夏の箱庭、まだ見ぬ花火に君を描いた

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 読書とは、僕にとって現実から逃げる手段だった。
 自分の居場所がここじゃない気がする。そんなモヤモヤした感情をごまかすように、夢中でページをめくっていた。
 夢の中で、僕はマコト――知らない誰かとして、別の人生を送っていた。そこには、確かに恋があって、別れがあって……その記憶だけは、今でも胸の奥に残っている。
 けれど、現実の僕は、それを自分に置きかえることができなかった。
 恋愛小説は苦手だった。共感できないから。だけど、気づけば結夏と話した『クローバーと君がくれた夏』や『せつなさのシーグラス』のように、ページをめくる手が止まらなかった本がある。心に刺さってしまった。
 それでも読書は、どこかでエナジードリンクみたいなものだと思ってた。生きるための、気休めみたいなもの。
 ――そんなふうに思っていた僕に、結夏は言った。
 「君は、小説を読んで、自分の人生に生かすことができると思う?」
 あの言葉が、ずっと心に引っかかっている。
 そういえば、彼女は出会ったばかりの頃にこんなことも言っていた。
 ――「航ってすごくいい名前だね。あとで、両親に由来を聞いてみるといいよ」
 その言葉を、ふと思い出した。
 ふと、自分の名前のことが気になった。
 ずっと聞いたことがなかったけれど、あのときの言葉に背中を押されて、台所にいる母さんに尋ねてみたくなった。
 「母さん、ひとつ訊いていい?」
 「なあに?」
 「僕の……名前の由来って、何?」
 母さんの手から、茹でる前の水餃子がぽとりと落ちた。
 少しの沈黙。
 そのまま手を止めて、まっすぐ僕を見た。息子からこんな言葉を聞くなんて――明日は雪でも降るんじゃないかしら。
 そんな顔をしていた。
 母さんはそれからふっと口元をゆるめて、懐かしそうに語り始めた。
 「航がもうすぐ生まれそうになったとき、ふと空を見上げると、飛行機雲が空を横切っててね。ああ、きれいだなって思ったの。真っ直ぐに、どこまでも行けそうで……。だから、不安定な世の中でも、自分の道を進んで、誰かの橋渡しになれる人になってくれたらって。航の名前には、そんな願いをこめたの」
 聞き終えてから、一瞬だけ時間が止まったみたいな気がした。
 ――ああ、そうだったんだ。僕は、
 僕の名前は、“航”。
 誰かをつなぐ、橋渡し。
 そうだったんだ。僕の名前は、最初からその役割を背負っていたのかもしれない。
 そして、結夏。
 彼女の“結”もまた、人と人とをつなぐ字だった。
 きっと彼女は、そんなふうに生きてきたんだ。
 日々出会う誰かの心を、ちょっと強引に、だけどかたっぱしからていねいに結びながら。
 その誰かの一人に、僕がなれていたなら。
 本好きの彼女の影響で、自分の名前の由来を聞いただけで、本を読んで実際の人生に生かしたとは言えないかもしれないけど――
 それでも僕の胸の奥で、なにかがふっと、灯った気がした。
 「……ありがとう。聞けてよかった」
 「どういたしまして」
 台所を出て階段をのぼると、下の階から母さんの鼻歌が聞こえてきた。
 それだけのことが、どうしようもなくあたたかく感じた。
 ちょっとしたことかもしれない。それでも僕の胸の奥で、なにかがふっと、灯った気がした。
 水野結夏は、たしかに「灯してくれた」。だから、君の名前は、少なくとも僕にとっては人を結ぶ名前だった。
明日、水野さんに僕の名前の由来を教える。僕は十六年生きて、はじめて自分の名前の由来を母に聞いた。それは、間違いなく君の影響なんだって。
 僕は、君の名前、誇りに思うよって。
 彼女の存在感の薄さ、たまに見せる謎めいた言動とか、教室からいなくなったこと。その謎めいた言動や現象は、単なる興味の範疇を超えて僕をざわつかせている。だけど、もっと純粋に、今は学校で彼女と話せるのが――楽しみだった。
 ほんとうに、僕はどうしてしまったのだろう。