（困ったワンコだ）
高校最後の夏休みに波乱が起きた。僕の安くないパーソナルスペースに、図体のデカい後輩が侵入している。ルックスおばけ、我が演劇部のホープ、志垣一臣【しがき かずおみ】。部長相手であろうとお構いなしに威圧感を放つ、外見だけは大人びた一年生だ。
「アンタ、なんでわざわざ温（ぬる）い所で本読んでんだ？」
「吉野先輩、でしょ。せめて智サン。人前だよ？」
寮の居間だったので周りを確認してみるが、幸い見知った顔はいない。
この共同スペースの扇風機前は僕のお気に入りだ。今日も参考書を流し読みしながら涼を得るはずだった。それがなぜか一年の大型犬に張り付かれ妨害されている。表情もガタイも厳つい犬っころ……友達のいない一匹狼め。
「アンタの部屋行かないか、吉野サン」
「ちょっ？」
大きな手で参考書が没収された。嘘だろ、こっちは高三だぞ。さよなら僕の受験勉強。
「暑すぎるんだよ」
寮室に比べたら、それは確かに。共有スペースでは窓を空けて換気することも多く、盛夏の蝉の声がいつもどこからか響いてくる。
「でもこれが風情だと思うんだけどなぁ。というか、暑いからこそ心の涼を求めてたのに」
僕は首をかしげて適当を答える。視線を流して、風でそよぐフェイクの観葉植物を示してやる。
志垣はしばらく神妙な唸りを聞かせていたが、すぐ疑わしげに僕を睨んだ。
「なんだよ、ココロノリョウって」
「自分の世界に没頭してたら、暑さ寒さって忘れられるでしょ？」
お前にも覚えがあるはずだよと言外に言ってやる。けれども志垣には通じなかった。
「集中力があるんだな、アンタ」
＊＊＊
（いやホント困ったことになってるし）
志垣は当然のごとく僕の部屋へ転がり込み、僕のベッドで居心地悪そうに寝返りを打っていた。そして受験勉強を再開した僕を時々気にしている。
（こんなに懐かれてたっけ）
僕も時々メガネの位置を直しつつ、あるいは長い髪を束ね直したりしつつして、こっそりと彼を見る。
演劇部へスカウトしてきた立場で言うのもなんだが、志垣は常人には手に負えないオレ様主義者だった。悪い奴ではないけど人の話を聞かない。成績不振のくせに日頃から授業はサボり、かといって部の練習に顔を出すわけでもない。毎日がつまらないらしく、よく不機嫌なツラを見せている。ただ美的センスと恵体は健在だ。
そういう現実離れした問題児が、なぜか、なぜだか、僕のテリトリーに深く踏み込んでいた。
「集中させてよ。こっちは受験生だよ？」
「でも頭良いんだろ？」
志垣は話題を流して僕の本棚からマンガを引き抜こうとする。これにはさすがに叱った。
「こらこら本棚はダメでしょ。僕がもしエロ本でも隠してたら――」
「え？ あるのか？」
そう言って振り向いた志垣は珍しく瞳に光を宿している。なんていい顔だ、もったいない。残念すぎて溜め息が漏れる。
「なんだよ。オレの命令を聞くって条件だろう。入部してやったのに」
「違うね。『舞台に立ってくれるなら』。もしくは『親御さんを泣かさない程度には勉強してくれるか』。トレードオフだよ？」
僕はにっこりと笑顔で続けた。性欲もないのにブツを持ち込む道理がない。ただ、志垣とこんなに会話が続くのは珍しいことだったのではぐらかす。
「……性格悪いな」
「僕が腹黒なのは知ってるはずだ。どうするの、部活か宿題か」
床に置かれた志垣のバッグを指差してやる。結構な量の荷物、おそらく課題は持って来ているのだろう。
「見せてみなよ。僕、教えるの上手いよ？」
「……だるい」
男前は眉間に深い皺を刻んで観念する。長くて太い指で課題の山をテーブルに出した。
「あっは、これまた多いなぁ」
「授業サボりまくってたらこうなった」
「了解～」
国語、英語、数学、というか全科目。ありとあらゆる先生方が苦労して妥協して課題という温情を与えてくれた様が目に浮かぶ。その温情に、盆休み明けまで逃げてしまった彼まで想像できる。
が、褒めてあげないとやる気だって育たない。
「志垣えらいね。これは僕のトコに持ってくるのが正解だ」
「アンタ勉強全部できるのか？」
「国立行くから」
頭を受験生モードから家庭教師モードに切り換えて、志垣のためのスペースを机に確保してやる。空けられた場所へ大柄の彼がやってくるのを見ると、一抹の可愛げが感じられた。
（ホントもったいない。お前のいいとこ、なんで僕だけが知ってるんだか）
志垣の成績の不振は学力不足でなく興味の欠如が原因だ。
昔は違っていたと僕は知っているが、そこまで知っている僕のことを志垣は一切知らない。
（どうしたら、志垣はまた自由に振る舞えるんだろう）
去年からずっと、こうして彼のことばかり考えていることも。
＊＊＊
―― 一年前まで、志垣はプロの俳優だった。
自ら売り込みをし、社会派の映画監督の作品で子役デビュー。小学生にしては長い四肢と凛々しすぎる相貌が印象的な少年で、寡作ながら玄人好みのフィルムに出続けていた。
