空燕と月鈴。雲仙国の連続皇帝昏睡事件を食い止めたため、ささやかながらの送別会が開かれることとなった。
とはいえ、まさか泰然と空燕がしばらくの間入れ替わっていたことなど、泰然の側近たち以外だったら花妃と彼女の侍女である静芳、あとは山茶花館に住まう人々しかいないため、送別会はそのまま花妃の館で執り行われることとなった。
今まではふたりでひっそりと食事を摂ることが多かったために、こうして花妃の手配した料理を振る舞われるとは思ってもいなかったため、それには驚いた。
「いきなり山茶花館に援軍まで送ってもらっていたというのに、その上で送別会まで開いてもらえるとは……ありがたい」
空燕が申し訳なさそうに花妃に礼を言うと、花妃はにこやかに笑う。
「いいえ、こちらのほうこそ、お礼をいくつ言っても足りませんわ。陛下を……起こしてくださいましたもの」
「兄上が目覚められたとは、先程伺いましたが。兄上の容態は?」
「今は山茶花館の皆様により、回復訓練中ですの。数週間も寝たきりでしたので、体が痩せ衰えてらっしゃいますものね……お体がよくなり次第、雨桐に戻られるとのことです」
「そうか……ありがたい」
そう言いながら空燕は何度目かの礼を、花妃に対して行ったのだ。
一方、月鈴は見たことのない食事ばかりで、途方に暮れながら花妃の振る舞ってくれた料理を食べていた。近くでは静芳が丁寧に料理のことを教えてくれる。
「私たちは方士で、基本的に肉や魚、卵の類は食べられないんだが……」
「ええ、存じてます。こちらの麺は豆腐を干してつくられたものですから、一見すると肉入りの麺にも見えますが、食べられるはずですよ。こちらは大豆でつくった肉もどきですね。味付けも西方の香辛料で辛めにして、豆腐と一緒にいただきます」
「……なにからなにまで。私は空燕の手伝いをしただけだというのに」
「いいえ。私、なにも知らないまま魂を抜かれて、最悪屍兵の仲間になるところでしたもの。月鈴さんには感謝しております」
そう静芳に熱っぽく言われ、月鈴は冷静に答える。
「私は方士だから、力を持たぬ者を守るのは義務だと思う。だからあなたもそこまで気を張らないで欲しい」
「まあ……」
なぜか静芳に顔を赤くされて、月鈴は困惑のまま空燕のほうを見た。
空燕はのんびりと出された料理を食べつつ、酒を舐めていた。
他の妃たちへの協調のため、どれだけ情報を出すべきか悩んでいた空燕だが、月鈴は「あの人は多分下手な忖度はしないから、彼女に任せたほうがいい」ということで、事の顛末をある程度は話すことにした。既に側近たちには情報は共有したのだし、今後の後宮の守りのこともあるのだから、話せるだけ話しておいたほうがいいだろう。
三代前の皇帝の負の遺産、四像国の方士、仙女の疑いのある方士の暗躍、妖怪を呼び寄せる薬屋……。それらの話を、花妃は顔を曇らせながら聞いていた。
「……四像国も、全員が全員出家した訳ではございません。小さくなりながらも、亡命国家をつくってらっしゃるはずです。彼らとは、また話をしなければなりませんね……わかりました。陛下に打診しておきましょう」
「よろしくお願いします。あと、一応俺たちで雨桐の結界は張り直しました。しかし、四像国にも方士たちがいて、我々の知る方術とは若干異なる力を用います。おまけに今回は後宮に潜入を許してしまいましたから……」
「妃選別の方法も、一旦再考する必要がございますね。宦官、宮女、役人……この辺りは陛下に陳情しますが、わたくしたちはこれらに立ち向かう術はございますか?」
「完全に、とは言い切れませんが。桃の花をもっと植えてください。できれば花見ができるほどに。季節になれば実をもいで食べられるように」
その空燕の言葉に、花妃は大きな瞳をパチリと瞬かせた。
「そんな簡単な方法でよろしいんですか?」
「たしかに、相手は我々よりも腕の立つ方士……もはやあれは仙女と呼んでも過言ではない相手でしたが……それでも代々知られる破邪の術は通用しました。有事の際には桃の香を焚き込めて、桃の枝を燃やしてください。妖怪も屍兵も、破邪の術からは逃げようとしますから。桃の香が簡単に手に入るようになりましたら、宮女や下働きの者たちの害も減るはずです」
「そうですわね……お使いに行って帰ってこなかった子たちが、憐れでしたから……」
「そういえば……、陛下がご帰還なされるまではあと二週間ほどかかるかと存じますが、おふたりはいつまでいらっしゃるおつもりで?
