僕はその小説の最後の一文を、余韻に浸るようにぼんやりと眺めていた。
四月の放課後の教室は、いつの間にか水を打ったように静まり返っている。
机から顔を上げずに耳を澄ますと、残る生徒はもう僕だけのようだ。
――また、やってしまった。
ため息をついて、読んでいた文庫本の最後のページを閉じる。
春の眠りの心地良さなら、『春眠暁を覚えず』、とか言うけど、本を読んでていつの間にか時間が過ぎてしまった時は、何と言えばいいのだろう。
そんなどうでもいいことを考えていると、ふいに左肩を柔らかい感触がくすぐった。どうやら、誰かに横からぽんぽんと肩を叩かれたらしい。
はて、教室には僕以外誰もいないと思っていたけど。まだ先生や用務員の人に怒られるような時間でもなさそうだし。
何だろう、と文庫本を置いて肩を叩かれた方に視線を向ける。
「……それでも、構わない」
窓辺から、小さな鈴のような声がした。
そこに立っていたのは、同じ高校のブレザーの制服を着た、一人の女子生徒だった。彼女はこちらにまっすぐな背中を向けて、窓際のカーテンの横に立ちつくしていた。
両手を腰のあたりで組んだ後ろ姿は、窓枠から切り取られて差し込む陽のひかりも相まって、どこか儚げに思えた。
生暖かいそよ風が開けっ放しの窓から吹き抜けてカーテンを揺らすと、声の持ち主の彼女がふいに振り向いた。
――彼女は、同じクラスの水野結夏 だった。彼女は銀色のヘアピンをショートヘアーの前髪につけていて、窓辺の光が微妙に反射してまぶしかったけど、僕はなぜかその輝きから目をそらしたくなかった。
「誰かの弱みを握ったのなんて、人生で初めてだよ」
彼女は僕の顔をちらりと見上げて、そんな不穏な言葉を口にした。
「ねぇ、橋場くん――」
彼女は僕の名前を呼んでいる。薄く微笑んだ綺麗な唇は今にも次の言葉を紡ぎ出しそうで。だけど、その表情に反して、彼女の声はとても震えていた。僕を呼んだ声は、教室の外に流れる小さな川の清流の音にかき消されそうだった。
今にも泣き出しそうな弱々しい声音で、彼女は意を決したように言い放った。
「――ブックスタンドのことを言いふらされたくなかったら、私と友達になって」
「…………え?」
肩透かしを食らう、とはこういう事だろう。それは、彼女なりの精いっぱいの脅しのつもりだろうし、僕も思わず身構えたけど、実際はあまりにも可愛すぎる強請りのネタで。僕は思わず吹き出しそうになった。
「えっ、なんで笑うの?」
「ごめんごめん。でも、せめて目を合わせて話したらどう?」
僕が指摘すると、彼女は「だってぇ……」と元気なく言って、すすす、と窓の端に移動する。それから、揺れていたクリーム色のカーテンの内側に頭をくぐらせた。そのまま振り向いて僕と向かい合ったけど、制服のブラウスの上の表情は、厚手のカーテンにくるくると包まれて何も読めなかった。
「うわっ! ほこりくさっ」
カーテンの中で思いっきり息を吸い込んだのだろう。彼女は思いっ切り咳き込むと、がばりと布地を上げた。彼女の隠れていた顔があらわになった。
「うげぇ……。どういうわけか、めっちゃチョークの粉の匂いがしたよ。学校のカーテンってさ、もっとお日様の香りがするのかと思ってた」
彼女が涙目でぶんぶんと首を横に振る度に、艶やかなショートヘアーがさらりと揺れた。
陽の当たる窓辺に立つ彼女は、スラリと伸びた手足や色白な肌の色素も相まって、不思議な透明感をまとっていた。改めて顔をよく見ると、やはりというかなんというか、非常に整った顔立ちをしていた。
話は一週間前にさかのぼる。
四月の放課後の教室は、いつの間にか水を打ったように静まり返っている。
机から顔を上げずに耳を澄ますと、残る生徒はもう僕だけのようだ。
――また、やってしまった。
ため息をついて、読んでいた文庫本の最後のページを閉じる。
春の眠りの心地良さなら、『春眠暁を覚えず』、とか言うけど、本を読んでていつの間にか時間が過ぎてしまった時は、何と言えばいいのだろう。
そんなどうでもいいことを考えていると、ふいに左肩を柔らかい感触がくすぐった。どうやら、誰かに横からぽんぽんと肩を叩かれたらしい。
はて、教室には僕以外誰もいないと思っていたけど。まだ先生や用務員の人に怒られるような時間でもなさそうだし。
何だろう、と文庫本を置いて肩を叩かれた方に視線を向ける。
「……それでも、構わない」
窓辺から、小さな鈴のような声がした。
そこに立っていたのは、同じ高校のブレザーの制服を着た、一人の女子生徒だった。彼女はこちらにまっすぐな背中を向けて、窓際のカーテンの横に立ちつくしていた。
両手を腰のあたりで組んだ後ろ姿は、窓枠から切り取られて差し込む陽のひかりも相まって、どこか儚げに思えた。
生暖かいそよ風が開けっ放しの窓から吹き抜けてカーテンを揺らすと、声の持ち主の彼女がふいに振り向いた。
――彼女は、同じクラスの水野結夏 だった。彼女は銀色のヘアピンをショートヘアーの前髪につけていて、窓辺の光が微妙に反射してまぶしかったけど、僕はなぜかその輝きから目をそらしたくなかった。
「誰かの弱みを握ったのなんて、人生で初めてだよ」
彼女は僕の顔をちらりと見上げて、そんな不穏な言葉を口にした。
「ねぇ、橋場くん――」
彼女は僕の名前を呼んでいる。薄く微笑んだ綺麗な唇は今にも次の言葉を紡ぎ出しそうで。だけど、その表情に反して、彼女の声はとても震えていた。僕を呼んだ声は、教室の外に流れる小さな川の清流の音にかき消されそうだった。
今にも泣き出しそうな弱々しい声音で、彼女は意を決したように言い放った。
「――ブックスタンドのことを言いふらされたくなかったら、私と友達になって」
「…………え?」
肩透かしを食らう、とはこういう事だろう。それは、彼女なりの精いっぱいの脅しのつもりだろうし、僕も思わず身構えたけど、実際はあまりにも可愛すぎる強請りのネタで。僕は思わず吹き出しそうになった。
「えっ、なんで笑うの?」
「ごめんごめん。でも、せめて目を合わせて話したらどう?」
僕が指摘すると、彼女は「だってぇ……」と元気なく言って、すすす、と窓の端に移動する。それから、揺れていたクリーム色のカーテンの内側に頭をくぐらせた。そのまま振り向いて僕と向かい合ったけど、制服のブラウスの上の表情は、厚手のカーテンにくるくると包まれて何も読めなかった。
「うわっ! ほこりくさっ」
カーテンの中で思いっきり息を吸い込んだのだろう。彼女は思いっ切り咳き込むと、がばりと布地を上げた。彼女の隠れていた顔があらわになった。
「うげぇ……。どういうわけか、めっちゃチョークの粉の匂いがしたよ。学校のカーテンってさ、もっとお日様の香りがするのかと思ってた」
彼女が涙目でぶんぶんと首を横に振る度に、艶やかなショートヘアーがさらりと揺れた。
陽の当たる窓辺に立つ彼女は、スラリと伸びた手足や色白な肌の色素も相まって、不思議な透明感をまとっていた。改めて顔をよく見ると、やはりというかなんというか、非常に整った顔立ちをしていた。
話は一週間前にさかのぼる。