青蝶が人形のような宮女に「わらわの占術道具一式をこちらへ」と命じた。
「占術……ですか」
「うむ。わらわの特技よ」
それに困った顔で視線を向けてくる静芳に、無表情で会釈する月鈴。
(占術……たしかに方術のひとつに存在するが……これは自分が方士だと明かしているのか、趣味の一環なのかどっちだ)
方士を重宝する皇帝の中には、方士の占術により策を成功させて、先の大戦を勝ち残った話も存在している。それだけ方士の占術というのは巧みなのだが。
月鈴はこの年齢不詳な少女なのか老婆なのかわからない妃に、弄ばれているような、からかわれているようななんども言えない据わりの悪さを感じ、その得体の知れなさに彼女の言葉をそのまま取っていいのか計りかねていた。
そうこうしているうちに宮女が戻り、「白妃様どうぞ」と本当に占術道具一式を持ってきて、円卓に並べはじめた。
棒を筆立てに入れたもの、札の束、くじ引きのようなもの。それらを並べて、青蝶は筆立てを手にした。
「それで、捜し物とはなんのことだ?」
猫のように尖った瞳で見つめられ、月鈴は彼女と目を合わせる。
(……しゃべったことよりも、しゃべらないことのほうが重要だ……彼女がペラペラしゃべっているのは見せ罠で、本質は彼女が答えないことのほう……)
月鈴はそうひとり分析してから、口を開いた。
「このところ、後宮内で夜な夜な宮女がかどわかされているという噂はご存じで?」
「よその妃たちがひどく困惑しておるようだのう。困ったものだ」
「白妃様は困ってらっしゃらないのですか?」
「並大抵のことは、わらわひとりでできるからな。うちで宮女が削れたかどうかは知らぬ。だが……それがそなたの捜し物か?」
「はい。私は宮女たちの行方を追っています」
実際追っているのは、宮女たちを屍兵に替える元凶であり、皇帝陛下たちの魂を奪っている犯人なのだが、そこまで教える義理はないので黙っておく。
青蝶はそれに「うむ」と頷いてから、棒をしゃかしゃかとかき混ぜはじめた。そして月鈴に「一本お引き」と訴えるので、彼女は黙って言うとおりにする。
その棒を眺めながら、青蝶は「ふむ」と唸り声を上げた。
「今宵、捜し物が見つかるであろう。しかし、待ち人が来ぬこともあるため、どちらを選ぶべきかはよく考えるとよい」
「今宵……今晩ですか?」
「占術にはそう出ておるの。健闘を祈ろうぞ」
そう言われて、青蝶の屋敷を後にする。
静芳は心配そうに月鈴の顔を覗き込む。
「白妃様は、方士だったんでしょうか?」
「……わからん、ただあの人がただ者でないことがわかった」
「では、白妃様の占術も?」
「捜し物と待ち人……捜し物はおそらくは後宮内で連続で起こっている事件の真相だろうが、待ち人は……」
頭に浮かぶのは、今は皇帝の影武者としてなんとか国をかりそめとはいえ平穏に守っているはずの空燕である。
これは空燕の身になにかが起こるということではあるまいか。
(空燕から離れたら真相を見つけられるかもしれないが、あれの身になにかが起こるということだとしたら……あれは私と違って方術は苦手だから……)
「月鈴さん? 月鈴さん?」
心配そうに静芳に声をかけられ、我に返った。
「……すまない、余計な心配をかけて」
「別にいいのだけど……でも今夜もまた屍兵が出るのだとしたら……心配ですね?」
「……屍……ありがとう、それでなんとかしてみる」
静芳に手を取られて礼を言われ、静芳は少し顔を赤らめて首を捻っていたが、彼女の気にするところではなかった。
月鈴は浩宇に頼んで空燕宛に手紙を送り、その返事が届き次第、方服に着替えたのだった。
