第三章5月3日



4:00



 どうやら、考えごとをしているうちにうとうとしていたらしい。檜山は遠くでキーンという金属音がするのに、慌てて目をこじ開けた。目の前がぼんやりとして思考が纏まらない。これは――、

「龍川さん、息を止めて窓を割れ」檜山は鋭い目をして短く言った。

「……え?」

同じく、机に伏せていた小夜が弾かれたように寝ぼけ眼をあげる。

「毒ガスだ、椅子で窓を割るんだ。換気」普段になく慌てた様子でそう声をあげると、檜山は大股でドアの方へ向かった。

ドアの下にも、鍵穴にも毒ガスの管が差し込まれている形跡はなかった。

何故だ? 首を捻りながら、とにかく換気をと、左手でドアをあけた瞬間、何かが放物線を描いて振り下ろされた。咄嗟に右へ逃げる。ツルハシだった。切っ先が赤黒く濡れていた。一瞬遅れて、左腕に鋭い痛みが走る。確認するまでもなく、ツルハシでやられたのだろうことがわかった。薄ら開いたドアの隙間から、ガスマスクに黒い合羽姿の人物が見えた。

反射的に檜山は、無事なほうの右肩で黒合羽の腹にタックルをお見舞いした。くぐもった低い声が帰ってくる。右手で必死にガスマスクの頭頂部を抑えつけた。

「逃げろ!」檜山は、振り向きざまに叫ぶ。バスケット部を引退して以来、初めての大声だった。

その視線の先で、目を見開いて首を振る小夜の姿があった。

「檜山さん後ろ!」

 絹を切り裂くような小夜の悲鳴と同時に、檜山の右の肩甲骨に焼けるような鋭い痛みが走った。檜山は、弾かれるように上体を反転させながら、視線を犯人に戻した。その途端に呼吸ができなくなった。肩を大きく上下させて喘ぐ傍からひゅうひゅうと空気が漏れる。呼吸に合わせて筋肉が動くのに、背中じゅうで激しい痛みが駆け回った。――背中に何かが刺さっている。犯人が隠し持っていた刃物を、檜山の背中に向けて突き立てたのだろう。

「俺はぁ……いいから……ッ、逃げろ」

それだけを言うのに、水中から陸の上に向かって叫ぶような労力を要した。空気と共に苦い液体が口から飛び出す。そのあまりの熱さに、喉の奥の管の形がはっきりわかった。目の前の犯人の黒い胸元と、震える自身の足元に鮮やかな染みが拡がる。

「逃げ、てくれ……ッ、飛び降りろッ!」

檜山は、犯人に縋りつく恰好で、首だけを捻じってあらん限りの声を振り絞った。再び焼けるような痛みと共に、鉄臭い熱い液体が口内を満たす。

 鋭い熱さと共に、背中の異物感が消えたと思うと、再びどっという衝撃がそのすぐ下あたりを襲った。堪らず黒合羽を握りしめたまま、右の膝から崩れる。その重みで左腕に、右の肩甲骨に、そして右の腰に、稲妻が走った。

 暗闇を背負った窓の向こうに、華奢な背中が消えたのを確認して、檜山は再び黒合羽に視線を戻した。

 黒合羽は右足を振り上げると、足の裏で檜山の腹を思い切り蹴り飛ばした。檜山はあえなく黒合羽から引きはがされ、あおむけに倒れ込む。背中に刺さった刃物が深くめり込み、たまらず背中を地面から剥がして、身体をくの字に折り曲げて喘いだ。

 持久戦になると不利だ。檜山は右手一本で起き上がると、黒合羽の右手に向かって再びタックルを試みた。ツルハシさえ落としてしまえば、まだ勝機はある。しかし、当然ながら黒合羽はその手のツルハシで檜山の側頭部目掛けて一閃した。懐に飛び込み、寸でのところで急所は回避したものの、柄の部分が直撃したこめかみからは赤い筋が滴った。

 檜山は残る力を振り絞り、目の前のガスマスクへと手を伸ばした。

 が、その指先は二度、三度痙攣をした後、半円を描いて地面へと崩れ落ちた。

 びゅうびゅうと水分混じりの風切り音と、初夏の夜風が室内を行き来する。小夜が割った窓から吹き込む潮騒が、喘ぐ檜山の横顔を撫でた。右背部からの傷は、肺まで達しているのだろう。息を吸った傍から全て霧散しているかのようだった。