静芳に尋ねられ、空燕と月鈴は顔を見合わせた。
「夜になったら、やり残しがあるから。それを片付けたら、今晩中にもここを離れるさ」
「まあ……そんなにあっさりと」
花妃に言われるが、空燕はやんわりと笑う。
「我々はあくまで、陛下の影武者ですから。陛下の無事がわかった以上、そろそろ交替するのが筋でしょうし。なあ、月鈴?」
「……そうですね」
送別会の締めに出されたのは、杏仁豆腐であった。その真っ白な甘味を堪能し、ふたりは今夜のことを思ったのだ。
****
夜になり、人がなりを潜めた頃。
既に主を失った館に、空燕と月鈴はいた。ここを後宮を管理する宦官たちに明け渡すためにも、やらなくてはいけないことがあった。
「失礼する……むう」
「……あの人は、本当に冒涜的だな」
そこでは人間なのかそうでないのかわからない動きをしていた青蝶の侍女が、おかしな姿勢で床に転がっていた。主がいなくなったせいなのか、ピクリとも動かない。
「本当に……冒涜的だ」
「しかしこりゃなんだい? 屍兵ではないように見えるが……人間にしてはありえない姿勢だ」
転がり方がまずおかしい。関節を無視してぐるりと一周足が肩に嵌まっているのだ。柔軟体操しているような奇術団の団員だったらいざ知らず、一介の侍女でこれほど体の柔らかい人間はいるのだろうか。
月鈴は既に体が凝り固まっている侍女の体をどうにか正そうとするが、既に固まってしまって無理だった。空燕もどうにか彼女を横たえようとするが、下手したら千切れると思ったら無理に戻すこともできなかった。
「彼女は既に亡くなっている。遺体を無理矢理白妃は動かして侍女の代わりにしていたんだと思う」
「……侍女の替わり? それって」
「三魂七魄の内、魂を抜けば生ける屍と化す。その一方で既に三魂七魄が抜けきった遺体に魄を埋め込む外道の技があると、師父に聞いたことがある。もっとも、そんなことできるのは方士の中でも修行と鍛錬を繰り返して三魂七魄を拡張できるだけ拡張し、自分自身の魄を切り分けることのできるような者しかできないはずだが」
「そんなもの、悪用したら……」
「ああ……墓場さえあれば、屍兵をつくり放題になってしまうんだ。白妃は雇われたらなんでもする仙女だが、墓場の多い場所に移動しないことを祈るしかない」
薔薇の匂いがむわりと漂う館の庭を、空燕と月鈴は手袋を嵌めて掘り起こしていた。埋められていた屍兵が暴れないよう、札に正しく術式を書き換えてから、そのまま行方不明者全員分の数と照らし合わせる。
薔薇の匂いがすっかりと染みついてしまっていたものの、彼らは既に亡者だ。魂を抜かれてしまい、未だに魄だけが残ってしまっている憐れな存在。
既に方士のことも、影武者のことも知っている花妃たち主従にどうしてなにをするのか言わなかったのかというと。
月鈴は術式を正しく書き換えながら、更に新しく札を貼り付ける。貼られた屍兵は、一瞬ガタガタと関節を無視した無茶苦茶な動きをするが、そのあとピタリと止まって手足が地面に放り出される。
残された魄を全て抜き取っていたのである。
「……すまんな、月鈴。こんなことをさせてしまって」
「いえ。私ができるのは後宮内に埋まった、人数のわかっている屍兵だけ。さすがに雨桐の町中の屍兵たちの魄までは抜いてあげることができない」
「……人を完全に殺すことを託して、それをすまんと言っているつもりだったんだが」
「それはあなたが気にすることじゃないと思う。彼らは魂を抜かれてしまった時点で既に死んでしまったのに、後生大事に体を動かし回っていたが、既にそこに自分の意思はない。本当にそれを、生きていると認めてしまってもいいのか?」
月鈴は市井の人々の生き方がよくわからないほどに世間知らずであり、彼女が詳しいのは方術ばかりだが。それでも彼女には師父がいて、寺院にずっと篭もって身につけた死生観が存在している。
方術に長ければ長けるほど、その死生観が身に染みてくるのだ。
「意思がない生き方に、生きている価値があるとは、私には思えない。だから彼らはきちんと葬ってあげなければ可哀想だ。また彼らの意思を無視されて、好き勝手に弄ばれるのかもしれないのだから」
「……そうだな」