****
昼はいかに華やかで、あちこちに花が咲き誇る後宮であったとしても、夜になれば一転、人気はなくなる。
だからこそ、ひとりだけの足音でも大きく響く。歩いていたのは、大柄な宮女であった。
歩いていると、だんだん不可解な足音が響いてくる。
ドン ドン ドン ドン
その足音に宮女が歩みを止めて振り返る。やがて、だんだんと甘い腐臭が広がってきた……跳んできたのは、宮女の着物こそ着ているが、顔が見えないほどに札を貼られた屍兵が、手を真っ直ぐに伸ばして宮女目掛けて跳んできたのだ。
「……なるほど、ずいぶんといい趣味をしている」
宮女はそうひとりごちると、襲いかかってくる宮女の腕を取り、それを締め落とそうとする……しかし、屍兵に痛覚も、ましてや声帯も機能しておらず、ただ拘束から逃げ出そうとばかりにバタバタと動きはじめた。
「こら……大人しくしないか」
「ああ、そのまま大人しくしてもらっていてくれ」
宮女の元に走ってきた方服姿の少女に、宮女は笑いかけた。
「ずいぶんといい趣味をしているな、月鈴」
「……背丈で似合わないとは思っていたが、まあ……」
がたいがよ過ぎる上に、背丈も高い。宮女の格好をしたところで大して似合わないだろうと思っていたが、化粧映えするのが災いして、「がたいがよ過ぎて背丈が高いのを除けばいける」中途半端な宮女になってしまった空燕であった。
屍兵をそのまま捕まえている。
「屍兵、そのまんまさっさと札に記入して封印しなくっていいのかい?」
「その前に、屍兵にはやってもらわないといけないことがあるからな。空燕、手を離して」
「逃げられるぞ?」
「逃がすつもりだ。追いかける」
「……なるほど、巣を探すのか」
空燕は宮女の服を脱ぎ捨てると、方服姿になる。
「この格好で兵に見つかってくれるなよ、見つかったら面倒臭くなる」
「わかってるさ。さすがに兄上の後宮を荒らす訳にもいくまいよ」
手を離した途端に、屍兵は跳んだ。
逃げるようにそのまま跳んでいく。動きがただ攻撃に転じているときよりも活動的なのは、消えたくないという生存本能なのか、魂を抜いた者を主として主の元に帰ろうとする帰巣本能なのかがわからなかった。
やがて。薔薇の匂いがだんだんきつく濃くなってくるのがわかる。
「……この季節に薔薇か?」
空燕が顔をしかめるのに、月鈴が頷いた。
「私も昼間そう思ったところだ。屍兵は!?」
「薔薇の合間を縫っていくが……見えなくなった」
「……やはり、ここなのか?」
「ここはたしか……」
「白妃……青蝶の館だ」
あの人形のような奇天烈な宮女をはじめ、薔薇を育てるのに詳し過ぎる技術、薔薇の茶菓子、占術の鋭さ……あの妃はどこを取ってもおかしなものだったが、証拠がないのである。
念のため、空燕に魂が抜かれぬよう、彼の着ていた宮女の着物には桃の香油の香りを焚き込めて移しておいた。実際に空燕はあの屍兵からも、薔薇園に来てからもなんの反応も示さない。
ふたりは一旦屋根の上を跳びながら、館へと戻ることにした。そこで昼間のあらましを話す。それに空燕は「ふうむ……」と腕を組んだ。
「なにか知ったことでも?」
「青蝶……あれがあそこに住んでいた妃の名だな?」
「本人はそう名乗っているからな。偽名だったとしても私は知らない」
「そうじゃなくってなあ……この名前、どこかで見た気がするんだよ……うーん、どこだったか……」
空燕がうんうんと唸り声を上げている間に、館が見えてきた。
館に戻ると、ふたり揃って寝台に向かう。あぐらをかいてうんうん唸り声を上げる彼を見ていたが、やがて「ああ……」と太い声を上げた。