 墨汁を垂らすように、じわじわと靄が外から滲んでくる視界の中、檜山は瞼を持ち上げた。左目は血液が入ったのだろう、激痛を伴い何も見えなくなっていた。右目は瞼が痙攣したが、針の先程度は開いてくれた。

 黒合羽な何か言っている。が、渦を巻いて遠ざかる音に、その意味を理解することができない。必死の思いで、翻訳された台詞。それが、檜山司が聴いた最後の言葉だった。

「綺麗な爪をしている」



4:05



 暗い森の中を、小夜は走っていた。二階のベランダから飛び降りた際についた両足が酷く痛む。割れた硝子で引っかけた脛からは血が溢れ出し、体重を支え切れずについた両手の指の甲には血が滲んでいた。右肩もじくじくと痛み、噛んだ舌と内頬も痛い。口の中には苦い鉄の味が広がっていた。

 両手で抱きかかえた、檜山と小夜自身二冊分の手記を固く握りしめる。そうすると、まるで蛇口をひねったかのように、両目から涙が溢れてきた。

 檜山を置き去りにして逃げた罪悪感と後悔と心配、そして襲われたことによる恐怖と、一人になってしまった心細さと――、いろんな感情が混ざり合って、小夜の膝はおこりのように震えた。

 走り慣れない夜の森は、まるで両側から靄の歓待を受けているようだった。目の前にあるのは永遠の暗闇が待つ洞穴なのではないかと錯覚する。

「託された……届けなきゃ……届け……」

 右も左も、怪物が手招きをしていた。

「どこに行けばいいの……? 怖いよ」

 森閑たる夜の森の向こうで、小さく波の音がした。お椀のような暗闇のアーチに、小夜のか細い声だけが反響して吸い込まれて消える。

「お父さん…………お父さん!」

 独り、家で待っているだろう柔和な父親の顔が過ぎる。と、盛り上がった木の根に躓いて、小夜は頭からつんのめった。額と鼻の頭に血が滲む。

「逃げなきゃ……死にたくない……怖い……」

 床にぺたんと座り込んで小夜は細い肩を震わせて泣いた。血のにじんだ唇がわなわなと震え、歯がかちかちと音を立てる。

「怖くない怖くない大丈夫大丈夫大丈夫だから」

 小夜は自分に言い聞かせるように、何度も何度も大丈夫と唱えた。

「朝になったらお父さんが助けに来てくれる。お父さんと瑞樹くんが」

 昨夏に起きた悲しい出来事、その時に一緒にいてくれた幼馴染の顔が浮かぶ。その影を追って小夜は顔を上げた。満天の星空だった。小さいころ母に背負われて見た星空だ。

「お空を指で辿りましょう……海にお船を浮かべましょう……」

 母の背中で聞いた童謡が、壊れたオルゴールのようにリフレインして小夜のぼろぼろに傷ついた身体を包み込む。

「嗚呼……嗚呼嗚呼……きっと……いける……大丈夫……」

 震える紅い右手を宙に伸ばした。空まであと少しだ。もう、じきに届くだろう。

 小夜が託された手記は、これで間違いなく次に託された。小夜はほっと息を吐いた。

 木々たちも背後でさわさわと揺れて応援してくれている。規則的に何かを踏む音が鼓膜を叩いたが、もうどうでも良い。関係がなかった。

「星がきれい……流れ星だ……」

 涙が弧を描いて頬を伝う。

「おかあさん……」

 ずんっという衝撃に背を打たれた。淵から順に黒く浸食されていく視界の中で、伸ばした右手が星を捕まえた。



5:00 



「ねぇ、降谷さん……降谷さんいるの? いるなら開けて。世良よ」

 久美子は咳くように早口で、三〇四号室の扉を叩いた。

 東の方角に窓といえば、各階五号室と、あとは厨房の勝手口くらいのものである。そのため、久美子が気づくことはなかったが、東の海には朝日の光がきらきらと反射し始めていた。

