幼い頃から、僕には、ときどき見る夢があった。

 夢の中で僕は、今とは違う時代、違う場所で、まったく別の人生を送っていた。
 その夢は断片的だけど、何年にもわたって少しずつ続いて、夢の中の僕は、別の時間を生きていた。
 やがて夢の中で、一人の少女に出会った。
 彼女に惹かれて、恋をした。

***

 神社の向かいには、大きな池がある。
 岸沿いには、満開の桜が咲いていた。

 その景色を見下ろすように、少女は切り立った地面の上に立ち、一冊の本を読んでいた。

 風に髪をなびかせながら、真剣にページをめくる横顔に、僕は心を奪われていた。

 どうしてか、彼女が読み終えるまでは、そばにいるだけで心が落ち着かなかった。

 本を読み終えた彼女と、本の話を交わす時間が、幸せで仕方なかった。
 僕にとって、それは忘れられない時間になるはずだった。

 やがて、ぽつり、ぽつりと、雨が降り始める。
 雨粒は彼女の頬を濡らし、桜の花びらを揺らした。
 そして雨が止む頃、彼女は僕に、ある問いを投げかけた。

「もし、私の存在が、この世界に生まれた小さな綻びだったとしたら——」

 それは、とても哀しくて。

「——もしも、私がこの本の登場人物だったとしたら、どうする?」

 それは、残酷な物語だった。

 日が沈む直前、僕はようやく彼女が抱える運命のすべてを理解した。

 せっかく出会えたのに、もう、さよならなんて言わないでほしい。

 忘れたくなかった。たとえ出会いが奇跡だったとしても。

 この池に(まつ)られた神様の力が本物なら、都合のいい奇跡がもう少しだけ続くことを、僕は願ってしまった。

 残酷な運命の中で、君を好きになった。この思い出だけは、消えてほしくなかった。

 だけど、願いは届かなかった。

 雨上がりの空に、その声は空しく響いた。
 まるで透明なガラス玉が砕けて、欠片が宙に散ったような感覚。

 どうか、神様。
 彼女が夢幻の存在になりませんように——。

 でも、僕は全てを忘れてしまった。

 彼女と語り合った本の話も、「また会おうね」と交わした約束も、
 名前も、顔も、全て。
 その日、最後に起こったはずの奇跡のことも。

 なのに僕は、なぜか家の近くにある寂れた神社の池の前で、緑色の本を抱えて、暗闇の中に立ち尽くしていた。

 僕は、どうしてここで生きているんだろう。

 高校生になってから、夢を見なくなった。
 空虚な毎日だけど、それでも何かを知りたいという気持ちは、今も消えない。

 だから僕は、本を読み続ける。
 答えが、どこかの物語の中にある気がするから。

 今の僕に、生きる意味がわからなくても構わない。
 緑色の本は、手の中で崩れて、静かに消えてしまったけど。

 でも――ひとつだけ。最後に、教えてほしい。

 春から夏へと続いていた、あの思い出が、たしかにあったってことを。

 無くしてしまったノートの真っ白なページに、誰かがそっと残してくれた、彼女の物語を。