「思い出したか?」
「兄上の妃の名だ」
「……兄上のって、当然ではないのか? 泰然陛下の妃の名なのだから」
「違う、俺が出家する前に、皇太子宮にいたはずなんだ」
それには月鈴は驚いた顔をした。
基本的に、皇帝が後宮に妃を入れる際、先代の皇帝の妃を入れることは滅多にない。よほど美しいとか、よほど後ろ盾が巨大だとか、そういう理由がない限りは出家させるのが常である。
しかし、空燕が出家する前に皇太子宮にいたとすれば、たしかに空燕の長兄の妃になる。その頃には既に皇太子妃の位に付き、そのまま後宮に入った可能性が高い。
どうして長兄の妃が、そのまま泰然の妃として後宮にいるのか。
「あなたの兄上の後宮の人材名簿は残ってないのか? そこで確認すれば、あるいは」
「既に二代前のものだからな……さすがに残っているとは信じたいが、既に現在の後宮の人材名簿にすら手を付けられているんだ。二代前だったらもう残っているかどうか……一応浩宇に調べは付けさせるが」
「……どうなっているんだ、ここは本当に」
「お前さん、占術を気にする性分だったか?」
昼間に聞いた青蝶の占術をずっと気にする月鈴に、空燕は寝転びながら尋ねる。それに月鈴はむきになる。
「するに決まっているだろうが。あの女、仙女に限りなく近くなった方士の可能性が高い。もしそんな女が占術など行おうものなら、それは預言に近くなる……あんな芸当、私にはまだできない」
「ふーん」
「ふーんて、馬鹿にしているのか、空燕!?」
「いや? ただ、二兎追う者は一兎も得ずという警告だったのだとしたら、その占術適当過ぎやしないかと思ってな」
「なにを……」
「白妃が本当に仙女かどうか、方士かどうかは知らんが。もしなんらかの理由で屍兵をつくっているのを阻止されようとしたら、普通はひけらかさない。誤魔化そうとするところを、逆にあれこれと理屈を並べて、月鈴の不審を買っている。もし兄上の代からいる妃だとしたら、今までばれずに後宮に居座り、人材名簿にまで手を加えてまで手の込みようなんだから、そこでわざわざ方士の月鈴の不審を買う必要がある? 全て知らぬ存ぜずで誤魔化し通せばよかった話なのに」
「それは……」
「なあ。それこそが白妃の狙いなんじゃないか? お前さんを自分から目を離さないように仕向けることこそがさ」
空燕に指摘され、月鈴は絶句した。
「私は……嵌められたというのか?」
「あくまで俺が好き勝手言った口から出任せだ。まだなんとも言えん。ただ、屍兵が彼女の庭に帰っていった以上、限りなく黒に近いなにかだろ」
「……」
「あのなあ。月鈴」
空燕は強引に月鈴を引っ張って自身の隣に寝転がらせた。
それに月鈴はむっとした顔をする。
「やらしいことはしないぞ」
「雰囲気なしにするか、そんなこと。そうじゃなくって、お前さんをうちの事情に巻き込んだことは申し訳なく思っているが。お前さんひとりにわざわざ全部解決させようなんて思っちゃいないぞ、俺も」
「……だが、私は後宮にいる以上、私のほうが捜査は……」
「そりゃあな、後宮内の事情はお前さんのほうが調べがやりやすいだろうさ。だがな、俺も一応は皇帝の影武者だ。こちらもいろいろやりようはあるから、あんまりお前さんひとりで抱えてくれるなよ」
そう言いながら、太い腕で彼女をあやして寝かしつけようとする。それに月鈴はむっとした顔をして彼を見た。
「子供扱いするな」
「ここで大人扱いしても駄目だろ」
「やらしいことを言うな」
「言ってない」
「嘘」
「……して欲しかったら、頼むから黙れ」
互いにさんざんな言い合いをしたあと、眠気に誘われ、結局は本当になにもなくその夜は更けるのだった。