 ややあって、部屋の中からごそごそという音が聞こえる。

「世良さん……?」ドア越しに瑛梨の声がした。かなり疲労の色が濃いようだ。

「そうよ」と、久美子は自分の声の大きさにびっくりして、辺りをきょろきょろと見回した。「早く開けて。今にも犯人が廊下から飛び掛かってきそう」

「嫌です……」

「どうしてよ!」

「世良さんが犯人ではない証拠はないじゃないですか」

 久美子は面食らった。額がサッと朱に染まる。

「そんなこと言っている場合じゃないわよ! 階下ですごい物音がしたのよ。争うような。この部屋には聞こえなかった?」

「聞こえませんでした」

「とにかく……もう静かになってしばらく経つから、人殺しを終えた犯人が、次の獲物を求めて徘徊しているかもしれないのよ」

「でも……」

「信じてよ! 和泉くんが殺されたとき、アタシたち一緒にいたじゃない!」

 少しの沈黙を経て、二〇四号室の扉が一センチほど開いた。その隙間に世良が手を差し込んで、大きく開く。

「よかった、信じてくれたのね」

「信じたわけではありません。でも、確かに世良さんは和泉さんの事件の時に私と一緒にいました。だから……でも、念のためにお互いに両手を挙げて、丸腰なのを証明し合いませんか?」

 久美子は一瞬ムッとした顔をした後、「お互いっていうならいいわよ」ツンと顎を上げた。

「それで、物音というのは?」瑛梨は、両手を挙げてその場で一回転して見せた。

 それに倣って久美子もその場で一周まわって見せる。

「二階だと思うのよ。どたばた物音がして、何か壊れる音――硝子が割れるような音がして、それから、またドタバタ音がして。そして静かになったのよ。そうね、一時間くらい前のことかしら」