あまりにも冒涜に冒涜を重ねられた遺体から、どうにか全員分の魄を抜き終えると、全員を棺桶の中に入れた。
これらは全て、後宮内に存在する共同墓地に埋める手はずとなっている。おかしな姿勢の侍女も、主人に捨てられてしまった上に遺体の持ち主も身元がはっきりしないため、きちんと札を貼って封印を施した上で、棺桶に入れてやることにした。
「そういえば、あなたのほうこそいいのか? このまま雨桐に残らなくても?」
「んー? 俺が還俗して、皇族に戻れと?」
「私は皇族は今のところあなた以外に知らないが……全ての元凶であるあなたの父上は、暴君だったように見て思う。しかしあなたはこの国の民草を大切にしている。あなたはこの国に必要なんじゃないかと思ったんだが……」
「ぷっ……」
空燕は唐突に噴き出して、そのまま腹を抱えて笑い出してしまった。それに月鈴はむくれる。
「私は、あなたを笑わせるためにそんなこと言ったんじゃない」
「いや……すまんすまん。まさか、お前さんが俺のことをそう思っていたなんてと、面白かっただけだ」
「だから、私はあなたに面白いことを言った覚えはない」
月鈴はむくれるが、ようやく空燕は丸めた背中を正した。目尻に涙まで浮かべていたが、それはすぐに拭った。
「そもそも兄上が目覚めたんだから、兄上に全て任せるよ。それに、側近たちからしてみれば俺はあくまで兄上の代理だったからなあ。兄上でなければ、あれらも納得しないだろうさ。それに、ここに住まう妃たちもな」
「そうだが……せめて、泰然陛下の側近になるというのは」
「それは側近の椅子をひとつ奪うことになるだろ。いくら兄上が人たらしとは言えど、全員を納得させることはできないのは、浩宇のことでもわかっているだろ」
連行されていった浩宇のことを思い、月鈴は黙る。
祖国と恋慕の板挟みになり、とうとう恋慕を捨てて妖怪になるしかなかった彼。もし泰然が完全に彼を落としていたら、連続皇帝昏睡事件も、もっと違う形の解決があっただろう。
もっとも。雇われた仙女が巣くっていた以上、どういう形であれ方士を介入させなかったら、雲仙国は瓦解し、四像国のひとり勝ちとなっていたのだが。
「……あなたは、この国が嫌いか?」
最後に月鈴は尋ねた。それに対してあっさりと空燕は言う。
「好きだ。愛していると言ってもいい。だがな、俺が兄上の手伝いをしてどうこうできるもんでもあるまいし、大人しく寺院に戻るさ」
「……そうか。あなたがもう納得しているなら、私はこれ以上なにも言わないんだ」
「と言うより、お前さんは俺にそんなに雨桐に残っていて欲しかったのか?」
そう尋ねられ、月鈴は喉を鳴らす。その珍しい反応に、空燕はきょとんと目を瞬かせた。
「月鈴?」
「……私はあなたのことがよくわからない。私のことを好きだと言ったり、この国を愛していると言ったり。私よりも後宮や雨桐の様子、この国のことについて詳しかったり……だから、あなたが寺院で燻っているよりも楽しいことがあるんだったら、残ったほうがいいんじゃないかと思っただけで……」
「そこにお前さんの気持ちは含まれるのかい? だとしたら、俺と離れてせいせいしたと取るので、俺は寂しく不貞寝する」
空燕にからかわれているのか本気なのかわからないことを言われ、月鈴は肩を跳ねさせた。
「……寺院に話が来たとき、あなたが玉座に就くんじゃないかと怖かった。あなたが私と一緒にいてくれた。私には方術以外なにもないから、寂しいのか寂しくないのかわからなかったが……あなたと出会って私は寂しさを知った」
月鈴の言葉はたどたどしい。雨桐に住まう子供のほうがまだ、恋や愛についての言葉を知っていただろうが、あいにく月鈴は生まれたときから寺院にいたため、恋も愛も知るのが遅過ぎたのだ。
月鈴は息を吸って、吐いた。
「あなたがいなくなって寂しさを覚えるのは悪くないと思っていた。だから、寂しいことはなにもないと知って、途方に暮れている」
「……月鈴、そういうのはなあ」
そう言いながら空燕は彼女の髪をひと房掴んだ。
「愛しいって言うんだ」
そのひと房に、口付けを落とした。
とはいえ、まさか泰然と空燕がしばらくの間入れ替わっていたことなど、泰然の側近たち以外だったら花妃と彼女の侍女である静芳、あとは山茶花館に住まう人々しかいないため、送別会はそのまま花妃の館で執り行われることとなった。
