「え、なになに、もしかして私の話?」

 突然、すっかり聞き慣れた声が背後から飛んできた。
 ショートヘアの横髪が、首をかしげた拍子にふわりと揺れる。
 まるでびっくり箱のように登場した結夏に、僕も山本さんも思わず目を丸くして顔を見合わせた。

「結夏!?」
「いつの間に……水野さん、今どこから来たの?」

「今来たばっかりだよ~! ていうかさ、今日のふたり、ひどくない??……って、ふたりで?」

 今度は結夏の方が驚いて、目を丸くした。

「橋場くんが、私以外の人と喋ってる!? しかも、はっすーと!?」

「えへへ、おは~」

 山本さんが軽く片手を上げて挨拶する。

 でも、結夏の顔は少し不満げだった。

「『おは~』じゃないよ! もう、いつの間にそんな仲良くなったの?」

「んー、5分前くらいに友達になった」

 山本さんがさらりと答える。つまり、僕に声をかけてきた瞬間からということになるのか。

「5分!? たった5分でどんな魔法を使ったの? まさか脅して仲良くなったんじゃないよね」

「結夏じゃあるまいし。可愛いブックスタンドくらい、誰だって買うでしょ」

「え~~!? はっすーがなんでそんなこと知ってるの!? ちょっと橋場くん、どういうこと?」

「……朝から騒がしいなぁ」

「私はいつも通りです!……あ、そうだ!」

 何かを思い出したように、結夏が手を叩いた。

「そんなことより、橋場くん。さっき読んでた文集、あとで私にも貸してよ。ああいう本、読んだことないからすごく気になってて」

「……え?」

 心臓が一瞬、大きく脈打った。
 「文集」。その言葉に触れた途端、たった数十分前の朝の記憶がフラッシュバックのように襲いかかる。
 自分の行動を確認しなければならないような、家に鍵をかけたかどうかを思い出せない時のような、そんな妙な焦りだった。

「文集って……なんで?」

 かすれた声で訊き返す。

「えっ? だって、橋場くんさっき……ううん」

 結夏は何かを言いかけて、口をつぐんだ。

 おかしい。
 僕が今朝の電車で読んでいたのは、誰にも話していない。しかも、彼女は「今さっき来た」と言ったばかりだ。

「ねぇ……水野さん、ほんとに今来たの?」

「やだなぁ。他のクラスの友達に捕まってただけだよ」

 返ってきたのは、何とも曖昧な答えだった。

「まぁ……そういうこともあるか」

「だよー」

「……そっか」

 結夏が別の車両に乗っていて、たまたま僕が気づかなかっただけ。そう考えれば、話の筋は通る。

 でも――。

 山本さんの表情は納得していなかった。
 さっきまで彼女と結夏の“存在の違和感”について話していたばかりなのだから当然だ。

 とはいえ、あまり深く突っ込むのも違う気がした。
 仮に彼女が同じ電車に乗っていたのに、僕が気づかなかっただけなら、それだけのことだ。

「はーい、それじゃ出席取るぞー!」

 担任の先生が教室に入ってきて、高い声でそう言った。僕たちの会話はそこで打ち切られた。

……最近、僕の周りにはどうも騒がしい人が増えた気がする。

 山本さんもそうだけど、きっと原因は――水野結夏だ。

……みずの、ゆいか。

 いつしか、その名前が、やけに綺麗な響きを持っている気がしていた。

 そういえば、さっきの出席確認のとき、彼女の名前は呼ばれたっけ。

 ホームルームのあと、現代文の授業が始まった。
 若い担任の授業は、クラスでは“懲役50分”なんてあだ名がつけられているらしい。

 特に午後になると、あちこちで机に沈む生徒が続出する。
 結夏も例外ではなく、机に突っ伏して気持ちよさそうに寝息を立てる日もある。
 今日は朝イチだから、まだ大丈夫みたいだけど。

 そんな彼女がちらりとこちらを見て、片目を閉じてウィンクした。

 ――起きてられなかったら起こして、という合図だろう。

 今日の授業は、有名な詩人の詩についてだった。
 彼は生涯で3冊の詩集を出したという。
 喜怒哀楽に対応させるなら、どれかひとつ、書かれずに終わった感情があるのかもしれない。
 そんなことを考えていると、意外と時間は早く過ぎていった。

 もうすぐ終わりか――と、ふと隣の席に目をやった。

 ……え?

 教科書と筆記用具はきちんと机の上に並んでいる。
 けれど、そこに座っているはずの彼女――水野結夏の姿だけが、消えていた。