「硝子ですか?」

「気づかなかったの? 結構な音だったわよ」

「寝てしまっていたものですから……」

「まあ、いろいろあったものね。熟睡していても仕方がないわ」

 互いに丸腰を証明し合ったのち、二人は先を譲り合うようにして、階段へと足を掛けた。

「丸腰なのはいいですけれど、犯人と鉢合わせしたら一たまりもないですよ」

 瑛梨が声を震わせた。

「確かにそうね。戻って椅子でも抱えて来ましょうか」

 それぞれ書き物机と対になっている、木製のアームレスチェアを抱えて廊下へ出てきた。二人揃って、そろりそろりと二階への階段を降りていく。

 一段降りるごとに階下へ耳をそばだてるものの、鼓膜に届くのは早朝の森そのもので時折野鳥の囀りがするくらいのものであった。

 時折椅子を階段に下ろしながら、一段また一段と二階へ近づいていく。

 そうして、五分ほどかけて二階の廊下につま先がついたころには、二人はすっかりへとへとになっていた。

「誰かいるの?」久美子が喉を震わせる。「檜山くん、小夜ちゃん」

 その声は、廊下に反響して消えた。野鳥がクアアアと哭く声がした。

「一階ですかね」

「かもしれないわ」

 二人は同じように、たっぷり時間をかけて一階へと降りた。視線で譲り合った結果、瑛梨が居間のドアを開けた。

「檜山さーん……」

 両開きのドアの隙間からそろりと片目を覗かせてみる。しかし、中はもぬけの殻だった。

「やっぱり、二階なのよ……二階にいたのよ……」久美子が泣きそうな声を挙げる。

「二階には誰もいなかったじゃないですかぁ……」同じく瑛梨がワントーン高い声を返した。

「こ」――殺されているのよ。

 そう言いかけて、久美子はごくんと生唾と一緒に呑み込んだ。「檜山くんの部屋は三〇五号室よね? ということは小夜ちゃんの部屋かしら」

「二〇何号室でしたっけ」

 ツアースタッフにあるまじき失念ではあるが、誰も咎める者はいなかった。

「乾くんの隣よぉ」

「じゃあ、二〇二号室ですね」

 二人は椅子を引きずりながら、二階へと引き返した。

 向かって右側、二〇一号室のドアと、向かい側の二〇五号室のドアは破られ、二〇五号室のドアは下半分が外向きに開いたままになっていた。――昨晩見たままである。

 それらを横目に、二人は揃って二〇二号室へと向かう。

 ドアノブに仕掛けがないかを十分に確認して、瑛梨は時計回りに捻った。

 ドアノブは意外にも、すんなり開いた。そろりと一センチほどまず開いてみる。その瞬間、部屋の中から廊下に向かって突風が吹いた。鉄臭い気がする。

 瑛梨は慌ててドアを閉めた。

「なに、今の」久美子が顔を蒼くした。

「なんですかぁ……?」瑛梨も泣き顔のように顔を歪めた。

「もう一度開けてみるのよ。こっちには、盾があるから」

久美子は椅子をトントンと人差し指で示して見せた。

 再び瑛梨がドアノブを開けた。再び突風と共に、鉄の匂いが鼻腔をつく。

「ああ!」瑛梨が、ドアに張り付いたまま声を裏返した。

 そしてバタンと音を立てて再びドアを閉める。

「なに、なにがあったのよォ!」久美子が地団太を踏んだ。

 瑛梨は蒼白な顔をただ横にふるふると振るだけで、返事をしない。じれた久美子が、勢いよくドアを開けて中へと入った。

「あああ!」久美子の絶叫がコテージに突き抜ける。

 彼は入口に向かって左手を伸ばし、うつ伏せに倒れていた。――檜山司だった。

 目は半分開いたまま。その血まみれの左手の先を辿ってみる。どうやらドアの内面へと続いているらしい。そう気づいた久美子は、瑛梨を廊下に残したまま、ドアを閉めてみた。

 血痕は部屋側のドアノブと、それからサムターンにくっきりと残っていた。それからずるずると大筆で下へと掃いたように延びていき、床で止まっている。その麓には檜山の左手があった。血を流した檜山がサムターンを捻ったことがわかった。

「鍵を開けて逃げようとしたの?」

彼の背中には大ぶりのナイフが突き刺さっている。それとは別にもう一か所、右の肩甲骨の下あたりに、横長の刺し傷があった。血液が高音のマグマのように溢れ出た跡があり、傷がかなり深くまで達していることが窺えた。

「逃げ切れずにこと切れたの? じゃあ、アレは」と、久美子は部屋の内部へと視線を投げた。

 窓硝子が大きく割れ、ところどころに赤黒い筋がついていた。先ほど部屋のドアを開けた際には、スーパーマンのマントよろしく派手にはためいていたカーテンも、今は大人しく真下へ延びている。

「世良さん、世良さん」

 そのとき、コンコンとドアを叩く音がした。軍手をしているため、素手のときと比べて音はかなり鈍い。

 その音ではたと瑛梨の存在を思い出した久美子は、そろりとドアを開けた。再び風が通る。

「世良さん……そこに倒れているの、檜山さんですよねェ……?」

 瑛梨が涙声をあげた。久美子は黙ってこくこくと顎を引く。

「瑛梨ちゃんも入ってちょうだい。中が変なのよ」

「変?」瑛梨は顔を大きく顰めながら、中へ入った。檜山の死体から目を背けるように窓へと視線を向けた。「窓が割れている……」

「そこじゃないわ、こっちよ」久美子は顎でドアの内側をしゃくった。「この血の痕よ」

「鍵を閉めたんですかね?」

瑛梨は久美子と同じ見解を示した。

「でも鍵は開いていたわ」久美子がきっぱりと言った。

「じゃあ……」

「まず犯人は檜山くんを襲った。檜山くんは傷を負ったのね。そして、はきっと、犯人から逃げるために鍵を開けたのよ。そこで力尽きて倒れた」

「ならば、あの窓は」

「そう、犯人が逃げるときに割ったのよ」

「じゃあ、犯人は」

「犯人は龍川小夜よ」



6:00



「犯人は、龍川さん……?」

 瑛梨は驚愕に目を見開いて、久美子の、興奮して上気した顔を穴が開くほど見つめた。

「そう。龍川小夜は、檜山くんを刺し殺して、窓から逃げたのよ」

 久美子は割れた窓ガラスを目で示した。瑛梨もそれに倣って窓を見遣る。

「でも」瑛梨は久美子に向き直った。「なぜわざわざ窓を割ったりしたんでしょうか」

「どういうこと?」

「いえ、檜山さんが力尽きたのなら、檜山さんの……その……遺体を飛び越えて、ドアから普通に出たほうが簡単じゃないですか?」

「それは……」

「わざわざ窓硝子を割って、怪我までして外に出るよりも」

「それはきっと、檜山くんが万一死んだふりをしていた場合、反撃を受けたら困るからよ」

「反撃、ですか」

「そう。檜山くんって、運動神経抜群でしょう? それに身長も大きいし。そんな人の反撃を受けたら、普通の人間はひとたまりもないわ。だから、犯人は用心して窓から逃げたのよ」

