夏の箱庭、まだ見ぬ花火に君を描いた

 *

 今朝の電車では、結夏を見ていない。
 いつものことだ。
 だけど、それは、僕に不思議な現実を静かにつきつけてくるようだった。
 あろうことか、僕は今日、本を持ってくるのを忘れてしまった。
 最後に読んだのは、あの文集だったな。どんな話だっけ。ああ、びっくりするくらい印象に残ってない。サナトリウム文学で、作者が久平由重という人。それから――僕が感じた、あの作品への既視感。
 スマホを持っていた。検索する。
 久平由重。文集。
 ――結論として。そんな作家はいなかった。
 やはり、個人的な文集のたぐいなのだろうか。書いた人物の本名かペンネームなのだろうか。
 そうだ、スマホを持ってるなら。水野さんに。ああ、僕、水野さんにメッセージが送れるじゃないか。
 『僕の名前の由来、昨日母さんに聞いたよ。楽しみにしててね』

 教室につくなり、僕はまだ席でひとりでスマホをいじっていた山本さんに言った。
 「山本さん。水野さん見た?」
 「? みず……? アンタなに言ってるの?」
 「……水野さんだよ。もう学校に来てる?」
 「“誰? それ”」
 それだけなのに。ああ、なぜだろう。嫌な予感がする。聞き取れなかったわけじゃなさそうだ。山本さんの、その反応って、つまり。
 それから僕の頭の中でひとつの考えが組み立てられていく。ここ数日のことが僕の頭の中にかけめぐる。
 ……もしかしたら、結夏は、あのとき僕と同じ電車に乗っていたんじゃないか。
 たしか、昨日は電車が混んでいたのに、僕の席の隣だけ、最後まで不自然に空いていた。
 もしかしたら、僕の座席の隣に座っていた人が――水野結夏がいたのではないだろうか。 
 それなのに――、
 「ちょっと、はっしー!?」
 ポケットの中のスマホが震えた。
 聞き慣れない通知音。
 僕が、さっき送ったメッセージへの返信。
 『橋場くんから送ってくるなんて珍しいなぁ〜、どうしたの!?
 私、もう学校ついてるよ〜!
 名前の由来、楽しみにしてるねっ!
 いやぁ、どんな素敵な由来が聞けるのかなぁ。うふふ、今のうちにハードルあげとこうっと』
 メッセージの返信にしては、いつもの会話をそのまま切り取ったような文面が、ちょっと可笑くて、でもすぐに、得体のしれない不安が僕の胸からせりあがってくる。
 僕は教室を出て、あの水野結夏という名前が似合う女の子の姿を探した。
 走り回っていると、他の生徒の視線をあちこちから感じた。
 あの子は、僕よりずっと、目立つはずだよな?
 ああ、校舎って、こんなに広いのか。