今まではふたりでひっそりと食事を摂ることが多かったために、こうして花妃の手配した料理を振る舞われるとは思ってもいなかったため、それには驚いた。
「いきなり山茶花館に援軍まで送ってもらっていたというのに、その上で送別会まで開いてもらえるとは……ありがたい」
空燕が申し訳なさそうに花妃に礼を言うと、花妃はにこやかに笑う。
「いいえ、こちらのほうこそ、お礼をいくつ言っても足りませんわ。陛下を……起こしてくださいましたもの」
「兄上が目覚められたとは、先程伺いましたが。兄上の容態は?」
「今は山茶花館の皆様により、回復訓練中ですの。数週間も寝たきりでしたので、体が痩せ衰えてらっしゃいますものね……お体がよくなり次第、雨桐に戻られるとのことです」
「そうか……ありがたい」
そう言いながら空燕は何度目かの礼を、花妃に対して行ったのだ。
一方、月鈴は見たことのない食事ばかりで、途方に暮れながら花妃の振る舞ってくれた料理を食べていた。近くでは静芳が丁寧に料理のことを教えてくれる。
「私たちは方士で、基本的に肉や魚、卵の類は食べられないんだが……」
「ええ、存じてます。こちらの麺は豆腐を干してつくられたものですから、一見すると肉入りの麺にも見えますが、食べられるはずですよ。こちらは大豆でつくった肉もどきですね。味付けも西方の香辛料で辛めにして、豆腐と一緒にいただきます」
「……なにからなにまで。私は空燕の手伝いをしただけだというのに」
「いいえ。私、なにも知らないまま魂を抜かれて、最悪屍兵の仲間になるところでしたもの。月鈴さんには感謝しております」
そう静芳に熱っぽく言われ、月鈴は冷静に答える。
「私は方士だから、力を持たぬ者を守るのは義務だと思う。だからあなたもそこまで気を張らないで欲しい」
「まあ……」
なぜか静芳に顔を赤くされて、月鈴は困惑のまま空燕のほうを見た。
空燕はのんびりと出された料理を食べつつ、酒を舐めていた。
他の妃たちへの協調のため、どれだけ情報を出すべきか悩んでいた空燕だが、月鈴は「あの人は多分下手な忖度はしないから、彼女に任せたほうがいい」ということで、事の顛末をある程度は話すことにした。既に側近たちには情報は共有したのだし、今後の後宮の守りのこともあるのだから、話せるだけ話しておいたほうがいいだろう。
三代前の皇帝の負の遺産、四像国の方士、仙女の疑いのある方士の暗躍、妖怪を呼び寄せる薬屋……。それらの話を、花妃は顔を曇らせながら聞いていた。
「……四像国も、全員が全員出家した訳ではございません。小さくなりながらも、亡命国家をつくってらっしゃるはずです。彼らとは、また話をしなければなりませんね……わかりました。陛下に打診しておきましょう」
「よろしくお願いします。あと、一応俺たちで雨桐の結界は張り直しました。しかし、四像国にも方士たちがいて、我々の知る方術とは若干異なる力を用います。おまけに今回は後宮に潜入を許してしまいましたから……」
「妃選別の方法も、一旦再考する必要がございますね。宦官、宮女、役人……この辺りは陛下に陳情しますが、わたくしたちはこれらに立ち向かう術はございますか?」
「完全に、とは言い切れませんが。桃の花をもっと植えてください。できれば花見ができるほどに。季節になれば実をもいで食べられるように」
その空燕の言葉に、花妃は大きな瞳をパチリと瞬かせた。
「そんな簡単な方法でよろしいんですか?」
「たしかに、相手は我々よりも腕の立つ方士……もはやあれは仙女と呼んでも過言ではない相手でしたが……それでも代々知られる破邪の術は通用しました。有事の際には桃の香を焚き込めて、桃の枝を燃やしてください。妖怪も屍兵も、破邪の術からは逃げようとしますから。桃の香が簡単に手に入るようになりましたら、宮女や下働きの者たちの害も減るはずです」
「そうですわね……お使いに行って帰ってこなかった子たちが、憐れでしたから……」
「そういえば……、陛下がご帰還なされるまではあと二週間ほどかかるかと存じますが、おふたりはいつまでいらっしゃるおつもりで?