「それで……怪我をしたと」

 瑛梨は割れた窓ガラスに垂れた血痕を見ながら言った。

「そうよ」

「うーん」瑛梨は顎に指を置いた。「本末転倒と言うか、なんというか……事件が終わって警察が島に乗り込んできて、鑑定? ですっけ、調査をされたら、捕まっちゃうんじゃないですか?」

「それは……犯人が常に合理的に動くとも限らないじゃない」

「それはそうですけど……」

久美子の勢いに反して、瑛梨はまだすっきりしない顔である。

「そうよ! 小夜は、アタシたちを皆殺しにして、コテージごと焼き払うつもりかもしれないわ!」

「えええ、そんな……」

「たいへん。早く捕まえて縛らなきゃ!」

 久美子はもはや瑛梨の反応などどこ吹く風と言った様子で、まくし立てた。



7:00



 いち早く犯人である龍川小夜を捕らえるべく、二人はまず血痕を追いかけて階下へと降りた。

「ここが小夜の部屋の真下よね。見て、瑛梨ちゃん。点々と血痕が続いているわ」

「本当ですね」瑛梨はしげしげと赤黒いしみのついた地面を眺めた。「本当に龍川さんが犯人なんでしょうか」

「そうじゃないと逃げた理由に説明がつかないわよ」

「犯人から襲われて、檜山さんは捕まったけれど、龍川さんは逃げた。こういう可能性はないんですか?」

「だったら、なぜ鍵が開いていたというの? 檜山くんが犯人を招き入れたとしても、犯人が侵入してきたとしても、わざわざ檜山くんが鍵を開ける意味がわからないわ」

「それは……檜山さんは、廊下から外へ逃げようとしたんじゃ」

「小夜は小夜で、檜山くんを見捨てて窓から逃げたっていうの? それはそれで非道い話じゃない」

「そうですけど……」

 瑛梨はなおもしっくりこないと言った様子だった。

「龍川さんと檜山さんは、横井さんと和泉さんが殺害されたときに一緒にいたって言っていたじゃないですか。それはどういうからくりだと思いますか?」

「それは……」久美子は目を泳がせた。「仲間割れなのかしら……?」

「仲間割れですか? 檜山さんも途中までは共犯だったと」

「そうじゃないと説明がつかないじゃない」

「うーん……龍川さんと檜山さんが共犯であると仮定したら――というより、共犯説でないと説明がつかないですけれど――。根本的に前提そのものが間違っている可能性はないんですか?」

「じゃあ、誰が犯人だと言うのよ。島に残っているのは、アタシとあなたしかいないじゃない。アタシは犯人じゃないなら、もうあなたしか残らないのよ」

「本気でそう言っているんですか? 私と世良さんは和泉さん殺害のときに一緒にいたじゃないですか」

「そうなのよね」

 久美子は頭をがりがりと掻いた。そして、ふと虚空の一点を見つめたまま動かなくなった。

「……河西くん……」

「カサイ……」瑛梨は反芻した。

「前話したでしょう? 独りだけ、今回の旅行に来ていない山岳部員がいるって。その彼よ」

「ああ」瑛梨は何度か顎を引いた。

「ここにいないメンバーで、アタシたちの旅行先を知っている人物――河西くんしかいないわ。河西くんが島に潜んでみんなに復讐しているのよ」

「復讐? 心当たりでもあるんですか」

「それは……」

 そのときだった。久美子の視界の端に黒い影が映った。と思った瞬間、目の前の瑛梨の右側に、白い閃光が走った。

咄嗟に瑛梨は横に飛び退いて攻撃を避ける。

 そこには、いるはずのない人物が立っていた。



8:00 



「なぜ和泉くんが生きているの?」

久美子は驚愕に目を瞠り、唇を戦慄かせた。

 和泉は答えない。果物ナイフを竹刀のように両手で構えたまま、上目遣いに眼光を鋭く光らせながら、片方の口の端を歪めて不敵に笑っていた。

「龍川さんが犯人じゃないの?」続けざまに久美子が問うた。

「龍川さんなら体育館脇で死んでいたよ。背中を斬りつけられてね」和泉は目を細めて答えた。

 瑛梨が小さく息を呑む。

「決着をつけようじゃないか」和泉はすっと右手を引いた。残った左手の先で刃が煌めく。「で、どっちが犯人なんだ?」

 代わる代わる切っ先を向けられた二人は、示し合わせたように身体を固く縮めた。

「いや、もうこの際どっちが犯人だって構わない」和泉が低く笑った。

「ちょっと待ちなさい、和泉くん」久美子が長い髪を振りかざして声を挙げた。

「命乞いなら聞かないぞ」和泉は、久美子に切っ先を向けた。

「大事なことを忘れているわ」久美子は殊更強調するように自らの胸を、平手で強く打った。「アタシはゴムボートの鍵を持っているのよ。アタシを殺したら、ゴムボートを動かす手立てが永遠になくなる。救助が来るまでこの殺人鬼のいる島で待つことになるのよ。わかっている?」

