薄暗い神社の境内には縞模様の提灯が連なり、平素の静かで厳かな雰囲気からは想像もつかないほど、たくさんの人間でごった返している。
 参道には様々な屋台が軒を連ね、本殿へと進んだ先の広場には櫓が組まれ、盆踊りも催されているようだ。
 祭り囃子の笛や太鼓の音が遠く聞こえてくる。

 しかしその音色が近くなることは一向になく、俺たちは延々と屋台の列の前を歩いている。それも亀のような歩みで。

「だって仕方ないだろう?」

 前後左右ぎっちりと人に挟まれながら、その動きに合わせて前進するしかなく、目の前の背の高いお姉さんの高く結い上げた髪に挿された簪の向こうから、時々ちらちらと顔が見えるだけの仲尾が不満げに呟く。

「こんなに人が多いとは思ってなかったんだ……でもこれじゃ、誘った意味ないじゃん」

 仲尾が言っているのは、やつが片思いしている村川美雨のことで、確かにその姿は、俺の見える範囲内にはない。

「あーあ、こんなはずじゃなかったのに……」
「気を落とすなよ、あーちゃん」
「うるせ、『あーちゃん』って呼ぶな、時生」

 いつものやり取りで相変わらず仲尾に怒られている田浦に至っては、途切れ途切れに声が聞こえてくるだけで、姿はまったく見えない。

「苦しいし暑いし、ほんと何しに来たんだかわからないよな」

 思わず呟くと、仲尾がお姉さんの簪越しに申し訳なさそうな顔をした――ような気がする。よく見えないので定かではない。

「ごめん、宇津木」
「いや、仲尾のせいじゃないけど」

 実際、人ごみに揉まれるのは疲れるし、そもそも俺は無駄な外出が嫌いだし、いったい何のためにここに居るのだろうと思う気持ちは本物だったが、そのことに少なからず感謝しているところもある。

(これならあいつが……東雲が女どもに囲まれている光景は、もう見ずに済みそう……)

 三十分ほど前、待ち合わせ場所にした神社近くの公園でその光景を目の当たりにした時、俺は想像していた以上に気分が悪かった。
 それは、憧れの村川美雨が、精一杯のおしゃれをして東雲に笑顔を向けている姿を、何も言えずに見ているしかなかった仲尾と、そう変わらないほどの不快感だったのではないだろうか。
 いや、単に不快なだけではなく、腹が立って仕方がないという意味では、むしろ俺のほうが上だったかもしれない。

(なんだよ、これ……なんで夏休みになってまで、こんな場所でこんなもの見せられなくちゃならないんだ?)

 見た目のいい男一人に、たくさんの女という構図が、これほど癇に障って許せない俺は、よほどの平等主義者か、人並み以上に僻みっぽい男なのだろう。
 これまで小学生の弟が何人の女の子に告白されたと自慢してきても、二つ年上の姉が五年付き合っている彼氏との惚気話をどれだけ語っても、羨ましいと思う気持ちなど微塵もなく、華麗にスルーしていたつもりだったが、自分で気が付いていないだけで、実は妬んでいたのだろうか。

(わからないけど……とにかくこれは最悪だ)

 俺は頑なに東雲には背を向けて、絶対にそちらを見ないと心に決めた。
 そうすればかろうじて、今夜は男友達と三人で夏祭りに来ただけだと錯覚できる。
 それはそれで、なぜそんなことをわざわざと、自問自答せずにはいられないのだが――。

 精神衛生上の健康を保つため、別行動をわざわざ提案するまでもなく、東雲と女たちとはすっかりはぐれてしまい、俺は内心安堵していた。

(仲尾には悪いけど……)

 そう思ってお姉さんの簪の向こうに目を向けると、そこに仲尾の姿がない。

(あれ?)

