「ここだよ」

 東雲に案内されて到着した彼の家は、古い二階建てのアパートだった。
 錆びた鉄製の階段の下や、自転車置き場と思われる共同部分には、使えなくなった古い家電や、どこの部屋が出したのかわからないごみ袋や、破れたタイヤなどが放置されており、かなり荒んだ印象を受ける。
 チラシや郵便物がドアの郵便受けスペースに突っ込まれたままの、誰も住んでいないような部屋がいくつもあった。

「汚いでしょ」

 何も言葉を出せずに突っ立ったままの俺に、東雲が困ったように聞いてくるので、俺は必死に笑顔を作る。

「そうでもねーよ。うちだって変わらないよ」
「そう?」

 首を傾げた東雲に真っ直ぐな視線を向けられるのが居心地悪いくらいには、それは嘘だった。

 確かにうちは特別裕福な家庭ではないが、ごく普通の一軒家で、二階建ての家の中には俺だけの部屋があるし、小さいながらも母親が花をたくさん育てている庭と、父親の車を停めるガレージもある。
 小学校から一緒の地元の友人たちの家もどれも似たようなもので、そもそも賃貸暮らしが少ない上に、そうであるならば小綺麗なマンション住まいがほとんどだ。

「…………」

 それ以上肯定の言葉が続かない俺の心情を察したかのように、東雲が先に立って歩き出し、俺は適当に自転車を停めてそれを追いかけた。
 一階のとある一室の前で、東雲が足を止める。

「ちらかってるけど……ごめんね。そろそろ仕事に行く準備があるから起きてると思うんだけど……母さん……起きてる……?」

 東雲が押し開いた古い玄関ドアの向こう、アパートの部屋の中をのぞき見て、俺は絶句した。

「――――――!」

 そこでは裸の男女が、脱ぎ散らされた服の上で絡みあっていた。
 東雲によく似た色白の女性が、体格のいい色黒の男に圧しかかられて、苦しげに頬を歪めている顔が脳を焼く。

 エアコンが点いていない真夏の狭い部屋は、ブンブンと高速で羽根を回している扇風機だけではとても温度調節が出来ず、熱気がこもっている。
 いや、湿度の高い熱い空気が満ちているのは、気温のせいばかりではないだろう。
 こちらには背を向けている男の広い背中にも、それを挟むようにして頼りなげに揺れている女性の白い脚にも、じっとりと汗が浮かんでいる。

「え……はる、と……?」

 それまでくぐもった喘ぎ声を漏らしていた女性が、艶めいた声で東雲の名前を呼んだ瞬間、俺と同じようにその場で硬直していた東雲が、バタンと大きな音をさせてもの凄い勢いでドアを閉めた。
 そのまま俺の肩を両手で掴み、ぐいぐいと部屋から引き離すように押していく。

「ごめん! ごめん宇津木!」

 何度もくり返す声が涙交じりのように聞こえて、俺は東雲の表情を確認したいのに、深く頭を下げた彼はそれを許さない。
 そのまま、これまで感じさせたこともないもの凄い力で、俺を強引にアパートから遠ざける。

「東雲! 東雲って!」

 肩を掴む手を除けようにも力負けし、為すすべもなく背後に押しやられながら、目の前でサラサラと揺れる薄い色の髪の下で東雲の白い頬が涙に濡れているのがわかる。

(くそおっ!)

 力で敵わないと悟った俺は、東雲の両腕を掴みながら懸命に言葉を重ねた。

「大丈夫だから! 気にしなくていいから!」
「大丈夫なわけないだろ!」

 返ってくる声はあきらかに涙声で、俺はそれをなんとかしてやりたいのに、どうすることもできない。
 あまりの無力さに、自分で自分に腹が立つ。

「平気だって! そういうビデオも従兄弟のにーちゃんに見せられたことあるし! 父さんが隠してる本もしょっちゅう見てるし!」

 自分でも情けない言い訳だと思ったし、バカなことを言っていると重々承知だったが、東雲の悲鳴じみた声はことさら胸に刺さる。

「そういう問題じゃない!」

「ああ、うん。そうだよな……」なんて正直に答えてしまったら、俺をアパートの前の空き地の端まで追い詰めた東雲が、今度は背を向けて今すぐ目の前からいなくなってしまいそうで、俺はぎゅっと唇を噛みしめ、彼の腕を掴む手に力を込めた。
 決して逃がさないように。

「連れてくるんじゃなかった……馬鹿なことをした……なんでよりによって今日……」

 泣いていることを隠そうともしなくなった東雲が、細い肩を大きく上下させて必死に手で涙を拭いながら、嗚咽のような声を絞り出す。
 俺はなるべく優しく、囁きかけるように彼の名前を呼んだ。

「東雲……なあ……」

 目にした光景は確かに衝撃だったが、それを彼がこれほど気にする必要はないのだと、どんな言葉を重ねたら伝えられるのだろう。
 本を読むのも、国語の成績も、決して嫌いではなくむしろ好きで得意のはずなのに、肝心な時に何も言葉が浮かんでこなくて、そういう自分に苛々する。

「俺は……」

 思いがけないことになったけれど、それで東雲自身に嫌悪感を抱くことはないし、これまで通りに仲良くしたいのだと、拙いながらもどうにか伝えようとした時、彼が絞り出すような声で呟いた。

「宇津木にだけは嫌われたくないのに……」

 掠れた震え声を耳が拾った瞬間、息が詰まりそうなくらい大きく心臓が跳ね上がった。

「――――!」

 東雲の発したひと言が、ついさっき生まれて初めて目にしてしまった生の男女の絡みの場面以上に激しく、俺の感情を揺さぶる。
 心と身体に同時に、とてつもない負荷を与えてくる衝撃。

 ぎゅうっと握り潰されるような胸の痛みに必死で耐えながら、上げた視線の先で、東雲が俺を見ていた。
 ガラス玉のように綺麗な目と長い睫毛を涙で濡らし、唇を歪めながら、苦しくてたまらないといった表情で、縋るようにまっすぐ俺を見つめてくる。
 これまで経験したことのない近さで、胸を抉られるくらい悲しげな表情の東雲の顔を目の当たりにして、俺は衝動的に手を伸ばしてしまった。

 なぜそうなったのか。そうしてしまったのか。自分でもまったくわからない。
 気がつけば東雲の唇に自分の唇を押し当てていて、驚いた彼に平手打ちにされていた。

 パアンと大きな音が空き地に響き、俺に背を向けて走り去っていく東雲の足音が次第に遠くなっていくのを、俯いたまま聞いていた。
 それからしばらく、その場所から動くことができなかった。

(バカか、俺は……)

 その思いがずっと思考を支配していた。

(何やってんだ……)

 それ以来、俺は東雲陽登と一緒に学校から帰るどころか教室で話すことも、目を合わせることさえしていない。