「ちょっと待ってください」瑛梨が言った。「本当に龍川さんは死んでいるんですか?」

「俺の言葉を疑うのか?」和泉のナイフが瑛梨を指した。

瑛梨は引き攣った顔で、自らを奮い立たせるように両足を踏みなおした。

「死体を見るまで私は信じられません。現に亡くなったと思われていた和泉さんは、こうして生きているじゃないですか」

「まさか他にも死んだぶりをした奴がいるってのか?」和泉が唇を歪めて嘲笑した。

「檜山さんの部屋で物音がして、檜山さんが殺されていたんです。あんな大きくて強そうな男性を犯人は倒しているんです。二人がかりかもしれないじゃないですか」

「は?」和泉は目を剥いて動揺を示した。

 負けじと、瑛梨の語気も強くなる。

「龍川さんと和泉さんが共犯かもしれないって言っているんですよ。龍川さんはどこかで生きていて、和泉さんが囮になっている間に、今も私たちを狙っているのかもしれない」

「へぇ、檜山さん死んだんだ」和泉は不敵に顔を歪めて顎を上げた。「ここにいないからそうだろうなとは思っていたけど」

 瑛梨は自らを落ち着かせるように、ゆっくりと頷いた。

「あなたが犯人だったら知っていると思いますが――龍川さんと檜山さんは、昨晩二人で龍川さんの部屋にいたようなんですよ。龍川さんが、檜山さんを油断させて襲い掛かって、背後に隠れていた和泉さんがとどめを刺した。こういうことも考えられるって言っているんです」

「全部可能性の話だろ」和泉が低く言った。

「武器を持っていたとしても、相手は百八十センチを超える体育会系の檜山さんです。世良さんや龍川さんが一人で彼を殺したと考えるよりも、和泉さんと龍川さんが共謀して彼を殺したと考えた方がかなり現実的です」

「そこまで言うんなら、案内してやるよ。龍川さんの死体のところにな」



 *



「見てみろよ」和泉が勝ち誇ったように、顎でしゃくった。

 険しい彼の目が見つめる先には、背中を鋭利な刃物で打ち砕かれた小夜の亡骸があった。何かを守るように丸まった姿は胎児のようだった。

「……でも、私の中で、和泉さん犯人説が消えたわけじゃありません。龍川さんと和泉さんでの共謀説の可能性だって残ります」

「は? 龍川さんは死んでいるだろ」

「二人で檜山さんを殺した後で、用済みになった龍川さんを和泉さんが殺した可能性は残るじゃないですか。口封じのために」

「そんなの、お前らにだって言えるだろ」

「いいえ」瑛梨は毅然と首を左右に振った。「昨晩、檜山さんの部屋から大きな物音がした後、世良さんは私の部屋を訪ねてきました。もし世良さんが犯人であるなら、そこで二人きりになったときに私を……こ……殺すことだってできたはずです」

 瑛梨が横目で久美子を捉えた。久美子はごくりと喉を鳴らして乾いた唇を開いた。

「それなら、瑛梨ちゃんだって同じことよね。アタシと二人きりになるタイミングがあったんだもの」

「……ふざけんじゃねぇぞ……」和泉の白い首筋が、さっと桃色に変わる。「そんなのお前らが口裏合わせていたら関係ねぇじゃねぇか」

「じゃあ、なんで死んだふりなんてしたのよ」

 久美子が長い髪を振り乱して問い質す。

「殺される前に死んだフリした方が賢明だろう」和泉も負けじと見得を切る。

「死んだふりして、アタシたちを殺す機会を狙っていたんでしょう! やっぱりあなたが犯人なんじゃないの」

「うるさい黙れ」

 和泉はナイフを握り直して二人をかわるがわるにらんだ。

「アタシに歯向かうんじゃない!」久美子が後ずさりながら声を荒げた。「ア、アタシはね、鍵を持っているのよ! アタシに少しでも歯向かったら、絶対ボートに乗せてあげないんだからね」

