空燕が呼んできた兵により、浩宇は捕縛された。
 女兵士は、きびきびと浩宇を縄で縛り上げると、「立て」と言った。
 妖怪になったことで気力も精力もかなり使ったのだろう。元々宦官になったことによりすり減っていた浩宇の命も削れたようで、目を見張るほどの美貌だった彼の表情は、気のせいか疲れ切って青白くなったまま戻らなかった。瞳も活力が乏しく、どこか濁って見える。
 彼は空燕の渡した方服の上着だけを着ていたが、元々肩幅もなく胸板もなかったせいか、上着だけでもがばがばであり、下半身も覆ってしまっていた。
 力なく連行されようとしている浩宇に、「浩宇」と空燕は短く言った。

「……なんですか? 報いを受けて当然だと?」
「いや。お前さんたちが怒る気持ちはもっともだ。ただ、戦を知らぬような民草を巻き込むのが筋違いというだけだ……それに。お前さんはいずれ許されるだろうさ」

 浩宇の目は怒りで、光が戻った。余計なことは言うな、とでも言いたいのだろう。
 その中、空燕は告げた。

「兄上は、お前さんの行いは許さずとも、お前さん本人は許すだろうさ。それをどう受け取るかは、あとはお前さん次第だ」
「……っ」

 浩宇は一瞬舌打ちしたが、そのまま兵に連行されていった。
 全てを見届けていた月鈴は、複雑な顔で空燕を見上げた。

「これは慰めになるのか?」
「さあな。あれは兄上に惚れていた。その気持ちを忘れてしまったとしても、兄上は天性の人たらしだからなあ。また惚れるかもわからん。それに、四像国の情報を抜かねばならないから、あれにはどうにか味方になってもらわなければ困る」
「たしかに……」

 そもそも空燕と月鈴がここに来たのは、連続皇帝昏睡事件の調査と解決であり、四像国の件は政治の問題だ。これ以上踏み込んでしまったら、この国の法に置ける、宗教と政治の分離に反してしまうため、あとのことは想像することしかできない。

「それで、貴様はこれからどうする気だ?」

 兵も浩宇も気にすら留めなかったが。青蝶は当然のように一部始終を面白そうに見物していた。そもそも浩宇が招き入れたとはいえども、彼を妖怪に変えたのも、宮女や雨桐の人々、皇帝から魂を抜き続けていたのも彼女だ。
 空燕は何度か彼女を仕留めようと隙を窺っていたが、遂には一度も隙を見せなかった。彼女は自分は方士であり仙女ではないと言い張っているが、空燕より上の体術を使い、月鈴よりも方術に長けているとなったら、もう仙女に値すると言ってもかまわないだろう。
 何度も狙われていたことを知ってか知らずか、青蝶は「ほっほ」と笑う。

「決まっておろう。次にわらわを雇う者、見物するに値するものを探しに行くまでよ。今日は都合のいい宝玉も手に入ったことだし」
「貴様……っ」

 月鈴から抜き出したものに対して、空燕は怒りではらわたが煮え返りそうになっていた。しかし、彼女が止めるからこそ、彼は相打ち覚悟で青蝶の首を狙うことをせずにいる。もし月鈴が混乱していたら、それこそ命を捨てる覚悟で彼女の首を狙っていたことだろう。
 青蝶は笑いながら扉に手をかけた。

「ああ、そうだ。わらわは複製が得意なんじゃ。そちの懐を検めるがよかろうぞ」

 そう言い残し、薔薇の匂いを残して立ち去っていってしまった。
 空燕は「くそっ!」と苛立った気分のまま、ガンッと壁を叩いた途端、コロンと彼の懐からなにかが飛び出した。

「これ……」

 月鈴は驚いてそれを拾い上げた。
 それは群青に月の光の混ざった……たしかに月鈴が浩宇を元に戻すための対価で使ったはずの宝玉であった。

「どうして……そして宝玉って、こんなに簡単に複製できるものなのか?」
「いや、待て月鈴。それを貸せ」

 月鈴は困った顔で宝玉を眺めていたものの、空燕に言われて、彼に差し出した。空燕はそれを凝視する。

「月鈴、お前さんは本当に白妃になんの対価を支払ったのか覚えてないんだな?」
「覚えてない。覚えてたら私だって言う」
「そうか……」

 空燕はしばらくそれを眺めていたが、やがてそれに力を込めた。宝玉にミシミシとひびが入る。

「ちょっと……空燕、あなたはなにを考えてる!? 折角浩宇を人間に戻したのに……!」
「……あの女がどうしてこれを俺に渡してきたのか考えていた……おそらくは、俺が宝玉を見てどう反応するのかを楽しみたいんだろうさ……冗談じゃない」