 首が回せる範囲で周囲を確認して、仲尾も田浦もいないことを確かめた。

(よし)

 人ごみの中ではぐれてしまったのなら、もう仕方がない。
 俺がここで帰っても言い訳は立つし、誰にも文句は言われない。

(これは、不可抗力だな)

 そう心の中で言い訳して、人ごみをかき分けてUターンしようと身体の向きを変えた時、Tシャツの裾を引かれた感覚がした。

「え……?」

 思わずふり返ると、すぐ後ろに長い黒髪の女が立っている。

「あ……」

 これは確か、いつも東雲の一番近くにいる女だ。
 苦々しい気持ちでよく見ていたから、俺が見間違うはずはない。
 確か今日は、東雲によく見られたいからなのか、この女も大きな花の絵が描かれた浴衣を着ていた。白地に赤い花。

(間違いない、名前は確か……)

 そう考えながら、思わず声に出してしまった。

河藤理華(かわふじりか)

 俺の声にピクリと肩を震わせて、次の瞬間、真っ赤に塗られた彼女の唇が、蠱惑的に三日月を描く。

「私の名前知ってたんだ、宇津木君」
「あ、いや……」

 今さら言い訳のしようがなく、俺は正直に答えた。

「まあな」
「ふーん」

 初めて近くで顔を見たし、言葉を交わしたが、遠くから見ていた以上に、整った顔立ちの美人だと再確認する。
 東雲にぴったり寄り添っている女と思うから、これまで腹立たしい気持ちでしか見たことがないが、一人きりだと、顔と名前だけは知っているが話したことはないクラスメートとして、普通に接することが出来るから不思議だ。

「なんだよ?」

 俺のTシャツの裾を掴んだままの手を指しながら問うと、河藤はそれを放すことなく答えた。

「ああ……あのね、私みんなとはぐれちゃって……」
「俺もだ」

 ありのまま応えると、真っ黒な睫毛に縁取られた河藤の目が、きらりと輝く。
 同年代の女の顔なんて、姉貴以外はこれほど近くで見たことなどないが、お世辞抜きにしても河藤理華は綺麗な子なのだと思う。
 黒目がちの大きな目が、上目遣いで俺の顔を至近距離から見上げる。

「よかったら宇津木君、私と……」

 河藤が瞳をうっすらと滲ませて言いかけた時に、俺は横から強く腕を引かれた。

「うわっ!」

 それは、身長183センチの俺が、思わず身体のバランスを崩すほどの強い力で、周りの人波が若干まばらになっていたこともあり、腕を引かれるままにそちらへ身体を捻りながら、思わず一歩を踏み出してしまう。

「な! おい! ちょっと!」

 俺の腕を掴んでいるのが誰なのか確かめる間もなく、その場に倒れて人に踏まれないためには、腕を引かれるまま歩くしかない。
 なんとか足を動かして腕の主についていく俺の背後から、河藤の悲鳴じみた糾弾の声が響く。

「ちょっと! どこへ連れて行くのよ! この卑怯者!」
「卑怯者は理華のほうだろ! 抜け駆けすんな!」

(――――!)

 顔は確かめられないながらも、河藤に言い返している声と、心許ない提灯の灯りの下で時々チラチラと見える俺の腕を引いている人物の後ろ姿には覚えがあって、俺の心臓は急速で脈打ち始める。

(え……嘘だろ?)

 信じられない気持ちのほうが大きいのに、俺の腕を掴んでいる繊細そうな長い指の大きな手にも、目線の少し下でサラサラと揺れる淡い色の髪にも、確かに見覚えがある。

(そんなはず……)

 それでもこれは自分の妄想だと、俺は必死で自分の記憶力と視力を否定しているのに、背後から飛んでくる声が追い打ちをかける。

「そっちこそ抜け駆けじゃない! 陽登のばかあっ!」

 河藤の叫びに、俺の腕を引く人物がついにふり返った。

「うるさいっ!」

 それはちょうど提灯の真下で、そのぼんやりとしたオレンジがかった光に照らしだされた陶器のように色白の顔を、俺はきっと一生忘れられないだろう。
 ガラス玉のように綺麗な目に怒りの色を滲ませて、目尻と頬をほんのりと赤く染めた、息を呑むほどに綺麗な東雲陽登の顔が、そこにはあった。

 その横顔が、俺の目と記憶の一番深いところにまた新たに刻み付けられていく感覚を、まざまざと実感していた。