静芳に尋ねられ、空燕と月鈴は顔を見合わせた。
「夜になったら、やり残しがあるから。それを片付けたら、今晩中にもここを離れるさ」
「まあ……そんなにあっさりと」
花妃に言われるが、空燕はやんわりと笑う。
「我々はあくまで、陛下の影武者ですから。陛下の無事がわかった以上、そろそろ交替するのが筋でしょうし。なあ、月鈴?」
「……そうですね」
送別会の締めに出されたのは、杏仁豆腐であった。その真っ白な甘味を堪能し、ふたりは今夜のことを思ったのだ。
****
夜になり、人がなりを潜めた頃。
既に主を失った館に、空燕と月鈴はいた。ここを後宮を管理する宦官たちに明け渡すためにも、やらなくてはいけないことがあった。
「失礼する……むう」
「……あの人は、本当に冒涜的だな」
そこでは人間なのかそうでないのかわからない動きをしていた青蝶の侍女が、おかしな姿勢で床に転がっていた。主がいなくなったせいなのか、ピクリとも動かない。
「本当に……冒涜的だ」
「しかしこりゃなんだい? 屍兵ではないように見えるが……人間にしてはありえない姿勢だ」
転がり方がまずおかしい。関節を無視してぐるりと一周足が肩に嵌まっているのだ。柔軟体操しているような奇術団の団員だったらいざ知らず、一介の侍女でこれほど体の柔らかい人間はいるのだろうか。
月鈴は既に体が凝り固まっている侍女の体をどうにか正そうとするが、既に固まってしまって無理だった。空燕もどうにか彼女を横たえようとするが、下手したら千切れると思ったら無理に戻すこともできなかった。
「彼女は既に亡くなっている。遺体を無理矢理白妃は動かして侍女の代わりにしていたんだと思う」
「……侍女の替わり? それって」
「三魂七魄の内、魂を抜けば生ける屍と化す。その一方で既に三魂七魄が抜けきった遺体に魄を埋め込む外道の技があると、師父に聞いたことがある。もっとも、そんなことできるのは方士の中でも修行と鍛錬を繰り返して三魂七魄を拡張できるだけ拡張し、自分自身の魄を切り分けることのできるような者しかできないはずだが」
「そんなもの、悪用したら……」
「ああ……墓場さえあれば、屍兵をつくり放題になってしまうんだ。白妃は雇われたらなんでもする仙女だが、墓場の多い場所に移動しないことを祈るしかない」
薔薇の匂いがむわりと漂う館の庭を、空燕と月鈴は手袋を嵌めて掘り起こしていた。埋められていた屍兵が暴れないよう、札に正しく術式を書き換えてから、そのまま行方不明者全員分の数と照らし合わせる。
薔薇の匂いがすっかりと染みついてしまっていたものの、彼らは既に亡者だ。魂を抜かれてしまい、未だに魄だけが残ってしまっている憐れな存在。
既に方士のことも、影武者のことも知っている花妃たち主従にどうしてなにをするのか言わなかったのかというと。
月鈴は術式を正しく書き換えながら、更に新しく札を貼り付ける。貼られた屍兵は、一瞬ガタガタと関節を無視した無茶苦茶な動きをするが、そのあとピタリと止まって手足が地面に放り出される。
残された魄を全て抜き取っていたのである。
「……すまんな、月鈴。こんなことをさせてしまって」
「いえ。私ができるのは後宮内に埋まった、人数のわかっている屍兵だけ。さすがに雨桐の町中の屍兵たちの魄までは抜いてあげることができない」
「……人を完全に殺すことを託して、それをすまんと言っているつもりだったんだが」
「それはあなたが気にすることじゃないと思う。彼らは魂を抜かれてしまった時点で既に死んでしまったのに、後生大事に体を動かし回っていたが、既にそこに自分の意思はない。本当にそれを、生きていると認めてしまってもいいのか?」
月鈴は市井の人々の生き方がよくわからないほどに世間知らずであり、彼女が詳しいのは方術ばかりだが。それでも彼女には師父がいて、寺院にずっと篭もって身につけた死生観が存在している。
方術に長ければ長けるほど、その死生観が身に染みてくるのだ。
「意思がない生き方に、生きている価値があるとは、私には思えない。だから彼らはきちんと葬ってあげなければ可哀想だ。また彼らの意思を無視されて、好き勝手に弄ばれるのかもしれないのだから」