その頃の彼を初めて劇場で見た時、僕は胸を鷲掴みにされた。たった二歳年下の少年にだ。
幼い頃から誰かを特別視したことがなかったもので、それはもう強烈な体験だった。
以来、志垣の活動を追いかけた。彼は年を重ねるごとに演技力も色気も増すばかりだった。
が、中学三年生で芸能界を辞めた。広い世界へ進むにつれ、同期やスタッフらと衝突しがちになったらしい。
『来年はウチの学校に来て、一緒に演劇をしませんか？』
種を埋めた。僕は部のＳＮＳアカウントを使って彼の公式アカウントへ書き込んだ。彼はＷＥＢを見ないことで有名で、親御さんが管理しているということを知っての上でだ。
叶うはずはないと思っていた。けれども志垣は、何の因果かウチに入学してきた。トラウマを抱えたのか、ずいぶんと荒んだ顔に変わり果てて。
『志垣クンだ。初めましてだね』
『なんだよアンタ』
四月、僕は意図的に彼に接触した。
胡乱に睨み付けられても構わず、あれこれ条件をつけて演劇部へスカウトし続けた。
何者でもない僕の大それた野望のため。
彼と共に過ごせるこの一年間で、志垣をもう一度楽しく笑わせてみせるために。
＊＊＊
「志垣は数学好き？」
「そんなワケ」
「ないよね。じゃあ国語から」
僕はテキストを開いてみせた。
「やる意味がわからない。普通の国語とか」
横暴な王様は肩をすくめて言い捨てる。それを僕は文句も言わずになだめる。
「コミュニケーション取れるでしょ？ 多様な言葉を知っていたら。腹の底が読めない僕みたいなヤツとでも」
志垣は一瞬考えるような表情を見せた後、不機嫌に睨み付けた。
「いいから早くしろよ。終わったらエロ本だからな」
「素直でよろしい」
寮のワンルームは夏の湿度と志垣の厳しい視線で窮屈に感じる。
窓から差し込む陽光が彼の輪郭をいつも以上に輝かせている。狭くなった空間も、彼が乱したシーツと本棚も、床に散らばる高一の課題も、いろんなものが僕に志垣の存在を強調してくるみたいだ。
「……何見てんの？」
「ん？ 何が？」
「アンタ。入部してやった時から、たまにこっち見てるだろ」
気付かれていたのか。でもハズレ。『入学前から、ずっと見ていた』の間違いだ。
けれど正解を顔に出す僕ではない。
「へえ。志垣は僕のこと、そういう風に見てたってことかぁ」
「ニヤつくなよ」
「ごめんごめん、志垣ってたまに野生動物みたいなとこあるなって思って」
時間がゆっくりと過ぎていく。彼は避けていた数学に挑む。
「吉野サン、いきなり無理」
「ああ、これは覚えゲーだ」
僕は志垣の横に座り直して説明する。彼の顔が近づく距離感に、やや緊張する。
「――――」
王様は後輩らしく真剣に聞く。その横顔が少し柔らかくなっていることに気がついた。
「へぇ、なるほどな」
と、志垣が理解した顔でうなずくので思わず達成感を覚えた。
彼の節の硬そうな指がペンを操り、滑らかに計算を解く。淀みのない動きに理解の早さが見て取れる。
僕の卒業まで半年ほど、部員としていられるのは文化祭で引退する秋までだけど、他にもこんな風に支えてやれないものかと思う。
「……なあ吉野サン」
「うん？」
「見てるじゃないか、オレの顔」
静かな声だ。志垣は視線を上げずに聞いた。
ワンコのクセに、なんだか罠を張られていたような心地だ。
「何かあるのか？」
「興味。お前の体つきって近くで見たら逞しいし、羨ましいなって」
「そうか？ 別に鍛えていないけどな」
「あは、腹立つ。一気に憎らしくなったんですけど」
筋肉の際立つ腕が半袖の制服から覗いていた。襟首からは僕とは異なる太い喉元が見えていたり、一年生なのに華のある奴だと思う。
「そういえば、アンタは肌が白いな。日焼けしないのか？」
「昔からね。線も細い……というか太れなくて」
僕はスタンドミラーを振り返ってみる。志垣の健康的に日焼けした肌と見比べると、色白なのがいつもより際立つ。
「アンタ、きっちり走り込みやってんのにな」
「な……んで知ってるかな。でもまあ、お前みたいな仕上がりは夢のまた夢だ」
僕は笑った表情を作りながら応じた。彼の強引な視線に少し戸惑うけど、それ以上に面白いと感じる。
拒否されないと察してか、彼の視線は僕の腕から背中、少し長い髪の方へと流れはじめた。
「手入れしてるな」
「ほどほどに」
「女のより柔らかそうだ。遺伝ってやつ？」
「それ。妙なとこで勘がいいよね……んっ」
来た、志垣の太い指が遠慮がちに僕の髪へ触れた。こいつとはパーソナルスペースの概念が違い過ぎて困る。
（この野生動物め）
僕がニコニコと黙っていると、志垣は興味深そうに触診を続けた。
まあ気持ちは分かるか。だって志垣の髪って実は硬そうで、体格と同じくらいしっかりしてるから。
「お前と違ってサラサラでしょ。綺麗すぎて、たまに女子のオモチャにされるよ」
「は？ 触らせてるのかアンタ」