「世良さん……!」と、瑛梨が一歩久美子へ歩み寄って言った。「犯人は和泉さんですよ。一緒に彼を縛り上げて、二人で逃げましょうよ」

「いやよ」

 にべもなく返ってきたその答えに、瑛梨の唇が「え」の形に震えた。

「そんなことしたら、和泉くんから抵抗されて、アタシが怪我するかもしれないじゃない」

「そんな、世良さん」

「やるなら瑛梨ちゃん、あなた一人でやってよ。アタシはやらないわ」

 女性二人の仲間割れを前に、和泉が腹を抱えて笑い出した。

「そうだ。そうだよ。あんたはそういう女だ」と、声を張り上げた和泉は左手のナイフで久美子を指して、刮目した。「自分が一番かわいいんだ」

「誰に物を言っているのよ!」久美子は声を裏返し、髪を振り乱して激高した。

「男に女が力で勝てると思ってんのか?」

「なんですって?」

「お前がボートの鍵を取り出してエンジンかけた瞬間、力づくでボートに飛び乗って、お前を海に突き落としてやるよ」

「そんな……!」

「世良久美子! お前は海の藻屑がお似合いだ」

 和泉は腹を抱えてけらけらと肩を揺らした。

「いいから二人で殺し合いなさい」久美子は顔を真っ赤にして指揮者のように、両腕を振り回した。「鍵は! アタシが持っているのよ」

 その瞬間、均衡が破れた。降谷瑛梨が身体を翻してその場から逃げ出したのだ。和泉は一瞬逡巡を見せたが、瑛梨の背中を追いかけた。

「そうよ、戦いなさい、和泉くん。あの子を殺したその先に、本土へのチケットが待っているのよ!」

 椀状に生い茂った木々のアーチの間を、久美子の引き攣った声が反響した。



 *



 二十分後、戻って来たのは和泉侑李だった。

 世良久美子はうっとりと、拍手で勝者の帰還を出迎える。

「おめでとう」

 和泉は冷めた目で久美子を一瞥した。

「御託はいい。鍵は? 早く鍵をこっちに寄越せよ」

 先刻からの、和泉の態度の変化にも特に反応することなく、久美子は女王然と右手を差し出した。

「その前にそのナイフをこっちに寄越しなさい」

「いいから鍵は? 早く」

「ナイフ」

 和泉はちっと舌を鳴らして、久美子の足元目掛けて果物ナイフを投げつけた。

久美子は飛びつくようにナイフを手に取る。

和泉はその様子を嘲笑うように顎を上げて、口端を持ち上げた。

「さあ、これで文句ないだろ? 早く鍵。どこにあるんだよ」

「ないわ」

「は?」和泉は目を剥いて聞き返した。

そんな和泉を前に、久美子は半ばやけになったように、哄笑した。

「そんなもの、ないわよ!」

「じゃあ、なんのために……」和泉は右手の平で、右目を覆った。「なんのためにみんな死んだんだよ!」和泉の叫び声が重なり合うように生い茂った枝葉に反響した。

「なんのためにみんなを殺したんだよ、の間違いでしょ?」

「犯人は俺じゃない!」

「あなたじゃなければ誰が犯人だというのよ。和泉くん、あんたが鍵欲しさに、全員を殺したんでしょう? アタシに命じられて! アハハハハハ」

「俺じゃない、俺じゃないならお前しか犯人はいないじゃないか」

「でもアタシを殺すのは諦めなさい。丸腰のあなたより、ナイフを持っているアタシのほうが強いわ」

「てめぇ……」和泉は火のつきそうな視線で久美子を炙った。

「救助が来るのが早いか、飢え死にするのが早いか。あなたの運命はそのどちらかなのよ。仲良くしましょう?」

 和泉は整った顔を歪めて、片方の口の端を持ち上げた。

「つくづくおめでたい奴だな」

「誰に向かってものを――」

「自分の顔を見てみろよ」と、和泉は顎でしゃくった。「ちょうどそこにナイフの刃があるじゃねえか。刃に映っているだろう! その醜い顔がな!」

「うるさいうるさいうるさい!」久美子はナイフを放り出して、両手で顔をぐしゃぐしゃと掻きまわした。肌理の粗い肌、低い鼻、腫れぼったい一重瞼の離れた小さな目、分厚くめくれ上がった唇――そのすべてが彼女のコンプレックスの源だった。