 パリンパリン。とうとう宝玉のひびは広がって、砕けてしまった。それを空燕は一生懸命踏みしだく。

「空燕!」
「……月鈴。俺はお前さんを連れてきたのは、お前さんを犠牲にするためじゃない。そもそも兄上が治めてなかったら、後宮なんてとっくの昔に魔窟になっていた。そんなところにお前さんを愛妃として連れてくるものか」
「……なにが言いたいんだ?」
「俺は他に見向きもしない。俺が皇位に興味のないところを見せて、安心させたかっただけだ……全て俺のわがままだけどな」

 空燕の言葉を、月鈴は黙って聞いていた。ただ綺麗な瞳は驚きで染まっていた。
 普段の飄々とした彼の言動では、想像だにしなかっただろう。彼の優先順位なんて。しかし空燕は、とっくの昔に優先順位を定めている。

「どうせ一度寺院に捨てられた身だ。母上が命を賭けて逃がしてくれた身だ。そのあとのことなんて余生だろうと諦めきっていたが、捨てられたはずの寺院にお前さんがいたんだ。それで捨てられた身が惜しくなった。皇位なんかで、俺の気持ちまで勝手に変えられてたまるか」
「……空燕、まるでその物言いだと」

 情緒が育ってない情緒が育ってない、そう言われ続けている月鈴であり、実際に彼女と同年代の女子であったらわかるようなことにもとことん疎いが。さすがに疎い彼女でもここまで言われたらわかる。

「あなた、私が好きみたいだが……?」

 その言葉に、空燕は鼻息を立てた。

「……俺は、そう言っているつもりだが?」

 途端に月鈴は固まってしまった。情緒の育ちきっていない彼女に、こんな形で告げるつもりなんて、空燕もなかったが。
 彼は髪をガリガリと引っ掻いてから「はあ……」と溜息をついた。

「どうせ全部終わったら、兄上に後宮を返すんだ。立ち退いた先で、お前さんが嫌なら、俺は寺院を離れる。修行ならどうせ別のところでもできるしな」
「待て、空燕」
「なんだ?」
「……どうして私の気持ちを聞かない」
「……一応は夫婦の役として、布団に引きずり込んでもなんの反応を示さないんだぞ? それにどうこう押しつけられるか? ましてや惚れた女だ。そこで拒絶されたほうが堪える」
「だから、そうじゃなくって」

 月鈴は一度拳を握ってから、それを解く。

「私は別に、あなたの気持ちを嫌だなんて、一度たりとも言っていない」
「月鈴……」
「わからないからって、あなたの気持ちをないがしろにしようなんて思ったことはない。たしかに私は方術以外のことにはとことん疎いが……それでわからないあなたを遠ざけたいなんて考えたこともない。勝手に私の気持ちを決めるな」

 それに一瞬、空燕はポカンと口を開いた。
 普段の余裕のある笑みも綺麗さっぱり拭われ、まるで無垢な少年のような顔になる。

「……俺は、お前さんへの気持ちを捨てなくってもいいのか?」
「私はそういうの、わからないが……それでかまわない」
「そのうち触れたくもなるがかまわないか? ああ……あまりやり過ぎると寺院から叩き出されるか」
「叩き出されるようなことはするな。それでは私がひとりになる」
「ああ……そうか……そうかあ……」

 空燕は少年のような顔から、いつもの余裕綽々な顔に戻ってしまった。

「お前さんとまだ、一緒にいられるのか……」

 ふたりはふたりとも、それぞれ違う理由で捨てられた身だ。自ら修行に向かった方士たちとは違い、それしかすることがなかったからしていただけだ。方士を目指すようになったのは後からだ。
 決定的に欠けているものがあるという自覚は、誰かといなければわからないものだった。ただふたりは常に隣にいたから、それぞれの欠けているものに気付いてしまった。
 だから隣にいようと思った。だから傍にいようと思った。
 ただ愛とか恋とかだけではなくて、後宮に煮こごりのように存在する利用価値でもなくて、情欲とも違う。
 誰かを想いたいというかけらは、互いが埋めてくれたんだ。
 離れがたいと思うのも、当然の話だった。既に欠けた形は互いの形だ。他のものでは埋まらない、埋められない。