「占術……ですか」
「うむ。わらわの特技よ」
それに困った顔で視線を向けてくる静芳に、無表情で会釈する月鈴。
(占術……たしかに方術のひとつに存在するが……これは自分が方士だと明かしているのか、趣味の一環なのかどっちだ)
方士を重宝する皇帝の中には、方士の占術により策を成功させて、先の大戦を勝ち残った話も存在している。それだけ方士の占術というのは巧みなのだが。
月鈴はこの年齢不詳な少女なのか老婆なのかわからない妃に、弄ばれているような、からかわれているようななんども言えない据わりの悪さを感じ、その得体の知れなさに彼女の言葉をそのまま取っていいのか計りかねていた。
そうこうしているうちに宮女が戻り、「白妃様どうぞ」と本当に占術道具一式を持ってきて、円卓に並べはじめた。
棒を筆立てに入れたもの、札の束、くじ引きのようなもの。それらを並べて、青蝶は筆立てを手にした。
「それで、捜し物とはなんのことだ?」
猫のように尖った瞳で見つめられ、月鈴は彼女と目を合わせる。
(……しゃべったことよりも、しゃべらないことのほうが重要だ……彼女がペラペラしゃべっているのは見せ罠で、本質は彼女が答えないことのほう……)
月鈴はそうひとり分析してから、口を開いた。
「このところ、後宮内で夜な夜な宮女がかどわかされているという噂はご存じで?」
「よその妃たちがひどく困惑しておるようだのう。困ったものだ」
「白妃様は困ってらっしゃらないのですか?」
「並大抵のことは、わらわひとりでできるからな。うちで宮女が削れたかどうかは知らぬ。だが……それがそなたの捜し物か?」
「はい。私は宮女たちの行方を追っています」
実際追っているのは、宮女たちを屍兵に替える元凶であり、皇帝陛下たちの魂を奪っている犯人なのだが、そこまで教える義理はないので黙っておく。
青蝶はそれに「うむ」と頷いてから、棒をしゃかしゃかとかき混ぜはじめた。そして月鈴に「一本お引き」と訴えるので、彼女は黙って言うとおりにする。
その棒を眺めながら、青蝶は「ふむ」と唸り声を上げた。
「今宵、捜し物が見つかるであろう。しかし、待ち人が来ぬこともあるため、どちらを選ぶべきかはよく考えるとよい」
「今宵……今晩ですか?」
「占術にはそう出ておるの。健闘を祈ろうぞ」
そう言われて、青蝶の屋敷を後にする。
静芳は心配そうに月鈴の顔を覗き込む。
「白妃様は、方士だったんでしょうか?」
「……わからん、ただあの人がただ者でないことがわかった」
「では、白妃様の占術も?」
「捜し物と待ち人……捜し物はおそらくは後宮内で連続で起こっている事件の真相だろうが、待ち人は……」
頭に浮かぶのは、今は皇帝の影武者としてなんとか国をかりそめとはいえ平穏に守っているはずの空燕である。
これは空燕の身になにかが起こるということではあるまいか。
(空燕から離れたら真相を見つけられるかもしれないが、あれの身になにかが起こるということだとしたら……あれは私と違って方術は苦手だから……)
「月鈴さん? 月鈴さん?」
心配そうに静芳に声をかけられ、我に返った。
「……すまない、余計な心配をかけて」
「別にいいのだけど……でも今夜もまた屍兵が出るのだとしたら……心配ですね?」
「……屍……ありがとう、それでなんとかしてみる」
静芳に手を取られて礼を言われ、静芳は少し顔を赤らめて首を捻っていたが、彼女の気にするところではなかった。
月鈴は浩宇に頼んで空燕宛に手紙を送り、その返事が届き次第、方服に着替えたのだった。
