窮奇の巻き起こしたかまいたちを避け、空燕がひと太刀浴びせようとするが、それを風を巻き起こして寄せ付けない。

「ちっ……!」
「風が難儀だな」
「なあ、月鈴。この風を抑え込み、人間に戻すことはできないのか!?」
「……方術の中で、人を妖怪化するような術は禁術として、普通は使わない。使った白妃がおかしいんだ」
「……だとしたら、方法はないのか!?」
「ないとしても、浩宇を館の外に出したら、どれだけ被害が出るかわからない! 妖怪退治に強い兵士なんて、どれだけいるんだ!」

 そもそも、ほとんどの兵士は人間相手の訓練しか行っておらず、妖怪退治は専ら方士の仕事だ。屍兵だけでなく、まさか妖怪とまで戦わなければならないとは、こちらだって思っていなかったのだ。
 しかし風が強過ぎて、これでは札も風で飛ばされて終わりだし、血を浴びせて術式をかけるにても、血が届かない。
 それにふたりが舌打ちしている中、空気を読まずに館の扉が開いた。

「おやおや、困っているようじゃのう」
「……!? 白妃!?」

 元凶のひとりであるはずの青蝶が、のんびりとした足取りでこの異常な光景を眺めていた。思わず月鈴は彼女に棒を向けるが、青蝶はころころと笑うばかりであった。

「戦う相手はわらわではないぞ?」
「なにを勝手なことを……! あなたがここに羅羅鳥を誘き寄せて、陛下たちの魂を食わせたことは既に割れている!!」
「そうじゃな。そういう依頼であったし」
「そしてとうとう人を妖怪に変えたのだろう!? どこまで外道なのだ、あなたはそれでも仙女か!?」
「ほっほ。わらわを仙女なんて呼んでくれる可愛いのは、そなただけじゃ」

 年不相応の笑みを浮かべ、幼いのか老獪なのかわからない表情を、ふいに妖艶に染め上げる。

「わらわなど、まだ方士も方士。駆け出しじゃ」

 嘘をつけとふたりとも思ったが、話が全く進まない上に、窮奇から意識を離した途端に襲われる危険が合ったために、黙り込んだ。
 だからこそ、青蝶は勝手に話を続ける。

「母国の者が、母国を取り戻したいと嘆いた声に応えた、それだけじゃ。まさか自ら人を辞めるほどに思い詰めておるとは、こちらだって思いもせんだに、憐れよのと思ったまでのことよ」
「……あなた、浩宇を元に戻せる方法があると?」
「月鈴、これの言うことに耳を貸すな」

 一瞬月鈴は青蝶の言葉に反応を示したが、空燕がきっぱりと釘を刺す。たしかに雲仙国と四像国の方術は、多少なりとも違うために青蝶が四像国の方士である可能性もあるのだが、この年齢不詳の元凶の言葉を素直に信じられるほども、空燕はお人好しにはなれなかったのだ。
 それに青蝶は「ほっほ」と笑う。

「さて……立ち話はそこまでじゃ。きゃつを元に戻したくば、対価を寄越せ」
「……あの方を自主的に助けるというのは?」
「ほっほ……あれを憐れと思っておるのは本当じゃ。しかし、恋慕と望郷、崇拝と憎悪、憧憬と嫌悪……それらの狭間で揺れ動いた末に極論に走るしかなかった者の願いを、こちらの憐憫をもって踏み潰すのは無粋じゃからのう。元に戻したくば対価を寄越せ。さすれば、方法を授けようぞ」

 その言葉に、月鈴は思わず空燕を見た。空燕は半眼で目を向けた。

「そもそも、貴様に払う対価がなにかによるが。大金……ではないだろう? 浩宇を妖怪に変える際、あれはなにを対価に支払った」
「ほう……なに、簡単なものじゃ。記憶。一番大切なものの記憶をいただいた。妖怪は、特に四凶ともなれば、理性なんてない。どうせ理性がなくなるのならば、一番美しい思い出で我慢できなくなるくらいならば、それをいただいてやるのが筋じゃろうて」
「そうか。わかった。なら貴様の助けは借りん」

