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 球技大会の種目決めから数日。
 初めてクラスメイトに話しかけられた日以来、私の机に落書きされることも、廊下に放り出されることもなくなった。
 机と椅子は今日も教室に置かれている。私の日常に変化が訪れた。
 変化といってもそのくらいで、クラスメイトとの距離は相変わらずだった。特別に近くなったわけではなく、話しかけられることはほとんどない。

 それでも、今までの悪口や中傷を言われ続けた生活から比べれば十分だった。

 球技大会に参加できるようになった私は、なんとか点数を入れてクラスの役に立ちたいと意気込んでいた。しかし、バスケチームの練習には参加できないままだった。私が参加したら迷惑になるかな、と気が引けて参加できなかった。



「花純は、バスケの練習に参加しないの?」
「私が参加したら、迷惑なるかなって……」

 そんな私の様子を気にかけてくれる綱くんに、私はどうすることが正解なのか分からず、顔が俯いてしまう。


「今日、時間ある? ちょっと付き合えよ」
「え、」


 私の返事なんて待たずに、そそくさと私の通学バッグを奪って歩いていく。


「……ちょっと待ってよ」

 通学バッグを奪われたので、断る選択肢はなくて、後についていった。


 綱くんが歩いて向かった先は、学校から歩いてすぐのところにある公園だった。
 走り回る子供達の歓声や、遊具で遊ぶ子供達の笑い声が賑やかに聞こえてくる。


 昔からある小さめの公園で、子供が遊ぶ遊具の他に、この公園の端の方には小さめのバスケットコートとリングが置いてある。子供の頃に光希の付き添いで、ここでシュートの練習をしたことがあった。
 長年使われてきたので、決して綺麗とは言えない。年季の入ったバスケのリングだ。

 バスケのリングのそばにコロコロと落ちていたバスケットボールを拾うと、私目掛けて容赦ない力で投げてきた。


「……わっ」

 いきなりの投げられたので、情けない声が出る。驚きながらも、ボールを見事にキャッチできた。

「本当は、練習したかったんだろ?」
「うん、でも……」
「俺が特別に指導してやるよ」
「え、いいの?」
「ああ、俺の指導は優しくないけどな」


 綱くんには、何もかも見透かされているようだった。
 私を気にかけてくれたことが嬉しくて顔は緩んでしまう。





「フォームが汚い!」
「力が弱い!」
「だから! ボールの持ち方ちげえよ!」


「……はい!」


 綱くんに見守られながら、一生懸命になってシュートの練習を重ねる。
 バスケ指導は想像する何倍も厳しかった。だけど、その厳しさが私のためだと思うと、嬉しさの方が強く感じて、嫌だと思う気持ちは生まれなかった。


「下手くそ」とぼやきながらも、シュートのコツを何度も教えてくれた。口は悪いけど、本当は誰よりも優しい人だと改めて感じる。

 練習に没頭していると、気づけば辺りは暗くなり始めていた。

「ちょっと待ってて」

 そう言い残すと、何処へ小走りで向かって行った。
 綱くんがいなくなったうちに、さっとカバンから鏡を取り出し、自分の顔を確認する。

 バスケの練習に没頭しちゃったけど、汗で顔乱れてないかな?
 運動して、汗ばんだ額をハンカチで拭って、アイブロウが落ちてないか、じっと見つめた。
 鏡の中の自分の顔の表情が緩みっぱなしな事に驚いた。そんな姿に「私、何してんだろ」と思わず笑ってしまう。

 戻ってきたかと思えば、手にはスポーツ飲料のペットボトルを持っていた。
「ほい」と乱雑に渡されたペットボトルは、ひんやりして、運動で熱ほてった体には嬉しい。


「休憩するか」

 返事の代わりに頷いて、ベンチに腰掛けた綱くんの隣に黙って座る。
 普段は前後の席で、近い距離にいるけれど、いつもと座る位置が違うだけで、なんだかやけにドキドキしてしまう。ちらりと横顔を見上げると、あまりに綺麗なので、私の心臓はさらに波打つのだった。
 ドキドキと鼓動がうるさいので、隣に座っている綱くんに、私の鼓動が聞こえてしまわないか心配になる。