――手が止まった。ちょっと怒った？
まさか、こんなところに地雷があったなんて。
「いや、普通にあるよね？ 三つ編みさせてとか、ヘアピンあげるとか」
「ない」
ヘソを曲げてしまった。そのくせ髪の方はさっきよりも大胆にいじり回すようになって。
後輩のチグハグな態度に、僕は内心で苦笑いが止まらない。
（嫉妬だ。わかってるのかな志垣）
この下級生は理解できない部分を次々と見せてくる。
強すぎる独占欲も愛すべき個性だとは思うけれど、手首を掴まれた時にはさすがに驚いた。
「え、今度はなに？」
「細いと思ったけど、握ったらしっかりしてるな」
「当然だよ、男なんだから。お前には負けるかもしれないけどさぁ」
「オレに勝てないのは、それこそ当然だろ？」
そう言って志垣は不遜に唇を吊り上げる。初めて見る表情だ。
（笑った。ああでも違う、もっと嬉しそうな笑顔を引き出してやれたら）
僕が嬉しさを噛み殺しているなんてつゆ知らず、志垣は僕の体を詳しく観察し続けた。
不遜で自己中心的な扱いを受けても僕はとりあえず許してしまう。
なにしろ、先に見ていたのは僕だったので。
（こんなの寮の外では断固拒否だし、夏休みでなきゃ許してやらないけど）
志垣の眼差しには久しぶりに他者への興味が蘇っている。
僕みたいなのをきっかけにして、お前がまた世間や世界を見てくれるようになればそれでいいや。
「――吉野サン見すぎ」
「お互い様。……志垣って結構格好いいんだから、僕の舞台に立ってくれたらいいのにね」
「誰が」
「国語。主語言ったじゃん。『志垣が、僕の脚本でやる卒業公演に』って」
彼の瞳がとたんに暗くなる。部活や演劇の話題を振ると、普段は口調も輪をかけて傲慢になる。
だが今は違った。志垣は僕の手首を掴んだまま僕を見つめていた。
「お前さ、いつもは学校来て何を考えてるの？」
彼はしばらく黙った後、零した。
「……何もない。適当に学校来てサボって寝てる」
「そっか。頭空っぽにして、休めるようになってるってことかな」
「何それ。オレに勉強させたいのかダラけさせたいのか分からないな」
真実に近いかもしれない。実は勉強すらどうでもいい。でも、先輩としての僕は当然こう言う。
「して欲しいに決まってるでしょ。大事な君を預かってる以上、部長の責任があるんだから」
つれなく手首を振って数学のテキストを突きつけ、僕は僕で英語のテキストをスタンバイする。
志垣はなぜかそれ以上ゴネず、やけに素直に従った。他の科目にも取り組むようになった。
最後には僕の手助けもほどほどに、ほぼ自分で解くようになってゆく。彼の集中力と好奇心の強さは僕の予想を超えていた。
まさか、こんな風に過ごせる日が来るなんて。
（ずっと夏休みならいいのに）
夕方になり、窓のカーテン越しに橙色の光が差し込む。志垣も夕陽に気付いて顔を上げると、
「腹減ってきたな」
と呟いた。
＊＊＊
「で、本は？ しらばっくれんなよ」
「ごめんね志垣、もう夕飯の時間だからさ」
「エロ本。ねぇのかよ」
僕が志垣の帰り支度をしてやっていると、彼は突然思い出したように食い下がってきた。
なんとか雰囲気で流してやろうと思っていたが、野生児にはムード作戦なんて効かなかったらしい。
「あー大変だー、早く行かなきゃ寮母さんに叱られるー」
僕は白々しく時計を見ながら言う。すると特大の舌打ちが飛んできた。仮にも最上級生に酷い態度だ。
「志垣ほんと帰りな？ 予約してなきゃ寮生しかご飯食べらんないよ？」
「いや、アンタのメシを寄こせよ」
「調子良すぎ。たくさん頭使ってお腹減った？」
僕は背伸びをして志垣の髪を撫でてやる。猛獣のような男への嫌がらせのつもりだ。
視線で威嚇されたけど、反応が予測通りすぎて驚きもしない。
「――本」
志垣がまた言い出した。
「粘るね。どれだけ興味あるの」
「アンタが言ったんだろ、勉強したら褒美にって」
「それがねぇ、一言も言ってないはずなんだなぁ。ごめんね？」
僕は悪戯っぽく笑って手を合わせる。騙した詫びだ。
「クソ。ないなら最初から言えよ」
志垣は不機嫌そうに引いてくれる。よしよし今日は良い子じゃないか。
「勉強に集中するのも悪くなかったでしょ。志垣は自分で思うよりずっとできてたはずだ」
「……けどよ」
「いやらしい褒美がどうしても気になった？」
「あのな。アンタのせいなんだよ」
……は？ 僕？
一瞬、何を言われたか掴みかねた。
「エロい目でジロジロ見てきやがって。吉野サン、バイってやつか？」
いつの間にか喰われるかと思うほどの至近距離にまで追い詰められている。
「踏み込むなぁ……教えたくないんですけど」
「逃げんなよ」
参った。志垣の好奇心の強さは今日一日で思い知っている。
どうしてもはぐらかすのが困難で、僕は一呼吸置いて腹をくくる。
「僕は、むしろ逆。誰も恋愛対象にならない。彼女は何人かいたけど、告られても振られてばっかり。性的なネタとは無縁だ」
