺も入ってないよな?」

 光希は心底迷惑そうな表情を浮かべて綱くんに視線を向ける。
 
「当たり前じゃん! 光希も入ってるけど?」
「なんでだよ。俺関係ねーだろ」
「どちらかといえば関係あるだろ。光希も鬼の子だろ?」
「そ、そうだけど……」

 光希が誰かに言い負かされているのを初めで見た。
 綱くんは言葉選びが上手い上に、その言動には謎の説得感があるのだ。

「気持ちは有り難いんだけど……調べるのは難しいかも」
「あー、俺もそう思った」

 私と光希は顔を見合わせてお互いに頷いた。光希も難しい理由を知っているのだ。

「鬼王家の歴史や呪いのことが書いてある書物は、鬼王家の蔵にあるの。でも数ヶ月前から蔵は立ち入り禁止されてる」
「昔は鬼王家の者なら誰でも入れたんだけどな」

 我が家は旧家なので敷地内に蔵がある。そこには代々受け継がれてきた鬼王家の歴史が記さられた書物が沢山保管されているのだ。

 子供の頃は,秘密基地代わりに蔵に入って光希と遊んだりもしていた。昔は蔵の鍵は鬼王家にあって、子供の私たちでも鍵のある場所を知っていた。
 だけど、数ヶ月前に蔵は立ち入り禁止と言われ、鍵は行方が分からなくなったのだ。

「知られたくない何かがある。とか?」
「知られたくない何かって?」
「よそ者の俺には分からねぇけど、立ち入り禁止にした理由が、なにかしらあるってことだろ?」

 考え込むように、全員黙り込んだ。言われてみれば、いきなり蔵が立ち入り禁止になったのは引っ掛かる。

 期待してはいけないのは、分かってるけど。
 もしも、鬼の子の呪いが解く方法があるのなら、私も普通の女の子として生きられるのだろうか。

「私……調べたい。鬼の子の呪いを解く方法」

 精一杯勇気を振り絞り、自分の気持ちを声にした。反応が怖くて、恐る恐る顔を上げた。笑顔の綱くんと、怪訝さを丸出しの光希の対照的な2人の顔が視界に映る。

「けってーい! もちろん光希もな?」
「なんで俺が……」

 ぶつぶつと文句を言っているが否定はしないので、手伝ってくれるということだろう。
 口は悪くて、嫌味ばっかりしか言わないが、根は子供の頃のまま優しいのかもしれない。

「ありがとう」



「まずは、蔵の鍵が何処にあるかだな」
「お父さんかお母さんが常に持ってるなら、もうアウトだよね。バレずに鍵を奪うなんて不可能だもん」
 
 綱くんは、なにか考えているような顔をして言葉を発した。

「鍵ってどんな形なんだ?」
「うーん。確かよく見る鍵だよ?」

 思いついたようにスマホをポケットから出した。スッとスマホの画面を指で操作していて、なにか検索しているようだ。


「その鍵の形ってこれか?」

 グイっとスマホの画面を私の目の前に突き出した。その画面を覗き込む。映し出されていたのは、鍵の写真だった。古い記憶を辿って、鬼王家の蔵の鍵はこの写真の鍵と同じ形だったことを思い出した。


「そう! この形と同じだよ」
「シリンダーね……これなら俺イケるかもしんねェ」

 イケるとは――。その言葉の意味を理解できなくて、頭の中には疑問符が沢山浮かんだ。


「お前、まじかよ……どんな人生歩んできたら、できんだよ」

 不思議そうにしている私の隣で光希は目を見開いて驚いた表情を浮かべる。心なしか喜んでいるように見える。その表情を見て、疑惑が思い浮かぶ。

「もしかしてだけど……鍵を開けられるかもしれないってこと?」
「あー。実際の鍵穴見るまでは、まだ分かんねーけどな」

 肩を回して腕捲りをしたりして、だいぶやる気満々に見える。
 
「綱! 鍵開けるのにどんな道具が必要なんだ? まず、それを準備しないとな」
「あー。それならあるから大丈夫」


「あるの?」
「あんの?」

 驚いて張り上げた声が2つ重なる。声がシンクロした私たちを横目に、ゴソゴソとピッキング用品を取り出している。「何で普通の高校生がピッキング用品を?」と質問したいことで頭の中で大渋滞だ。
 ピッキング用品を慣れた手つきでゆらゆらさせ、余裕の笑みを浮かべせてみせた。

「今日、叔父さんと叔母さんは?」
「あー、最近お父さんとお母さん、家にいないことが多いんだ。私に会いたくないのかも」
「ふーん。まあ、忍び込むには好都合というわけか」