「……そうだな」
あまりにも冒涜に冒涜を重ねられた遺体から、どうにか全員分の魄を抜き終えると、全員を棺桶の中に入れた。
これらは全て、後宮内に存在する共同墓地に埋める手はずとなっている。おかしな姿勢の侍女も、主人に捨てられてしまった上に遺体の持ち主も身元がはっきりしないため、きちんと札を貼って封印を施した上で、棺桶に入れてやることにした。
「そういえば、あなたのほうこそいいのか? このまま雨桐に残らなくても?」
「んー? 俺が還俗して、皇族に戻れと?」
「私は皇族は今のところあなた以外に知らないが……全ての元凶であるあなたの父上は、暴君だったように見て思う。しかしあなたはこの国の民草を大切にしている。あなたはこの国に必要なんじゃないかと思ったんだが……」
「ぷっ……」
空燕は唐突に噴き出して、そのまま腹を抱えて笑い出してしまった。それに月鈴はむくれる。
「私は、あなたを笑わせるためにそんなこと言ったんじゃない」
「いや……すまんすまん。まさか、お前さんが俺のことをそう思っていたなんてと、面白かっただけだ」
「だから、私はあなたに面白いことを言った覚えはない」
月鈴はむくれるが、ようやく空燕は丸めた背中を正した。目尻に涙まで浮かべていたが、それはすぐに拭った。
「そもそも兄上が目覚めたんだから、兄上に全て任せるよ。それに、側近たちからしてみれば俺はあくまで兄上の代理だったからなあ。兄上でなければ、あれらも納得しないだろうさ。それに、ここに住まう妃たちもな」
「そうだが……せめて、泰然陛下の側近になるというのは」
「それは側近の椅子をひとつ奪うことになるだろ。いくら兄上が人たらしとは言えど、全員を納得させることはできないのは、浩宇のことでもわかっているだろ」
連行されていった浩宇のことを思い、月鈴は黙る。
祖国と恋慕の板挟みになり、とうとう恋慕を捨てて妖怪になるしかなかった彼。もし泰然が完全に彼を落としていたら、連続皇帝昏睡事件も、もっと違う形の解決があっただろう。
もっとも。雇われた仙女が巣くっていた以上、どういう形であれ方士を介入させなかったら、雲仙国は瓦解し、四像国のひとり勝ちとなっていたのだが。
「……あなたは、この国が嫌いか?」
最後に月鈴は尋ねた。それに対してあっさりと空燕は言う。
「好きだ。愛していると言ってもいい。だがな、俺が兄上の手伝いをしてどうこうできるもんでもあるまいし、大人しく寺院に戻るさ」
「……そうか。あなたがもう納得しているなら、私はこれ以上なにも言わないんだ」
「と言うより、お前さんは俺にそんなに雨桐に残っていて欲しかったのか?」
そう尋ねられ、月鈴は喉を鳴らす。その珍しい反応に、空燕はきょとんと目を瞬かせた。
「月鈴?」
「……私はあなたのことがよくわからない。私のことを好きだと言ったり、この国を愛していると言ったり。私よりも後宮や雨桐の様子、この国のことについて詳しかったり……だから、あなたが寺院で燻っているよりも楽しいことがあるんだったら、残ったほうがいいんじゃないかと思っただけで……」
「そこにお前さんの気持ちは含まれるのかい? だとしたら、俺と離れてせいせいしたと取るので、俺は寂しく不貞寝する」
空燕にからかわれているのか本気なのかわからないことを言われ、月鈴は肩を跳ねさせた。
「……寺院に話が来たとき、あなたが玉座に就くんじゃないかと怖かった。あなたが私と一緒にいてくれた。私には方術以外なにもないから、寂しいのか寂しくないのかわからなかったが……あなたと出会って私は寂しさを知った」
月鈴の言葉はたどたどしい。雨桐に住まう子供のほうがまだ、恋や愛についての言葉を知っていただろうが、あいにく月鈴は生まれたときから寺院にいたため、恋も愛も知るのが遅過ぎたのだ。
月鈴は息を吸って、吐いた。
「あなたがいなくなって寂しさを覚えるのは悪くないと思っていた。だから、寂しいことはなにもないと知って、途方に暮れている」
「……月鈴、そういうのはなあ」
そう言いながら空燕は彼女の髪をひと房掴んだ。
「愛しいって言うんだ」
そのひと房に、口付けを落とした。