「アンタが？」
「生まれつき恋愛できないの。尊敬する人とかはいるし、人間的に好きだと思う人なら、たまには位」
これは少し嘘だ。心に刺さったのはたった一人しかいない。僕は澄ました顔で、その本人を見上げる。
「……けどエロかった」
「ひど。顔面センシティブとかめちゃくちゃ凹む……って、ちょ、なに？」
顎を掴まれて唇が近付いて、キスされるのかと思った。
けれども志垣は横暴に僕の顔を品定めする。
「ん……僕、今もおかしい？」
「わかんねぇけど、赤くなってきてる。肌白いから薄くても目立つ」
志垣の声が湿り気を帯びて肌に触れた。
言葉が指となって触れられているような、妙なゾワゾワが込み上げる。
「もー、僕をグラビア代わりにするの止めな？ お前も腹減ってるくせに」
茶化しても失敗。言ってるそばから後ろ髪へ指を差し込まれる。まるで獣の餌食だ。
「あのね志垣。気を悪くすると思うけど……お前をそういう目で見る人は山程いただろ？ 仕事関係とか」
「まあな。けど吉野サンのとは全然違う」
「それはどーも」
相手が志垣じゃなければ簡単に突き飛ばしていた。けれど頭に血が上って考えがまとまらず、志垣の腕の中で諦めの境地が見えてくる。
「ホント、どうしたらいいかなぁ」
悔しいけど降参だ。僕は助けを求めるように志垣を見上げる。
どんな顔で見られていたのか知るのが怖い気もしたけど、ゆっくりと視線を合わせた。
「――あ、わかったわ吉野サン」
「国語。目的語」
「アンタさ、オレが好きだろ」
（え……）
太い指が僕の耳朶に触れる。ひんやりとして心地がいい。ということは、僕は確かに火照っているということらしい。
「だから僕は好きになれないって話を……はぁ、もう離して。エロ本はランキングでも見て買ってやるから」
「それじゃ意味ねぇ。アンタのだから見てやろうと思ったんだよオレは」
「えええ……じゃあ僕が自分で探せばオーケー？」
「やめろ、絶対に探すな。アンタはオレを見とけばいいだろ」
「どういうこと……横暴じゃん……」
空腹と酸欠で頭の奥が白んで来た。だから、かわせなかったのは決して僕の本意じゃない。
「言っとくけど吉野サン、オレ『は』初めてだからな」
志垣が怒った声でぼやいて顔を近づけてくる。
初めてとか言うくせに、抱きしめ方が様になっている。
（悔しいな）
唇が寄せられる。上唇が触れた感触に背筋が震える。
僕はそれきり逆らえず、恋人でもない男の執着を受け止めてしまった。
＊＊＊
キスでお腹は満たせない。僕らは食堂で一人分の夕飯を分け、また部屋へと帰ってきた。
志垣は当然のように泊まる気だ。部室からサイズの合うスウェットを確保し、寝支度を済ませ、僕のベッドを陣取ってしまう。ここまでお互いほぼ無言。
家主の僕は床に座り、暗闇の中で志垣の精悍な顔を眺めながら……やっと愚痴った。
「うん。やっぱり僕、志垣を『好きだ』とは思ってない。そりゃ嫌いでもないけど」
「喧嘩売るなよ。何が言いたい？」
「僕は祈ってただけだし。大変そうな志垣って人がウチへ来てくれたわけだから、一年目ぐらいは良いことをたくさん受け取れるように。自分は暗躍できたらいいなって」
「暗躍って、アンタな」
志垣が困ったように顔を歪ませる。けれど少しだけ笑ったようにも見える。
「そういう顔もいいけど、本当はもっと」
「もっと？」
「言わない。忘れて？」
「あり得ないだろ。言え」
言えるはずがない。例えばこういう小さなやり取りで笑える程度には、お前の痛みが落ち着いてくれたらいいと願っていた。なのに現実はどうだ。
（ダメだな。僕の方が笑わせてもらって）
そんな内省をしていたら、ベッドの方から大きな手で抱き寄せられた。
「なあに志垣」
「告白だろ、今の」
「理解に苦しむ。どこが？」
「誰かのこと祈るとか。告白なんだよ」
いや。いやいや違うし。違う、だろう？
「吉野サン頭いいくせに相当アホだな」
「アホは志垣だ調子のんな。せ、先輩にそれ言っちゃダメでしょ？」
「ほら、迫力ゼロだろ」
顔を伏せた僕に落ち着いた声が降ってくる。
今、志垣はもしかしたら笑っているんじゃないだろうか。
（ならいいよもう。僕が志垣のこと好きでも嫌いでも、どっちでもなくても）
今夜はどうしても口で勝てる気がしない。
僕は志垣を見習って、傍若無人にベッドへ乗り上がる。らしくない意趣返しをしつつ、彼を枕にして目を閉じる。
それから、部長として思い切って言ってみた。
「志垣、明日は六時起きね。朝食大盛りで予約しといた。食べたらシャワー浴びて部活行くよ。脚本読んで」
「……考えとく」
初めて引き出せた答えに小さく微笑む。
そんな僕に突っ込むように、大きな手が髪をかき混ぜてくる。
――ひとりで埋めた野望の種子は、いつしか芽を出していた。
緑の柔らかい芽がどんな風に枯れるか、育つのか、歪な僕だけはもう読めない。