****

 青蝶はのんびりと歩いていた。
 これだけ豪奢な着物を纏い、華やかな薔薇の匂いを漂わせた美少女が歩いていたら、人買いやらやり手婆やらが黙っていないだろうに、誰もかれもが彼女に視線を向けない。
 青蝶の練り上げた気は、やろうと思えば誰よりも存在感を主張し、逆に誰よりも存在感を希薄にすることもできる。彼女は気を練り上げて、雨桐の大通りを通る人々の視界から消えていたのである。
 四像国の連中により、雨桐は羅羅鳥が魂を食み、屍兵を産み出す死都と化していたが、後宮で知り合った方士たちにより結界が張り巡らされた。これでは羅羅鳥は雨桐に入ることもできず、大人しく冬虫夏草を求めて山に戻るしかなくなるだろう。
 あれだけ人がいなかった大通りは、少しずつ営業再開の貼り紙が貼られて、店を出す人々が増えていた。
 それを見ながら青蝶は目を細める。やがて、自身の持っていた宝玉がコロンと音を立てたことに気付いた。

「ほう……案の定割ったか」

 そう呟きながら、青蝶はにんまりと笑って宝玉を眺めた。
 青蝶が空燕に渡した宝玉は、月鈴に対価の支払いを命じた上で渡した宝玉ではない。彼女が気を練り込んで造り上げた、全く同じ色、同じ形の模造品であった。しかし、彼女の持っている宝玉と模造品は連動している。
 当然、模造品が割れれば、本物にも同じ音が立つのである……本物はそうたやすくは割れないが。割れたあと、模造品が粉々に砕け散る音が続き、ふたりの会話が流れ込んでくる。
 それを聞きながら、青蝶は「ほっほ」と笑った。

「人の気持ちは難儀なものよのう」

 青蝶の持論では、人は気持ちをふたつ持っている。
 感情に依存する気持ちと、記憶に依存する気持ちだ。彼女が宝玉に溜め込んでいる想い出は、記憶に依存するものであり、それが抜け落ちた途端に人が変わってしまったものだって中にはいるが。
 どうも彼女の宝玉に閉じ込めた気持ちは、感情に依存するものだったらしい。空燕と月鈴、片や出家した身とはいえど元々皇族、片や世間知らずの方士で、いったいどういう流れで知り合ったのかはわからないが、それだけの感情を持つ程度には共に生きた時間を過ごしたらしく、一番大切な記憶を差し出したところで、なにも変わらなかったのである。
 逆に言えば、月鈴は差し出せる想い出があまりになさ過ぎて、なにも変わらなかったのだと見て取るべきか。

「まあ、面白いものを見せてもらったしな。これくらいはしておこうか」

 そう呟きながら、青蝶は宝玉に指を突っ込んだ。
 普通宝玉に指を突っ込める訳もなく、本当に突っ込もうとしたら、指を捻挫してしまうか、宝玉を割ってしまうかのいずれかだが、彼女はどちらでもなく、文字通り宝玉に指を突っ込むと、ぐるぐると掻き回しはじめた。
 やがて、彼女の指先は月の光の黄色の染まる。そうなったところで、彼女は指を引き抜いた。宝玉からは月の光はなりを潜め、代わりに群青色とまばらな星の散らばった光だけが点在している。
 青蝶は指に纏わり付いた黄色にふっと息を吹きかけると、それは黄色い蝶の形を司って、そのまま羽ばたいていってしまった。
 これは妖怪ではないし、悪意もない。ただ記憶が、元の持ち主のほうに戻ろうとしているだけだ。結界だって通過してしまうだろう。

「まあ、楽しませてくれたしのう。これくらいは」

 もしもこの場に空燕がいたら、「ふざけるな。人のことを弄んだり見世物にして」と怒鳴っていただろうが、彼は未だに後宮にいるのだ。雨桐の大通りにいやしない。
 これで満足げに青蝶は歩いて行った。
 人波が増えていく。これはここ最近で久々の繁忙期になり、次期にここら一帯はごった返してくるだろう。その人波に紛れて、青蝶はとうとう姿を消してしまった。
 もう、雑踏の中に薔薇の匂いはしない。
 青蝶は気まぐれであり、四像国の人間に力を貸したのも、月鈴に想い出を返したのも、単純に「そういう気分だったから」であり、脈絡がない。
 しかし大きな力は、ずっと大国にいたらいずれ腐り果てて災害となりうる。実際のあと一歩で雨桐は死都と化して民草は全て屍兵に変わっていたのだから、さっさと後宮を離れてくれたほうがよかったのかもしれない。