「あ、橋場くんって、ここに住んでたんだね」

 結夏は僕の家をしげしげと眺めながら、ぽつりと言った。

「初めて見た時から思ってたけど、なんかお洒落な家だよね。白っぽくて、綺麗」

「うーん、自分では普通だと思ってたけど……言われてみれば、たしかにそうかも?」

 毎日見ている家だから、そんなふうに言われると少し不思議な気分になる。

「僕の両親が芸術系の仕事をしててね。写真とか、デザインとか。家を建てたときに、趣味でああいう外観にしたんだと思う。……僕自身はそこまで興味ないけど」

「へぇ~、じゃあこだわりのマイホームって感じなんだ! わざわざここに建てるのも、なんか素敵」

「……まあ、僕にとってはありがた迷惑だよ。街から遠くて不便なだけだし」

「そんなことないよ。良いとこじゃん」

 確かに、春には神社の池と桜並木、夏には生い茂る緑、秋には紅葉と清流、冬は一面の雪景色――。

 父はよく、「観光地よりもこのあたりが一番好きだ」と言っていた。でも、僕はその良さをいまいち実感できずにいた。不便さの方が、ずっと印象に残っていたから。

「じゃあね。今日はありがとう」

 もっと話していたかった気もするけど、家に入れば母さんがいるし、何かと気まずくなりそうだったから、僕の方から切り上げた。

「こちらこそ! 橋場くんに選んでもらった本、ちゃんと読まなきゃね〜」

「ああ。感想、楽しみにしてる。でも、無理しなくていいよ。ゆっくりで」

「ふふ……ちなみに、君がそういう人じゃないのはわかってるけど、一応言っとくね」

「?」

 彼女は僕をじっと見つめて、にっこりと笑う。

「ついてこないでよね」

 そう言い残すと、片手を挙げてくるりと背を向け、向こうの道へと早足で歩いていった。

「……う、うん」

 ぽかんとして、僕も遅れて片手を挙げた。

 さっきまで楽しそうに話していたのに、「ついてこないで」と釘を刺すなんて。なにか、気に障ることでも言っただろうか。

 でも、彼女は不機嫌そうには見えなかった。むしろ、自然に笑っていたような――。

 だけど、彼女が向かった先には民家はない。あるのは、神社と、その前に広がる池だけ。

 “ついてこないで”という一言が、僕には思った以上に効いていたみたいで、僕はその場で素直に回れ右をした。

 そういえば、あの神社の池の前には、ちょうど良いベンチがあったはずだ。もしかしたら結夏は、あそこに座って、今日買った本を読むのかもしれない。そんな光景を、ふと想像してしまう。

 そして、思い出す。さっき彼女が言った言葉。

――『今日の本だってそう。橋場くんが選んでくれたからって理由だけじゃなくて、自分のものにしたいと思ってる。本を読むって、私にとってそういうことなんだ』


 そのときの結夏の表情には、どこか執着のようなものがあった。あれは、いったい何だったのだろう。

 連鎖するように、電車の中での会話も頭をよぎる。

――『橋場くんは恋愛小説に共感できないって言ってたけど、この本は好きなんだね?』

 ……好き、か。

 いや、違う。彼女はそう言っていたけど、本当は違うんだ。

 僕が選んだ『せつなさのシーグラス』は――

 好きになりたくても、どうしても好きになれなかった本だった。

 確かに、散りばめられた謎や伏線の回収は見事で、後半の展開はミステリー小説みたいなカタルシスがあった。でも、それでもなお、僕はこの物語を“好き”だと思えなかった。

 主人公の男の子の言動が、最後までどうしても受け入れられなかった。
 ヒロインのひとりに対しても、同じだった。共感できないどころか、拒否反応すら覚えた。
 そして、すべての謎が解けたあとも、胸に残ったのは“面白かった”よりも“モヤモヤした”という感情だった。

 ――好きになりたかったのに、なれなかった。
 ――面白かったことを、素直に認めたくなかった。
 それでもなお、僕の心に深く残ってしまった作品。

 そんな複雑な一冊を、なぜ結夏に勧めたのか。

 たぶん、それは。

 ――自分とは違う彼女が、この本を読んで、何を思うのか。
 その反応が、どうしても知りたかったからだ。

 僕はあの本を、“好きになった彼女”の感想が聞きたかったわけじゃない。
 “好きになるかもしれない彼女”が、どう向き合うのかを、見てみたかった。

 だって、僕と結夏は――似てなんか、いない。

 僕は、好きな本ひとつすら、素直に薦めることができない。
 そんな、ひねくれた人間なんだから。