高校最後の夏休みに波乱が起きた。僕の安くないパーソナルスペースに、図体のデカい後輩が侵入している。ルックスおばけ、我が演劇部のホープ、志垣一臣【しがき かずおみ】。部長相手であろうとお構いなしに威圧感を放つ、外見だけは大人びた一年生だ。
「アンタ、なんでわざわざ温（ぬる）い所で本読んでんだ？」
「吉野先輩、でしょ。せめて智サン。人前だよ？」
寮の居間だったので周りを確認してみるが、幸い見知った顔はいない。
この共同スペースの扇風機前は僕のお気に入りだ。今日も参考書を流し読みしながら涼を得るはずだった。それがなぜか一年の大型犬に張り付かれ妨害されている。表情もガタイも厳つい犬っころ……友達のいない一匹狼め。
「アンタの部屋行かないか、吉野サン」
「ちょっ？」
大きな手で参考書が没収された。嘘だろ、こっちは高三だぞ。さよなら僕の受験勉強。
「暑すぎるんだよ」
寮室に比べたら、それは確かに。共有スペースでは窓を空けて換気することも多く、盛夏の蝉の声がいつもどこからか響いてくる。
「でもこれが風情だと思うんだけどなぁ。というか、暑いからこそ心の涼を求めてたのに」
僕は首をかしげて適当を答える。視線を流して、風でそよぐフェイクの観葉植物を示してやる。
志垣はしばらく神妙な唸りを聞かせていたが、すぐ疑わしげに僕を睨んだ。
「なんだよ、ココロノリョウって」
「自分の世界に没頭してたら、暑さ寒さって忘れられるでしょ？」
お前にも覚えがあるはずだよと言外に言ってやる。けれども志垣には通じなかった。
「集中力があるんだな、アンタ」
＊＊＊
（いやホント困ったことになってるし）
志垣は当然のごとく僕の部屋へ転がり込み、僕のベッドで居心地悪そうに寝返りを打っていた。そして受験勉強を再開した僕を時々気にしている。
（こんなに懐かれてたっけ）
僕も時々メガネの位置を直しつつ、あるいは長い髪を束ね直したりしつつして、こっそりと彼を見る。
演劇部へスカウトしてきた立場で言うのもなんだが、志垣は常人には手に負えないオレ様主義者だった。悪い奴ではないけど人の話を聞かない。成績不振のくせに日頃から授業はサボり、かといって部の練習に顔を出すわけでもない。毎日がつまらないらしく、よく不機嫌なツラを見せている。ただ美的センスと恵体は健在だ。
そういう現実離れした問題児が、なぜか、なぜだか、僕のテリトリーに深く踏み込んでいた。
「集中させてよ。こっちは受験生だよ？」
「でも頭良いんだろ？」
志垣は話題を流して僕の本棚からマンガを引き抜こうとする。これにはさすがに叱った。
「こらこら本棚はダメでしょ。僕がもしエロ本でも隠してたら――」
「え？ あるのか？」
そう言って振り向いた志垣は珍しく瞳に光を宿している。なんていい顔だ、もったいない。残念すぎて溜め息が漏れる。
「なんだよ。オレの命令を聞くって条件だろう。入部してやったのに」
「違うね。『舞台に立ってくれるなら』。もしくは『親御さんを泣かさない程度には勉強してくれるか』。トレードオフだよ？」
僕はにっこりと笑顔で続けた。性欲もないのにブツを持ち込む道理がない。ただ、志垣とこんなに会話が続くのは珍しいことだったのではぐらかす。
「……性格悪いな」
「僕が腹黒なのは知ってるはずだ。どうするの、部活か宿題か」
床に置かれた志垣のバッグを指差してやる。結構な量の荷物、おそらく課題は持って来ているのだろう。
「見せてみなよ。僕、教えるの上手いよ？」
「……だるい」
男前は眉間に深い皺を刻んで観念する。長くて太い指で課題の山をテーブルに出した。
「あっは、これまた多いなぁ」
「授業サボりまくってたらこうなった」
「了解～」
国語、英語、数学、というか全科目。ありとあらゆる先生方が苦労して妥協して課題という温情を与えてくれた様が目に浮かぶ。その温情に、盆休み明けまで逃げてしまった彼まで想像できる。
が、褒めてあげないとやる気だって育たない。
「志垣えらいね。これは僕のトコに持ってくるのが正解だ」
「アンタ勉強全部できるのか？」
「国立行くから」
頭を受験生モードから家庭教師モードに切り換えて、志垣のためのスペースを机に確保してやる。空けられた場所へ大柄の彼がやってくるのを見ると、一抹の可愛げが感じられた。
（ホントもったいない。お前のいいとこ、なんで僕だけが知ってるんだか）
志垣の成績の不振は学力不足でなく興味の欠如が原因だ。
昔は違っていたと僕は知っているが、そこまで知っている僕のことを志垣は一切知らない。
（どうしたら、志垣はまた自由に振る舞えるんだろう）
去年からずっと、こうして彼のことばかり考えていることも。
＊＊＊
―― 一年前まで、志垣はプロの俳優だった。
自ら売り込みをし、社会派の映画監督の作品で子役デビュー。小学生にしては長い四肢と凛々しすぎる相貌が印象的な少年で、寡作ながら玄人好みのフィルムに出続けていた。
