本殿の裏へ戻ると、東雲が座り込んでいた場所から立ち上がり、辺りをキョロキョロと見回している。
 なんと声をかけようと逡巡しているうちに、俺に気が付いてこちらをふり返る。

「よかった。居た……」

 その声音がいかにも安心したふうで、表情も柔らかくて、俺のほうこそ安堵した。
 以前のように普通に話しかけてもいいのだと、許しを貰えたような気がした。

「これ」

 ラムネの瓶を差し出すと、少し目を見開いたあと、更に柔らかく東雲の表情が崩れる。

「ありがとう」

 両手で受け取って素直に頭を下げられるので、俺はなんとか笑顔で応えようと努力した。
 そうすれば、東雲のほうも昔のような笑顔を見せてくれるのではないかという打算があった。

 しかし意識して笑おうとすると、逆に頬がひきつる。
 おかしな顔にならないようにと気合いを入れているうちに、東雲の表情は硬くなっていった。
 若干俺に背を向けて木製の階段に腰を下ろしてしまったので、俺も東雲に背を向けて近くの木に寄りかかる。

(何やってんだ、俺)

 何か話をするわけでもなく、一緒にいるとも言い難い距離感。
 これでは、偶然この場に居合わせたまったくの他人と変わらない。
 違うのは、俺が買ってきたラムネが、今東雲の手にあるということだけ――。

(くそっ)

 やけくそ気味にあおった炭酸の強すぎる刺激が、喉の奥で弾けて苦しい。
 それでも構わず、もっと流し込もうとした時、背後から小さな叫びが聞こえた。

「え? あれっ? うわっ」

 同時に炭酸の弾ける音が聞こえて、俺は思わず後ろを振り返る。
 手にしたラムネの瓶から泡を溢れさせている東雲の姿を見て、反射的にその細い手首とガラス瓶に手を伸ばした。

「バカ、放せって」

 暴言じみたもの言いに反発することもなく、東雲は素直に俺の指示に従い、ラムネの瓶を手放す。
 あとからあとから泡が溢れてくるその瓶を、俺は自分の身体から離して持ちながら、いったいどうしてこんなことになったのだろうかと考えを巡らせた。
 考えるまでもなく、これほどの泡が出てくる理由は一つしか思い当たらず、訝りながらも問いかけてみる。

「なあ、お前……これ、振った?」
「うん……振った」

 俺の声にはっと顔を上げた東雲が、きょとんとした顔で当然のように答えたので、つい噴き出してしまった。

「いやいやいや……ははっ、振んなよー」
「――――!」

 俺の顔を見て一瞬大きく目を見開いた東雲が、次の瞬間、つられたように笑顔になる。

「え? だって、振っちゃいけないなんて、そんなこと知らないよ……初めて飲んだんだから」
「え? マジで?」
「うん」

 ほらやっぱり買ってきてよかったと、誰にともなく自慢したくなる気持ちを必死に抑えながら、俺は東雲にもう一度ラムネの瓶を手渡した。
 せっかく普通に話が出来ているこの時間を、一秒でも長く維持したかった。

「初めてだったらビー玉の向きも間違えんなよ」
「ビー玉?」
「そう、中に入ってんだろ。それを逆さまにしたら飲めな……」
「え? うわっ」

 言っている傍から東雲がビー玉の向きなど気にせずラムネの瓶を口にあて、中身が不規則に溢れ出てくる。

「はははっ、お前、俺の話聞けって」
「ごめんごめん」

 俺は笑いながら、ラムネで濡れてしまった東雲の耳上の髪を指ですくい上げた。
 東雲もされるがまま、笑っている。

 しかし、かすかに自分を見上げる角度で微笑むガラス玉のような瞳を見た瞬間、俺はふいに中二の夏の出来事を思い出してしまった。
 この瞳に吸い寄せられるようにして、思わず唇を重ねてしまった、愚かな自分――。

「――――!」

 反射的に、飛び退くように東雲から離れ、その突然の行動に、東雲が呆然と瞳を瞬く。

「あ……」

 何か言わなければ間が悪いと焦り、俺はとっさに口をついて出た言葉をそのまま彼にむかって放った。

「河藤と……仲がいいんだな」

 驚いたように見開かれていた東雲の目から、瞬く間に光が失われていくのが見て取れる。
 ほんのついさっきまでの穏やかな雰囲気は跡形もなく消え去り、東雲のまとう空気が急速に冷えたように感じた。