 あまりにもきっぱりと言い切った空燕に、思わず月鈴は目を見開いた。

「あなたは! なにを勝手に尋ねて、勝手に結論を出しているんだ!」
「俺の一番美しい記憶を奪われて、俺でいられる保証はどこにもない。なら、そんな対価、支払うべきじゃない! なによりも、あれを死なせてやったほうがいいと強く思った」
「浩宇は……たしかに国を想っていたのかもしれない! そりゃ四像国が雲仙国にやられたことを許すなんてのは虫がよ過ぎるとは思うが……それでも駄目なのか?」
「月鈴。お前さんは情緒がちっとも育っちゃいないからわからんかもしれんが」

 青蝶が老獪な笑みを浮かべたまま語った内容で、空燕は浩宇が支払った対価をわかってしまった。

「……妖怪になった途端、惚れた者のことを忘れてしまったとなったら、あれは死んだほうがいい」

 泰然との想い出を対価に、妖怪になったのだということを。
 彼が二律背反になるほど悩んだというのに、人間に戻って惚れた者のことを忘れてのうのうと生きるなんてこと、浩宇にとっては本当に幸せなんだろうか。
 助けてやりたかったという無念な気持ちと一緒に、そこまでそこの仙女により尊厳陵辱されたまま、恥知らずに生き残るくらいなら殺してやったほうがまだましだという想いが込み上げてくる。
 空燕はかまいたちの中、走りはじめた。
 それに月鈴は「空燕……!」と悲鳴を上げる。青蝶は風に嬲られながらも余裕の表情で、妖怪討伐の光景を眺めていた。

「ほっほ。あれは生半可な覚悟で浩宇を殺しに行ったのではないだろうが。四凶のかまいたちが、方術も使えぬ方士で対処できると思わぬほうがよかろうよ」
「あなたは……! そんなに私たちが苦しんでいるのを見るのが楽しいのか!?」
「楽しいに決まっておろうよ」

 青蝶はさも平然と言うので、月鈴は唇を噛み締める。青蝶はからからと笑いながら、風に頬を切られ、血を噴き出しはじめた空燕に視線を向けていた。

「若人が強敵に立ち向かう様を見て、胸躍らぬ者などいるものか。あれが死ぬのか生きるのか楽しみな上、死んでも悲劇として楽しめるし、生き残ったら英雄譚として語られなくもない。そうであろう?」
「……私は、あなたのような悪趣味にはなれない。だが」
「ほう?」

 月鈴はじっと青蝶を見る。青蝶は余裕の笑みを崩さない。

「……空燕が差し出せないのならば、私が差し出す。浩宇を元に戻す術を教えてくれ」
「ほう? 殺してやるほうが幸せとは、そなたは思わなかったのか」
「……たしかに私は空燕のように情緒が育っているとは言いがたい。私は生まれたときから俗世を離れて育っていたから、人の惚れた腫れたなんてさっぱりわからないし、なにがその人にとっての触れてはいけない場所なのかもわからない。だが、死んでおしまいが正しいとは思えないんだ」
「ほっほ……矜持を取ってやるのが男ならば、情けに任せて慈悲を向けるのが女か。面白い話よの」

 月鈴は空燕のように、青蝶を「悪趣味」と言い切ることはできなかった。
 彼女のなりたかったものが仙女であり、青蝶が月鈴にとっての憧れにもっとも近い存在だからである。
 青蝶はじっと目を細めて月鈴を見てから、口元を緩ませた。そして袖からコロリと宝玉を取り出してきた。

「対価はそなたが対処を行ったときにいただこうぞ。方法は──……」

 月鈴はじっと青蝶から方法を聞いた。

(私は……空燕の力になりたいから)

 そう思いながら。

****

 月鈴は生まれたのと同時に、寺院に捨てられていた。
 商人が妓女を孕ませて逃げたとか、寺院の下働きが子を身ごもったとか、いろいろ話は聞いたが、結局のところどれが本当のことかはわからなかった。
 彼女が方士たちに囲まれて方術稽古に励むようになったのは、仙女になりたかったから。仙女の逸話には面白おかしいものが多くて、それが彼女にとっての励みだったのである。
 彼女がようやく年が二桁になる頃、寺院の前にやたらと綺麗な車が停まった。わざわざ寺院のあるような山まで車で来る人間なんて滅多におらず、その車をひと目見た途端、方士のひとりが「ひゃあ!」と声を上げたのだ。