その頃の彼を初めて劇場で見た時、僕は胸を鷲掴みにされた。たった二歳年下の少年にだ。
幼い頃から誰かを特別視したことがなかったもので、それはもう強烈な体験だった。
以来、志垣の活動を追いかけた。彼は年を重ねるごとに演技力も色気も増すばかりだった。
が、中学三年生で芸能界を辞めた。広い世界へ進むにつれ、同期やスタッフらと衝突しがちになったらしい。
『来年はウチの学校に来て、一緒に演劇をしませんか？』
種を埋めた。僕は部のＳＮＳアカウントを使って彼の公式アカウントへ書き込んだ。彼はＷＥＢを見ないことで有名で、親御さんが管理しているということを知っての上でだ。
叶うはずはないと思っていた。けれども志垣は、何の因果かウチに入学してきた。トラウマを抱えたのか、ずいぶんと荒んだ顔に変わり果てて。
『志垣クンだ。初めましてだね』
『なんだよアンタ』
四月、僕は意図的に彼に接触した。
胡乱に睨み付けられても構わず、あれこれ条件をつけて演劇部へスカウトし続けた。
何者でもない僕の大それた野望のため。
彼と共に過ごせるこの一年間で、志垣をもう一度楽しく笑わせてみせるために。
＊＊＊
「志垣は数学好き？」
「そんなワケ」
「ないよね。じゃあ国語から」
僕はテキストを開いてみせた。
「やる意味がわからない。普通の国語とか」
横暴な王様は肩をすくめて言い捨てる。それを僕は文句も言わずになだめる。
「コミュニケーション取れるでしょ？ 多様な言葉を知っていたら。腹の底が読めない僕みたいなヤツとでも」
志垣は一瞬考えるような表情を見せた後、不機嫌に睨み付けた。
「いいから早くしろよ。終わったらエロ本だからな」
「素直でよろしい」
寮のワンルームは夏の湿度と志垣の厳しい視線で窮屈に感じる。
窓から差し込む陽光が彼の輪郭をいつも以上に輝かせている。狭くなった空間も、彼が乱したシーツと本棚も、床に散らばる高一の課題も、いろんなものが僕に志垣の存在を強調してくるみたいだ。
「……何見てんの？」
「ん？ 何が？」
「アンタ。入部してやった時から、たまにこっち見てるだろ」
気付かれていたのか。でもハズレ。『入学前から、ずっと見ていた』の間違いだ。
けれど正解を顔に出す僕ではない。
「へえ。志垣は僕のこと、そういう風に見てたってことかぁ」
「ニヤつくなよ」
「ごめんごめん、志垣ってたまに野生動物みたいなとこあるなって思って」
時間がゆっくりと過ぎていく。彼は避けていた数学に挑む。
「吉野サン、いきなり無理」
「ああ、これは覚えゲーだ」
僕は志垣の横に座り直して説明する。彼の顔が近づく距離感に、やや緊張する。
「――――」
王様は後輩らしく真剣に聞く。その横顔が少し柔らかくなっていることに気がついた。
「へぇ、なるほどな」
と、志垣が理解した顔でうなずくので思わず達成感を覚えた。
彼の節の硬そうな指がペンを操り、滑らかに計算を解く。淀みのない動きに理解の早さが見て取れる。
僕の卒業まで半年ほど、部員としていられるのは文化祭で引退する秋までだけど、他にもこんな風に支えてやれないものかと思う。
「……なあ吉野サン」
「うん？」
「見てるじゃないか、オレの顔」
静かな声だ。志垣は視線を上げずに聞いた。
ワンコのクセに、なんだか罠を張られていたような心地だ。
「何かあるのか？」
「興味。お前の体つきって近くで見たら逞しいし、羨ましいなって」
「そうか？ 別に鍛えていないけどな」
「あは、腹立つ。一気に憎らしくなったんですけど」
筋肉の際立つ腕が半袖の制服から覗いていた。襟首からは僕とは異なる太い喉元が見えていたり、一年生なのに華のある奴だと思う。
「そういえば、アンタは肌が白いな。日焼けしないのか？」
「昔からね。線も細い……というか太れなくて」
僕はスタンドミラーを振り返ってみる。志垣の健康的に日焼けした肌と見比べると、色白なのがいつもより際立つ。
「アンタ、きっちり走り込みやってんのにな」
「な……んで知ってるかな。でもまあ、お前みたいな仕上がりは夢のまた夢だ」
僕は笑った表情を作りながら応じた。彼の強引な視線に少し戸惑うけど、それ以上に面白いと感じる。
拒否されないと察してか、彼の視線は僕の腕から背中、少し長い髪の方へと流れはじめた。
「手入れしてるな」
「ほどほどに」
「女のより柔らかそうだ。遺伝ってやつ？」
「それ。妙なとこで勘がいいよね……んっ」
来た、志垣の太い指が遠慮がちに僕の髪へ触れた。こいつとはパーソナルスペースの概念が違い過ぎて困る。
（この野生動物め）
僕がニコニコと黙っていると、志垣は興味深そうに触診を続けた。
まあ気持ちは分かるか。だって志垣の髪って実は硬そうで、体格と同じくらいしっかりしてるから。
「お前と違ってサラサラでしょ。綺麗すぎて、たまに女子のオモチャにされるよ」
「は？ 触らせてるのかアンタ」