「友だちだから」

 東雲のほうも俺と距離を取り、顔を背けて、完全に視線を逸らす。

「理華が……気になるの?」
「え? いや……?」

 どういう意味だろうと、質問の意図を考えることを放棄して、俺は曖昧に言葉を濁した。
 気になるのはお前のことだという正直な気持ちは、口に出すには少しおかしなものだと感じた。
 口を噤むと、もう会話が続かなくなる。

(さっき、何を言いあってたっけ? ……確か……そう)

 どうにか話を繋げようと、俺は必死で記憶の糸を手繰った。

「なんか、抜け駆けがなんとかって……あれって……」
「え……?」

 がばっと俺をふり返った東雲の白い頬に、さっと朱色が走る。
 ように見えたのは――その瞬間バーンと打ちあがった花火のせいかもしれなかった。

「あ……」

 思わず見上げた頭上の夜空に、大輪の光の花が無数の花びらを広げる。
 瞬く間にも消えてなくなるそれが、ぱちぱちと残像を残す中で、俺の耳が東雲の小さな呟きを拾った。

「それは……」

 しかし次の瞬間、またも打ちあがった花火の大きな音に、かすかな声はかき消されてしまう。

(――――!)

 悔しい思いで、こうなったらまた東雲の傍に行くしかないと、勇気を振り絞って一歩を踏み出したのに、間にわらわらといくつかの人影が入り込んできた。

「あ、いたいた」
「よかったあ、見つけた」
「よ、宇津木もいるじゃん」

 それは形だけ一緒に祭りに来たはずの東雲の取り巻きの女たちで、うまく合流出来ていたらしい仲尾と田浦もそれに混じっている。

(くそっ!)

 東雲と二人だけの時間を邪魔された憤りに、何か彼の口から答えが聞けそうだったのを妨害された怒りも合わさり、俺は今まで誰にも見せたことがないような嫌な顔をしているに違いないのに、女どもも仲尾たちもまったく気にした様子はない。

「花火、裏からになっちゃうけど、もうここでいいんじゃない? 人もいないし」
「そうだね、みんな揃ったし、ここでいいか」

 どうやらこの場所でこのまま祭りのフィナーレの花火を鑑賞することが決定したらしく、俺は大きなため息を吐く。

(結局、ちょっと近づけたと思ったら、また元の距離に戻っただけじゃないかよ……)

 この祭りに来た目的が、仲尾が片思いをしている村川美雨と一緒に行くための付き添いだったことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。
 東雲となんとか昔のように接したいという気持ちだけで、いつの間にか頭がいっぱいだった。
 それなのにその村川が、他の女たちにわからないようにこっそりと、東雲に近付いていく姿が目の端に映る。

(――――!)

 それは次々と大きな音を響かせている頭上の花火などまったく気にすることなく、ただ東雲ばかりを見ていた人間が、この場に二人――俺と村川――存在したということだった。
 だから俺は、浴衣姿の彼女がおそるおそる東雲の腕に手をかける前に、俺が渡したラムネの瓶を握ったままの東雲の手を、一瞬早く奪うように掴んだ。

「――――!」

 驚いたように俺を見た東雲に、何も言うことなく、強く引いてその場から駆け出す。
 それはまるで、人並みでごった返す参道で、東雲が俺の腕を引いて走り出した時と同じように――。

(え? あれってまさか……いや、そんなはずないよな……)

 今の自分と同じような心境と場面で、東雲も俺の腕を引いたのではないかと一瞬思ったが、すぐに否定する。

(他のやつに連れて行かれたくないとか……触られたくもないとか……そんなの絶対ありえない)

 俺が今、東雲に対して抱いている感情が、かなりおかしなものだという自覚はある。
 だから自分以外の人間も、そう思って行動することがあるかもしれないなどと、とても考えられない。

「宇津木……?」

 悶々と考えながら走り続ける俺に、東雲が訝るように呼びかけてきたので、なるべく明るい調子を心がけながら笑って顔を向けた。

「花火。見るのにいい場所があるって前に言っただろ……教えてやるから、行こうぜ」 

 驚いたように見開かれた東雲の瞳に、花火の光が映りこんで、色とりどりに輝く。

「…………うん」

 柔らかく微笑んでくれたその笑顔が見れただけで、俺の思考と行動がかなりおかしくなっていることも、置き去りにした連中になんと思われているかなんてことも、もうどうでもいいと思えた。