****
昼はいかに華やかで、あちこちに花が咲き誇る後宮であったとしても、夜になれば一転、人気はなくなる。
だからこそ、ひとりだけの足音でも大きく響く。歩いていたのは、大柄な宮女であった。
歩いていると、だんだん不可解な足音が響いてくる。
ドン ドン ドン ドン
その足音に宮女が歩みを止めて振り返る。やがて、だんだんと甘い腐臭が広がってきた……跳んできたのは、宮女の着物こそ着ているが、顔が見えないほどに札を貼られた屍兵が、手を真っ直ぐに伸ばして宮女目掛けて跳んできたのだ。
「……なるほど、ずいぶんといい趣味をしている」
宮女はそうひとりごちると、襲いかかってくる宮女の腕を取り、それを締め落とそうとする……しかし、屍兵に痛覚も、ましてや声帯も機能しておらず、ただ拘束から逃げ出そうとばかりにバタバタと動きはじめた。
「こら……大人しくしないか」
「ああ、そのまま大人しくしてもらっていてくれ」
宮女の元に走ってきた方服姿の少女に、宮女は笑いかけた。
「ずいぶんといい趣味をしているな、月鈴」
「……背丈で似合わないとは思っていたが、まあ……」
がたいがよ過ぎる上に、背丈も高い。宮女の格好をしたところで大して似合わないだろうと思っていたが、化粧映えするのが災いして、「がたいがよ過ぎて背丈が高いのを除けばいける」中途半端な宮女になってしまった空燕であった。
屍兵をそのまま捕まえている。
「屍兵、そのまんまさっさと札に記入して封印しなくっていいのかい?」
「その前に、屍兵にはやってもらわないといけないことがあるからな。空燕、手を離して」
「逃げられるぞ?」
「逃がすつもりだ。追いかける」
「……なるほど、巣を探すのか」
空燕は宮女の服を脱ぎ捨てると、方服姿になる。
「この格好で兵に見つかってくれるなよ、見つかったら面倒臭くなる」
「わかってるさ。さすがに兄上の後宮を荒らす訳にもいくまいよ」
手を離した途端に、屍兵は跳んだ。
逃げるようにそのまま跳んでいく。動きがただ攻撃に転じているときよりも活動的なのは、消えたくないという生存本能なのか、魂を抜いた者を主として主の元に帰ろうとする帰巣本能なのかがわからなかった。
やがて。薔薇の匂いがだんだんきつく濃くなってくるのがわかる。
「……この季節に薔薇か?」
空燕が顔をしかめるのに、月鈴が頷いた。
「私も昼間そう思ったところだ。屍兵は!?」
「薔薇の合間を縫っていくが……見えなくなった」
「……やはり、ここなのか?」
「ここはたしか……」
「白妃……青蝶の館だ」
あの人形のような奇天烈な宮女をはじめ、薔薇を育てるのに詳し過ぎる技術、薔薇の茶菓子、占術の鋭さ……あの妃はどこを取ってもおかしなものだったが、証拠がないのである。
念のため、空燕に魂が抜かれぬよう、彼の着ていた宮女の着物には桃の香油の香りを焚き込めて移しておいた。実際に空燕はあの屍兵からも、薔薇園に来てからもなんの反応も示さない。
ふたりは一旦屋根の上を跳びながら、館へと戻ることにした。そこで昼間のあらましを話す。それに空燕は「ふうむ……」と腕を組んだ。
「なにか知ったことでも?」
「青蝶……あれがあそこに住んでいた妃の名だな?」
「本人はそう名乗っているからな。偽名だったとしても私は知らない」
「そうじゃなくってなあ……この名前、どこかで見た気がするんだよ……うーん、どこだったか……」
空燕がうんうんと唸り声を上げている間に、館が見えてきた。
館に戻ると、ふたり揃って寝台に向かう。あぐらをかいてうんうん唸り声を上げる彼を見ていたが、やがて「ああ……」と太い声を上げた。
「思い出したか?」
「兄上の妃の名だ」