――手が止まった。ちょっと怒った？
まさか、こんなところに地雷があったなんて。
「いや、普通にあるよね？ 三つ編みさせてとか、ヘアピンあげるとか」
「ない」
ヘソを曲げてしまった。そのくせ髪の方はさっきよりも大胆にいじり回すようになって。
後輩のチグハグな態度に、僕は内心で苦笑いが止まらない。
（嫉妬だ。わかってるのかな志垣）
この下級生は理解できない部分を次々と見せてくる。
強すぎる独占欲も愛すべき個性だとは思うけれど、手首を掴まれた時にはさすがに驚いた。
「え、今度はなに？」
「細いと思ったけど、握ったらしっかりしてるな」
「当然だよ、男なんだから。お前には負けるかもしれないけどさぁ」
「オレに勝てないのは、それこそ当然だろ？」
そう言って志垣は不遜に唇を吊り上げる。初めて見る表情だ。
（笑った。ああでも違う、もっと嬉しそうな笑顔を引き出してやれたら）
僕が嬉しさを噛み殺しているなんてつゆ知らず、志垣は僕の体を詳しく観察し続けた。
不遜で自己中心的な扱いを受けても僕はとりあえず許してしまう。
なにしろ、先に見ていたのは僕だったので。
（こんなの寮の外では断固拒否だし、夏休みでなきゃ許してやらないけど）
志垣の眼差しには久しぶりに他者への興味が蘇っている。
僕みたいなのをきっかけにして、お前がまた世間や世界を見てくれるようになればそれでいいや。
「――吉野サン見すぎ」
「お互い様。……志垣って結構格好いいんだから、僕の舞台に立ってくれたらいいのにね」
「誰が」
「国語。主語言ったじゃん。『志垣が、僕の脚本でやる卒業公演に』って」
彼の瞳がとたんに暗くなる。部活や演劇の話題を振ると、普段は口調も輪をかけて傲慢になる。
だが今は違った。志垣は僕の手首を掴んだまま僕を見つめていた。
「お前さ、いつもは学校来て何を考えてるの？」
彼はしばらく黙った後、零した。
「……何もない。適当に学校来てサボって寝てる」
「そっか。頭空っぽにして、休めるようになってるってことかな」
「何それ。オレに勉強させたいのかダラけさせたいのか分からないな」
真実に近いかもしれない。実は勉強すらどうでもいい。でも、先輩としての僕は当然こう言う。
「して欲しいに決まってるでしょ。大事な君を預かってる以上、部長の責任があるんだから」
つれなく手首を振って数学のテキストを突きつけ、僕は僕で英語のテキストをスタンバイする。
志垣はなぜかそれ以上ゴネず、やけに素直に従った。他の科目にも取り組むようになった。
最後には僕の手助けもほどほどに、ほぼ自分で解くようになってゆく。彼の集中力と好奇心の強さは僕の予想を超えていた。
まさか、こんな風に過ごせる日が来るなんて。
（ずっと夏休みならいいのに）
夕方になり、窓のカーテン越しに橙色の光が差し込む。志垣も夕陽に気付いて顔を上げると、
「腹減ってきたな」
と呟いた。
＊＊＊
「で、本は？ しらばっくれんなよ」
「ごめんね志垣、もう夕飯の時間だからさ」
「エロ本。ねぇのかよ」
僕が志垣の帰り支度をしてやっていると、彼は突然思い出したように食い下がってきた。
なんとか雰囲気で流してやろうと思っていたが、野生児にはムード作戦なんて効かなかったらしい。
「あー大変だー、早く行かなきゃ寮母さんに叱られるー」
僕は白々しく時計を見ながら言う。すると特大の舌打ちが飛んできた。仮にも最上級生に酷い態度だ。
「志垣ほんと帰りな？ 予約してなきゃ寮生しかご飯食べらんないよ？」
「いや、アンタのメシを寄こせよ」
「調子良すぎ。たくさん頭使ってお腹減った？」
僕は背伸びをして志垣の髪を撫でてやる。猛獣のような男への嫌がらせのつもりだ。
視線で威嚇されたけど、反応が予測通りすぎて驚きもしない。
「――本」
志垣がまた言い出した。
「粘るね。どれだけ興味あるの」
「アンタが言ったんだろ、勉強したら褒美にって」
「それがねぇ、一言も言ってないはずなんだなぁ。ごめんね？」
僕は悪戯っぽく笑って手を合わせる。騙した詫びだ。
「クソ。ないなら最初から言えよ」
志垣は不機嫌そうに引いてくれる。よしよし今日は良い子じゃないか。
「勉強に集中するのも悪くなかったでしょ。志垣は自分で思うよりずっとできてたはずだ」
「……けどよ」
「いやらしい褒美がどうしても気になった？」
「あのな。アンタのせいなんだよ」
……は？ 僕？
一瞬、何を言われたか掴みかねた。
「エロい目でジロジロ見てきやがって。吉野サン、バイってやつか？」
いつの間にか喰われるかと思うほどの至近距離にまで追い詰められている。
「踏み込むなぁ……教えたくないんですけど」
「逃げんなよ」
参った。志垣の好奇心の強さは今日一日で思い知っている。
どうしてもはぐらかすのが困難で、僕は一呼吸置いて腹をくくる。
「僕は、むしろ逆。誰も恋愛対象にならない。彼女は何人かいたけど、告られても振られてばっかり。性的なネタとは無縁だ」
