冷房が効いた大きな店内で、本特有の紙の匂いをふわりと吸い込むと落ち着いた気分になった。
 僕と結夏が訪れたのは、通学用の自転車で学校から10分漕いだ先にあった書店だった。
 自転車を漕ぐ彼女のあとを、同じく自転車に乗ってついて行くと、僕もよく知っている道順を通っていた。途中でおや、と思ったが、目的地はやっぱりここの書店だったか。
 ちなみに、僕にとっての自転車とは、自宅から学校ではなく、駅から学校まで通うための足だった。
 そして、こうした放課後の寄り道に必須の道具でもあった。
 この通学方法は僕にとっては普通のことだけど、都会の学生から見れば変わっているのかもしれない。
 そういえば、結夏はこの地域のどのへんに住んでいるのだろう。この前一方的に訊かれたけど、彼女のほうは言わなかった。案外、僕と同じようにこの周辺ではなく、家から電車に乗って通学しているのかもしれない。
「ふふふ、やっぱ良いよね本屋さんって。なんて言うか、静かにテンション上がっちゃう」
 結夏は書店に入るとさっそく右奥にある文芸コーナーにまっすぐ歩いて、楽しみで仕方ないといった表情をしていた。
「橋場くん。さっそくだけど、私のために一冊選んでよ」
 それは書店に入る途中で明かされたリクエストであり、彼女が僕をこの書店に連れてきた理由だった。お金はもちろん私が自分で払うから、と。
「……別にいいけどさ。そういう頼みごとって、学校の図書館じゃいけなかったの?」
 結夏は首を横に振る。
「君が前に、図書館は期限に追われるから苦手だって言ってたから。私も言われてみればたしかにそうだと思ったの」
「なるほどね?」
 彼女は僕が以前に何気なく言った言葉を汲んで、自分もそうだと気がついてしまったらしい。僕だって人のことは言えないけど、遊び盛りの高校生にとって、本来図書館で済むような本を一冊多く買うよりも、その分のお金はなるべくキープしておきたいだろうに。
 それから結夏は両手を胸の前で合わせて目をぎゅっと瞑った。
「橋場くん、どうか私のために一冊お願いしますっ!」
……参ったな。もしふざけているようなら、自分で選べとはっきり言うつもりだったけど、手を合わせる彼女の表情を見ると真剣そのもので、断れなくなってしまった。僕はどうやら、本と彼女とが絡むと頼み事を断れない性質らしい。
「急に言われてもなぁ。どんな本がいいかな」
 僕は結夏の読書傾向について踏み込んでみる。
「この前の『クローバーと君がくれた夏』みたいなのが良いかな?青春系で、ちょっとした非日常っていうか」
「うーん、むしろせっかく君に選んでもらうんだから、意外性が欲しいっていうか。もちろん似たような作品でも全然いいけどね」
 彼女がテレビで見てすぐに買いに行って面白かったという本は、僕たちと同じ高校生の少年少女が主人公で、文庫のレーベルで判断するに、僕たちくらいの年齢の学生か大人の女性が読むことを想定したであろう小説だった。
「それに、あれからもう4回読み返したから。そろそろ違う面白さにもチャレンジしたいかなって」
 僕は思わず自分の耳を疑った。
 同じ小説を4回も!?
 好きな本を時間をおいてたまに読み返すと言うのなら分かる。だけど、彼女と初めて話した日からまだ二週間と経っていなかった。
「……あの本、そんなに面白かった?」
「橋場くん聞いてよ。それがさ~、私が読んだやつ、文庫になる前のハードカバーの方だったみたいで」
「え」
「ほら、私、テレビで見てからろくに下調べもせずに買いに行ったからさ。『クローバーと君がくれた夏』って、単行本と文庫本で少し内容が違うの」
 それは初耳だった。
 というか、ハードカバーから文庫化したということは、前から普通に人気がある本だったのか。テレビで紹介されているのを見るまで、もっとマイナーな本だと思っていた自分が恥ずかしい。
「橋場くんどした、暑いの?」
「いやいやなんでもない。それより内容が違ったなんて」
「うん。――これこれ」
 彼女はそう言ってハードカバーのコーナーからあの本を取ってきた。