「……兄上のって、当然ではないのか? 泰然陛下の妃の名なのだから」
「違う、俺が出家する前に、皇太子宮にいたはずなんだ」
それには月鈴は驚いた顔をした。
基本的に、皇帝が後宮に妃を入れる際、先代の皇帝の妃を入れることは滅多にない。よほど美しいとか、よほど後ろ盾が巨大だとか、そういう理由がない限りは出家させるのが常である。
しかし、空燕が出家する前に皇太子宮にいたとすれば、たしかに空燕の長兄の妃になる。その頃には既に皇太子妃の位に付き、そのまま後宮に入った可能性が高い。
どうして長兄の妃が、そのまま泰然の妃として後宮にいるのか。
「あなたの兄上の後宮の人材名簿は残ってないのか? そこで確認すれば、あるいは」
「既に二代前のものだからな……さすがに残っているとは信じたいが、既に現在の後宮の人材名簿にすら手を付けられているんだ。二代前だったらもう残っているかどうか……一応浩宇に調べは付けさせるが」
「……どうなっているんだ、ここは本当に」
「お前さん、占術を気にする性分だったか?」
昼間に聞いた青蝶の占術をずっと気にする月鈴に、空燕は寝転びながら尋ねる。それに月鈴はむきになる。
「するに決まっているだろうが。あの女、仙女に限りなく近くなった方士の可能性が高い。もしそんな女が占術など行おうものなら、それは預言に近くなる……あんな芸当、私にはまだできない」
「ふーん」
「ふーんて、馬鹿にしているのか、空燕!?」
「いや? ただ、二兎追う者は一兎も得ずという警告だったのだとしたら、その占術適当過ぎやしないかと思ってな」
「なにを……」
「白妃が本当に仙女かどうか、方士かどうかは知らんが。もしなんらかの理由で屍兵をつくっているのを阻止されようとしたら、普通はひけらかさない。誤魔化そうとするところを、逆にあれこれと理屈を並べて、月鈴の不審を買っている。もし兄上の代からいる妃だとしたら、今までばれずに後宮に居座り、人材名簿にまで手を加えてまで手の込みようなんだから、そこでわざわざ方士の月鈴の不審を買う必要がある? 全て知らぬ存ぜずで誤魔化し通せばよかった話なのに」
「それは……」
「なあ。それこそが白妃の狙いなんじゃないか? お前さんを自分から目を離さないように仕向けることこそがさ」
空燕に指摘され、月鈴は絶句した。
「私は……嵌められたというのか?」
「あくまで俺が好き勝手言った口から出任せだ。まだなんとも言えん。ただ、屍兵が彼女の庭に帰っていった以上、限りなく黒に近いなにかだろ」
「……」
「あのなあ。月鈴」
空燕は強引に月鈴を引っ張って自身の隣に寝転がらせた。
それに月鈴はむっとした顔をする。
「やらしいことはしないぞ」
「雰囲気なしにするか、そんなこと。そうじゃなくって、お前さんをうちの事情に巻き込んだことは申し訳なく思っているが。お前さんひとりにわざわざ全部解決させようなんて思っちゃいないぞ、俺も」
「……だが、私は後宮にいる以上、私のほうが捜査は……」
「そりゃあな、後宮内の事情はお前さんのほうが調べがやりやすいだろうさ。だがな、俺も一応は皇帝の影武者だ。こちらもいろいろやりようはあるから、あんまりお前さんひとりで抱えてくれるなよ」
そう言いながら、太い腕で彼女をあやして寝かしつけようとする。それに月鈴はむっとした顔をして彼を見た。
「子供扱いするな」
「ここで大人扱いしても駄目だろ」
「やらしいことを言うな」
「言ってない」
「嘘」
「……して欲しかったら、頼むから黙れ」
互いにさんざんな言い合いをしたあと、眠気に誘われ、結局は本当になにもなくその夜は更けるのだった。