僕が、本を読む理由。
これまで誰にも言えなかったこと。でも今なら、結夏になら話してもいいかもしれない。そんな気がしていた。
「……僕、少し前まで、よく不思議な夢を見てたんだ」
「夢? 夜に見る、あの夢?」
「うん。すごくリアルで、しかも何日もつづくんだ。まるで、もうひとつの人生を生きてるみたいで」
こんな話、変だと思われないだろうか――。
ふいにそんな不安がこみ上げた。自分でも驚くくらい、この話は心の奥にしまいこんでいたらしい。
おそるおそる彼女の表情をうかがうと――。
「え、それすごいじゃん! 夢の中でもう一つの人生って……どんな感じなの?」
彼女は目を輝かせて、純粋な興味のままに聞いてくれた。
「……説明は難しいけど、昔の僕にとっては“当たり前”のことだった。昼と夜で世界が二つある、って。
夜になると“もう一人の僕”に切り替わって、向こうでもちゃんと日常があるんだ。そっちは、建物とか景色が少し不思議で……現実とは違う空気感があってさ。
僕は子どもの頃、本気でみんながそうだと思ってた。他の人が話す“昨日見た夢”って、その人のもう一つの人生の話だと思ってたんだ」
「へぇ……。それ、テレビで特集されたら面白そうだよ」
「……かもね。でも、僕が変だって気づいてからは、誰にも言わなくなった」
幼い僕が語った夢の話が、両親を困惑させていたのを、なんとなく覚えている。
――子供の空想じゃないかしら。でも、もし続くようなら……。
――様子を見よう。夢を現実と混同する子もいるって聞くから。
そう言っていた大人たちの顔が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。
それから僕は、この話を口にしなくなった。そして、夢の中の“世界”から目をそらすように、本の世界にのめり込んでいった。
「でもね、僕、今でもその夢に惹かれてる。あっちの世界こそが、自分の本当の居場所なんじゃないかって……そう思うこともあるんだ」
自分でも、どこまで語ってしまったのかと戸惑う。
けれど結夏は、ただ黙って聞いてくれていた。
「……そんな大切な話、私にしてくれてよかったの?」
「うん。たぶん、君になら話せるって、ずっと思ってたんだ。
読書が好きで、色んな物語をちゃんと“自分のもの”にできる人にだけは……この話をいつか伝えたいって思ってた」
フィクションだと笑われても、信じてもらえても、どちらでも構わない。
そう思えるのは、結夏のような人だからだった。
「それなら誰も傷つかないし、僕自身も、自分の気持ちを嘘にしなくて済むと思ったから」
彼女は、少し困ったように、でも優しく笑った。
「もしかして……橋場くんって、意外とロマンチスト?」
「……違うと思いたいけど。あの夢のことを思い出すと、どうしても感傷的になるんだよ」
「ふふ、そっか。……じゃあ、聞いてもいい?」
彼女は、ほんの少しためらったような声で、言葉をつづける。
「その夢の中で、君はどんな人生を送ってたの?」
……なんでだろう。
「どんな夢だったの?」ではなく、「どんな人生だったの?」と訊いた彼女の言葉が、胸の奥に引っかかった。
その違和感をかき消すように、突如として、胸に鋭い痛みが走った。
「僕は――」
その一言を口にしかけた瞬間、息が詰まりそうな感覚に襲われた。
足元がふらつき、思わず道の端で立ち止まり、胸を押さえる。
「橋場くん……?」
視界が揺れる。深呼吸しても、意識が遠のく。しゃがみ込んだ僕の背中に、ふわりとぬくもりが触れた。
――結夏が、そっと背中をさすってくれていた。
「だ、大丈夫……だと思う」
少しずつ呼吸を整えて、ゆっくりと立ち上がる。
その動きに合わせて、背中にあった結夏の手が自然と離れた。
「ほんとに平気?」
「うん。ありがとう。でも、ごめん……夢の内容は、どうしても話せそうにないんだ」
結夏は、ほんの少し寂しそうに見えたけど、無理に訊いてはこなかった。
「……そっか」