「アンタが？」
「生まれつき恋愛できないの。尊敬する人とかはいるし、人間的に好きだと思う人なら、たまには位」
これは少し嘘だ。心に刺さったのはたった一人しかいない。僕は澄ました顔で、その本人を見上げる。
「……けどエロかった」
「ひど。顔面センシティブとかめちゃくちゃ凹む……って、ちょ、なに？」
顎を掴まれて唇が近付いて、キスされるのかと思った。
けれども志垣は横暴に僕の顔を品定めする。
「ん……僕、今もおかしい？」
「わかんねぇけど、赤くなってきてる。肌白いから薄くても目立つ」
志垣の声が湿り気を帯びて肌に触れた。
言葉が指となって触れられているような、妙なゾワゾワが込み上げる。
「もー、僕をグラビア代わりにするの止めな？ お前も腹減ってるくせに」
茶化しても失敗。言ってるそばから後ろ髪へ指を差し込まれる。まるで獣の餌食だ。
「あのね志垣。気を悪くすると思うけど……お前をそういう目で見る人は山程いただろ？ 仕事関係とか」
「まあな。けど吉野サンのとは全然違う」
「それはどーも」
相手が志垣じゃなければ簡単に突き飛ばしていた。けれど頭に血が上って考えがまとまらず、志垣の腕の中で諦めの境地が見えてくる。
「ホント、どうしたらいいかなぁ」
悔しいけど降参だ。僕は助けを求めるように志垣を見上げる。
どんな顔で見られていたのか知るのが怖い気もしたけど、ゆっくりと視線を合わせた。
「――あ、わかったわ吉野サン」
「国語。目的語」
「アンタさ、オレが好きだろ」
（え……）
太い指が僕の耳朶に触れる。ひんやりとして心地がいい。ということは、僕は確かに火照っているということらしい。
「だから僕は好きになれないって話を……はぁ、もう離して。エロ本はランキングでも見て買ってやるから」
「それじゃ意味ねぇ。アンタのだから見てやろうと思ったんだよオレは」
「えええ……じゃあ僕が自分で探せばオーケー？」
「やめろ、絶対に探すな。アンタはオレを見とけばいいだろ」
「どういうこと……横暴じゃん……」
空腹と酸欠で頭の奥が白んで来た。だから、かわせなかったのは決して僕の本意じゃない。
「言っとくけど吉野サン、オレ『は』初めてだからな」
志垣が怒った声でぼやいて顔を近づけてくる。
初めてとか言うくせに、抱きしめ方が様になっている。
（悔しいな）
唇が寄せられる。上唇が触れた感触に背筋が震える。
僕はそれきり逆らえず、恋人でもない男の執着を受け止めてしまった。
＊＊＊
キスでお腹は満たせない。僕らは食堂で一人分の夕飯を分け、また部屋へと帰ってきた。
志垣は当然のように泊まる気だ。部室からサイズの合うスウェットを確保し、寝支度を済ませ、僕のベッドを陣取ってしまう。ここまでお互いほぼ無言。
家主の僕は床に座り、暗闇の中で志垣の精悍な顔を眺めながら……やっと愚痴った。
「うん。やっぱり僕、志垣を『好きだ』とは思ってない。そりゃ嫌いでもないけど」
「喧嘩売るなよ。何が言いたい？」
「僕は祈ってただけだし。大変そうな志垣って人がウチへ来てくれたわけだから、一年目ぐらいは良いことをたくさん受け取れるように。自分は暗躍できたらいいなって」
「暗躍って、アンタな」
志垣が困ったように顔を歪ませる。けれど少しだけ笑ったようにも見える。
「そういう顔もいいけど、本当はもっと」
「もっと？」
「言わない。忘れて？」
「あり得ないだろ。言え」
言えるはずがない。例えばこういう小さなやり取りで笑える程度には、お前の痛みが落ち着いてくれたらいいと願っていた。なのに現実はどうだ。
（ダメだな。僕の方が笑わせてもらって）
そんな内省をしていたら、ベッドの方から大きな手で抱き寄せられた。
「なあに志垣」
「告白だろ、今の」
「理解に苦しむ。どこが？」
「誰かのこと祈るとか。告白なんだよ」
いや。いやいや違うし。違う、だろう？
「吉野サン頭いいくせに相当アホだな」
「アホは志垣だ調子のんな。せ、先輩にそれ言っちゃダメでしょ？」
「ほら、迫力ゼロだろ」
顔を伏せた僕に落ち着いた声が降ってくる。
今、志垣はもしかしたら笑っているんじゃないだろうか。
（ならいいよもう。僕が志垣のこと好きでも嫌いでも、どっちでもなくても）
今夜はどうしても口で勝てる気がしない。
僕は志垣を見習って、傍若無人にベッドへ乗り上がる。らしくない意趣返しをしつつ、彼を枕にして目を閉じる。
それから、部長として思い切って言ってみた。
「志垣、明日は六時起きね。朝食大盛りで予約しといた。食べたらシャワー浴びて部活行くよ。脚本読んで」
「……考えとく」
初めて引き出せた答えに小さく微笑む。
そんな僕に突っ込むように、大きな手が髪をかき混ぜてくる。
――ひとりで埋めた野望の種子は、いつしか芽を出していた。
緑の柔らかい芽がどんな風に枯れるか、育つのか、歪な僕だけはもう読めない。