「余計なお世話だったか?」
「え?」
「球技大会、参加する形になったけど俺が勝手に進めたから。迷惑だったかなって……」

 優し気な声で聞いてくるので、心配してくれているのが伝わってくる。


「……ありがとうだよ! ありがとうの言葉しかないよ!」
「くくっ。そっか」

 出てきた声は自分でも驚くくらい大きな声だった。大声で否定したものだからそれが可笑しかったのか、肩を揺らして笑っている。

「花純は、強いよな」
「私が、強い?」

 予想外の言葉にびっくりして、思わず声が裏返りそうになる。

「嫌がらせされても、気にもしてないような顔してさ、なんで、そんなに強くいられんの?」
「……本当は凄く心が痛いよ? でも、泣いたり悲しんだりしたら、自分に負けな気がしてさ。鬼の子に生まれてしまったのは変えられないから、受け入れようって、思ったの」
「受け入れる、か。……深いな。その言葉」

 そう言葉にした綱くんは、今まで見た事がない儚げな表情をしていて心が騒ついた。そんな表情にも私の心は、惹きつけられてしまう。

 夕日のオレンジ色に照らされた表情に、胸の奥がツンと痛くなる。
 この気持ちの正体が分からない私は、聞きたくても聞けなかった言葉を、意を決して投げかけた。


「綱くん、前に言ってた死にたがりってどういう意味? 考えても分からなくて。綱くんは、その、死にたいの?」
「……」

 ずっと聞きたかったけど、怖くて聞けなかった。気を振り絞って言葉にしてみたけど、沈黙の時間が恐怖を掻き立てる。10秒程度の間が、途轍とてつもなく長く感じた。

「死にたかったんだけどな……」
「……」
「今は……少し死にたくなくなった」

 ポツリと吐き捨てるように言葉を放つ。哀しげな目をして、遠くの夕日を見つめていた。

「し、死にたいなんて思わないで欲しい、です。理由は分からないけど、綱くんは私の救世主だから」
「……救世主? 俺が救世主。ははっ。それは死ねないなー」
「本当に救世主なんだよ? 綱くんと出会ってから私の日常に光が灯ったんだから」
「花純の救世主になれたのなら、俺の生きている意味あったかな」

 綱くんは笑顔を浮かべているが、いつもの笑顔ではなかった。無理やり笑っているように見えた。言葉に詰まる私に、優しい眼差しで反し続ける。

「生きてれば、きっと誰かは見てくれるよ」
「え」
「きっと、病気になる奴も意味があるように……花純が鬼の子に生まれたことにも意味はある……そう思わねぇと、やっていけないよな」
「綱、くん?」 
 
 綱くんの言葉の本当の意味がわからなかった。
 その言葉の裏に隠された想いを、汲み取ることができなかった。

 綱くんの言葉の意味を理解したくて、考え込んで俯いた数秒の間に目の前が陰で暗くなる。不思議に顔を上げると彼の綺麗な顔があった。

「――っ」

 あまりの距離の近さに、心臓がドクンと跳ねる。金縛りにあったように身体が動かなかった。距離はさらに近づいて、彼の吐息を身近に感じた。まったく余裕がない私は、今の状況が理解できていなかった。

 固まっている私にさらに近づくと同時に、マスク越しの口元にあたたかな感触が伝った。
 口元の感触が離れると、至近距離の揺らいだ瞳と視線が重なる。
 今、起きたことは数秒のできごとなのに、何が起きているのか理解が出来なかった。完全に思考は停止している。

「マスク越しはセーフだったな」

 耳に届いた声にハッとして、彼に視線を向けると、悪戯な笑顔を浮かべていた。それでも頭の理解が追いついてこない。そんな私に言葉を続ける。

「なに? 分からなかった?……もう1回する?」

 甘く囁いて顔を近づけてきた。
 そこでようやく状況を理解する。

 キス。マスク越しにキスをされた。
 そして、もう一度されるのではないかと思うほど、距離を詰めてくる。

「だ、だ、だ、だめだよ!」

 思わず出た叫び声と同時に、目の前にある私より一回り以上大きな身体を両手で思い切り突き飛ばした。
 そして、不安が1つ襲ってくる。


「呪い。鬼の子の呪いは発動してない?」


 『鬼王家の女児は呪われた鬼の子。呪われた鬼の子に接吻された者は死す』
 鬼の子の呪いが頭を過る。綱くんは突き飛ばされた反動で、土の上で仰向けになり動かない。
 全身に恐怖と身震いがした。
 どうしよう、綱くんを殺してしまったかもしれない。
 今まで感じたことのない恐怖が全身を駆け巡る。怖くてたまらなくなった。