「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもあるもんか! ありゃ皇帝陛下の車じゃねえか!」
「はあ……」
「乗ってるのは皇子だぞ! わかってるのか!?」
「はあ…………」
「もう、これだから月鈴は!」

 そもそも川に水を汲みに行ったり薬丹をつくるための薬草を摘みに行ったりする以外、ほぼ外のことを知らない月鈴の知識は、方術方面に偏ってしまうのも仕方のない話だった。当然ながら王都のことも、皇子のことも、全くピンと来ていなかったのである。
 やがて、車から誰かが出てきた。それを見た途端、誰もかれもが息を飲んでしまった。
 出てきたのは発光している少年だった。実際には発光はしていないんだが、それくらいに目を見張る少年であった。流れる髪、ふっくらとした頬、意思の強い瞳……使者は少年を連れて、寺院の師父に告げたのである。

「殿下はこたび、後宮を離れることとなった。どうか殿下に、戦う術を教えて欲しい」

 それに他の方士たちもざわついた。
 月鈴だけは、相変わらずよくわかってはいない。

「あの子は私の弟弟子になるのか?」
「ばっか! 皇子を匿うっていうのは、並大抵のことじゃないんだぞ?」
「そうなのか?」

 月鈴は相変わらずわかってはいなかったが。空燕と月鈴は年が一番近いからと、師父から言われて月鈴が彼の姉弟子として鍛錬に付き合うようになったが。
 不思議なことに、物覚えはいいにもかかわらず、彼は方術がからっきしに使えなかった。

「おかしいな……これは全部書物に書いているとおりじゃないのか?」
「多分だが……」

 月鈴は空燕の胸に触ろうとすると、途端に空燕は仰け反った。

「空燕?」
「……おなごがむやみやたらと男にさわるのはよくない」

 どうにも空燕は月鈴からしてみて、格式張っていて面倒臭かったが。月鈴は普通に言い切る。

「稽古で触っているじゃないか」
「そりゃそうだが……」
「これじゃ鍛錬で組み手ができない」
「そうなんだが」
「だからさわる」
「おいっ!」

 空燕が嫌がるのを無視して、月鈴は方服の上から空燕の胸を触った。触ると鼓動が手に取るようにわかり、同時に三魂七魄の様子が伝わってくる。それに触れながら「やっぱり」と月鈴が言った。

「あなたは気を練ることができない。生まれつき三魂七魄の量が少ないんだ」
「……さんこんななはく? それが少ないと、使えないものなのか?」
「そうだ。気を練るごとに、三魂七魄の量は少しずつ減っていき、完全になくなったら方士は死ぬ」
「……方士は死ぬまで気を練るのか?」
「練らない。死なないように、修行をして、自然の内から三魂七魄を増やしていく。あなたの場合も、少しずつ増やせば使えるようになるかもしれないが……元々の量が少な過ぎて使えるようになるかまではわからない」
「そうかあ……」

 空燕は心底がっかりした顔をしたのに、彼女は髪を揺らした。

「空燕?」
「おれはうしろだてがないから、雨桐には戻れないんだと」
「……あなたは戻りたいのか?」
「いや? ただ母上がいじめられているかもしれないから心配なんだ。父上はなに考えてるかわからないし、危ないからって寺院に放り込まれたけど。せめて仙人になれたら、母上をいじめるありとあらゆるものを懲らしめてやれるけど、使えないんじゃなあ……おれは仙人にはなれないのか」

 その横顔を見て、なにかが月鈴の中に芽吹いた。

「……なら私が代わりになるよ」
「月鈴が?」
「私は元々仙女を目指しているんだ。仙女になったあかつきには、あなたの力になる。あなたが懲らしめたい人を私が懲らしめるし、たくさん仙丹をつくって、あなたの三魂七魄を増やせるかもしれない」

 彼の力になりたい。
 今まで、月鈴にとって仙女になりたいという夢は、周りから笑われる程度のものだったが、このときから形を変えた。
 大切な人の力になりたい。
 寺院にいる兄弟子も師父も親切だったが、それでも孤独であった。その孤独を埋める人に彼女は初めて出会えたのだった。

 その大切で愛しい想い出は、なにかの対価になり得る。
 というより、人生経験がほぼ寺院で終始している彼女の差し出せる綺麗な想い出は、これしかなかったのだ。