僕が本を読む理由。
 僕はこの前言わなかったこと、誰にも言えなかったことを、彼女になら話しても良いかなという気持ちになっていた。
「僕……少し前までよく不思議な夢を見てたんだ」
「夢?夢って、夜に見る夢?」
「うん。その夢の中はとてもリアルで、内容が連続して続いてて……なんていうか、もう一つの人生を送ってたみたいなんだ」
 こんなこと言ってしまって、変な奴だと思われないだろうか。今さらそんな「らしくない」気持ちになった。あの夢の話は、僕が自分で思ってた以上にデリケートな問題だったらしい。少し不安になりながら、結夏の顔色をそっとうかがう。
「え!なんかすごいねそれ!夢の中でもう一つの人生を送るって、どんな感じなの?」
 良かった。深く考えず、純粋な興味を向ける笑顔がそこにはあった。
「うーん。説明するのが難しいけど、世界ってふたつあるんだっていうのが、子供の頃の僕の常識で、それくらい自然な感覚だったんだ。夜眠ると、あちら側の僕に切り替わって、どちらもたしかに僕なんだけど、境遇や日常生活で見える景色が全然違う。おぼろげだけど、向こう側には変わった建物が多かった。だから、人生って昼と夜とでふたつあるんだ、みたいな。子供の頃は、他の人も皆、眠って起きる度に二つの世界を行き来するんだって思ってたくらい。ある時期まで、皆が話す昨日見た夢の話って、彼らのもう一つの人生のことだと思ってた」
「へぇぇぇ。その話が本当なら、不思議だね。びっくりだよ。テレビのミステリー番組の取材とか受けられるんじゃない?」
「かもね。ただ、僕の夢の見方?とでも言えばいいのかな。それが特別だって気づいて、それから誰にも話さなくなったんだ」
――お母さん、航くんが保育園で私によくしてくれるお話のことなんですけど……。
――何かの症状だったりしないかしら。私、不安で……。
――まあ、今は様子を見ようじゃないか。子供は、見た夢を現実の出来事だと思い込むこともあるらしい。だけど、もし、今後あの子の言動に見過ごせないことがあったら……。
 幼い僕がした二つの世界の話が、両親を不安がらせていたことをなんとなく理解して、いつしか口にすることはなくなった。そして、自分の夢の見方が変わっているということをはっきり自覚してからは、今日までずっと胸の奥にしまっていた。
「でも僕、その夢に惹かれてしまうんだ。自分がいるべき場所はここじゃなくて夢の中に広がる世界じゃないのかって思ってるんだ」
 ぺらぺらと語ってしまってから、今さらまた少し後悔する。
 だけど、それでも結夏は真剣な表情で話を聞いてくれた。
「そうなんだね。けど、その話、私にして良かったの?」
「まぁ……どうせ信じては貰えないだろうし。でも、もし、誰かに訊かれることがあったら、きちんと答えようって心に決めてたんだ。それは、ちょうど君のような人に、どうして本を読むのかって問われた時に」
 自分と同じか、それ以上に本を読んでいそうな人にだけは、僕が本を読み続ける根源的な理由になっているあの夢の話を明かそう、と。僕はあの夢を隠してから、そして夢から目を背けるように読書の世界に逃げ込んでからも、そんなふうに考えていたんだ。
「……たくさん本を読んで色んな世界を知ってる人になら、フィクションだと思われても、何かの間違いで本気で信じてくれても。どっちに転んでも納得できそうな気がしたから」
 それなら誰も彼も、そして僕自身も傷つかずに済むと思ったからだ。だけど今は、勢いで喋ってしまってから初めて気づいたんだ。結夏こそ、まさに僕が夢の内容を話すことができる理想的な相手だって。
 結夏がこの考え方を理解できないなら、して貰わなくて構わなかった。結夏がどう思ったのかは分からないけど、彼女はふふ、と薄く笑った。
「もしかして、橋場君って意外とロマンチスト?」
「ロマンチスト、ねぇ。違うと信じたいよ。けど、あの夢のことは考える度に、どうしても感傷的になってしまうんだ」
「うふふ、そっか。……ちなみに、君は夢の中でどんな人生を送ってた?」
 どんな夢だったのか。
 本当に、どうしてだろう。結夏がそう訊く時、ためらいがちに見えたのは。それに、さっきは不安のほうが先行して気づけなかったけど、真っ先にした質問が、「どんな夢だったの?」じゃなくて、「もうひとつの人生を送るのはどんな感じか?」という疑問だったのは。
 だけど、そんな違和感は、突然心臓のあたりに襲ってきた痛みに塗りつぶされた。
「僕は――、」
 夢の内容。それを言おうとした途端に胸の奥がずきずきと痛んで、僕は思わず道の端で立ち止まって胸をおさえた。あの夢の内容を人に話すのが苦しいことだったなんて、初めて声に出して伝えようとした僕は知らなかった。あの夢の結末を見届けたあとの、起き抜けの喪失感が、こうして未だに尾を引いているなんて。
「橋場くん?」
 深呼吸をするけど、目の前がくらりとして、その場にしゃがみこんだ。
「だいじょうぶ?」
 ほんのり暖かい感触が背中に伝わる。結夏が背中をさすってくれているのだとわかった。
「――だいじょうぶ……だと思う」
 立ちくらみを引き起こさないようにゆっくりと立ち上がって、背中に触れていた結夏に答える。
 結果的に手を跳ね除けられるかたちになった結夏は、心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。
「ほんとうにだいじょうぶ?」
「うん。心配してくれてありがとう。けど、ごめん。夢の内容を話すことはできなさそうなんだ」
「……そっか」