 急いで駆け寄ると、焦りまくりな私は、無我夢中で肩を揺らす。

「綱くんっ! 綱くん!」

 返答がない。冷や汗が首を伝う。
 どうしよう。マスク越しに接吻をしてしまったせいで、綱くんは――。


「マスク越しならセーフって言っただろ?」
 
 動揺している私をよそに、綱くんは体をむくりとゆっくり起き上がった。
 

「よ、よかったあ。死んじゃったかと思った」
「悪い、悪い。あまりにも必死だから、意地悪した」


 ホッとして全身の力が抜けてその場に座りこんだ。謝りつつもちっとも悪びれた様子のない彼は、目を細めて笑っていた。


「な、な、なんで……キスしたの?」
「――したくなったから?」

 私の質問に何故か疑問系で返された言葉は、想像していた返答を遥かに上回っていて、私はもう返す言葉が見つからない。綱くんの考えている事が分からなすぎる。やはり彼の取扱説明書は必須だ。

 人生で初めてキス(マスク越しだけど)された私は、動揺しすぎて思考回路が停止した。
 この後のことは、正直あまりよく覚えていない。
 暗くなってきたので家まで送ってもらい、たわいもない話をしたような気がするけど、私の心は浮き足でそれどころではなかった。

 私からすれば、大事件のようなことがあったのに、当の本人は「全然気にもしてません」とでもいうように、いつもの態度と変わらない。
 私ばっかり振り回されているようで、悔しいけれど、恋愛経験がない私は、綱くんに敵うはずもないのだ。

 どういう意図があって、マスク越しにキスをしたのか。
 私に好意を抱いてくれているのか。
 鬼の子の呪いの実験台になってくれたのか。

 どんなに考えても、答えは出てこない。
 真相を知りたいけれど、怖くて聞けそうにもない。

 この日は、なかなか寝つくことができなかった。
 翌日も、その次の日も、毎日放課後のバスケ練習に付き合ってくれた。


 綱くんの顔を見ただけで、キスされた時の光景が頭の脳裏に浮かんできた。耳まで真っ赤になる私をよそに、彼は「気にもしてません」とでも言うように、全く変わらない態度で悔しさを覚えた。


 私ばっかり気にしてるようで、なんだか悔しくて、キスのことには触れなかった。
 触れたいような、触れたくないような……。

 これ以上足を踏み込むのは怖くて、私から聞くことはできなかった。



「下手くそ」
「頑張ってるのに……」
「早く上達してくれよ。俺の自由時間がなくなるだろ?」
「そ、そうだよね。綱くんの大事な時間奪ってごめんね。教えてくれなくていいよ。なんか、ごめんね」
「ばーか。冗談だよ。嫌だったら最初から練習に付き合ったりしない」

 避けられる人生だったため、人との会話に慣れていない。冗談と本音の境界線が私には難しい。
 文句を言いながらも、毎日しっかり練習に付き合ってくれた。体力的に辛いはずの練習は、辛いと全く感じなかった。この時間が続けばいいのに――。心の中で願っていた。


「こんなにバスケが上手なら、綱くんもバスケに出たらいいのに」
「俺は……面倒なのは嫌いだから」

 真剣な面持ちで困ったように息を吐いた。
 その表情は、綱くんが怒っているのか、悲しんでいるのか分からない。意味深な表情をしたかと思えば、次の瞬間にはいつもの表情に戻っていたので安堵する。

 私がシュートを決めると、自分の事のように八重歯を除かせて無邪気に笑ってくれる。そんな姿を見ると、胸がいっぱいで感情が溢れ出しそうになる。

 ただ、私が恋をしたって無駄なのだ。
 相手を困らせてしまうだけ。

 綱くんを困らせることだけはしたくなかった。
 そう考えてる時点で、負けなのかもしれないけど。

 ――私はこの感情を絶対に認めない。
 この感情の正体を考えないように、練習に没頭した。




 最初で最後の球技大会、何か爪痕を残したい。
 綱くんへの感情と気持ちの整理ができないまま、球技大会は明日へと迫っていた。