「自分でもうすうす勘づいていただろ。目を背けていただけなんだろ。お前に男が優しかったのはな、全部早見さんがいたからなんだよ。お前の隣にいた早見さんに近づくためだ」

「違う!」

「早見さんと友達であることがお前のステータスだったんだろ」

「違う違う!」

「その一方で、お前は早見さんに嫉妬していた。お前と、森内が早見さんを殺したんだ」

「あの子が自分から落ちたのよ。あんたも見ていたでしょう」

「ああ見ていたさ。あんたに唆されて、森内が早見さんのザイルを切るのをな!」

 二人分の激しい吐息が、朝の森の中に溶けては消える。

 和泉と久美子は向かい合って、呼吸を交換した。

 ちゅんちゅん、と遠くで小鳥が囀る。地上では二匹の獣が火のつきそうな目と目で牽制し合っていた。

 不意に、和泉がクツリと喉を鳴らした。肩を揺すって、ひきつけるように笑いを零す。

「降谷さん。早くこのブタやっちゃおうよ」

 久美子は一瞬、目の前の後輩の気が振れたのだと思った。

「瑛梨ちゃん? 瑛梨ちゃんはもう死んだでしょう! 殺したでしょう! あなたが!」

 久美子もつられて引き攣るように、ヒヒヒと喉で笑った。

 和泉は刮目して哄笑した。

「まさか同じ手に二度も引っかかるとはな。つくづく愚かな奴だよ、あんたは」

 その言葉に久美子の顔がはた、と凍りついた。

 そして、先ほど自らが放り投げたナイフに飛びついたが、和泉が一足先に拾い上げて、高らかに笑った。

 久美子はガクガクと唇を震わせて、地面に跪いたまま後ずさりした。

「あなたたち、殺し合ったんじゃなかったの?」

 憎き女の醜態に、侮蔑的な笑みを向けて、和泉はぺちぺちとナイフの腹で右掌を打ち付けた。

 その瞬間、走ってその場から逃げ出そうと、ヒールを脱ぎ棄てた久美子だったが、膝が笑って立ち上がれない様子だった。

「本当にあんた馬鹿だよねえ。手を組んだんだよ。降谷さんは、今の間に武器になりそうなものを取りにいっていたんだよ。お前を殺すためになあ」

 和泉は四つん這いで四肢を震わせる久美子の顎に、右手の人差し指をかけ、緩く持ち上げてねっとりと嗤った。

「お前には罪人に相応しい、死ぬより辛い地獄を味わわせてやるからな」

――後には、ミノムシのように木から吊り下げられた久美子の身体だけが残った。

 手を下した二人は軽やかに、森を後にした。



 9:30



「ときに降谷さん。これから」言いながら、和泉の視覚は、隣の影が引き潮のようにすっと後ろに消えたのを認識していた。それでも慣性の法則に従うように言葉の続きを口にしながら、並行して胃の裏あたりがひゅっと冷たくなるのを感じた。「どうす」

 ずん。

 和泉の視線の高さが一瞬で数十センチ下がった。首が胴体にめり込むような衝撃を覚える。視界が一面赤く染まる。首は動かなかった。身体ごと振り返ると、ツルハシを掲げた瑛梨がいた。日傘でもさしているような何気なさだった。

 頬を触る。腕は米俵でもぶら下げているかのように重く、震えて言うことをきかなかった。左手の指先にぬめっとした感触が広がる。血液だ。そう認識した瞬間、ぶんという音と共に頭の上で、鈍色の半円模様が現れた。それがツルハシの動線だと気づくのに数秒掛かった。和泉の身体は、ツルハシを避けた反動で振り子のように勢いよく踊って、体育館の塀に激突した。頭蓋内で暴れまわる耳鳴りと共鳴して、視界がぐにゃんぐにゃんと揺れる。赤い視界の中で、赤い体育館の壁に、赤い巨大な筆で掃いたような太い模様が浮かび上がった。

 どうっと、背中から胸にかけて強い衝撃を受けて、和泉は顔面を目の前の壁に強打した。鼻腔と口腔に、粘性をもった温い液体が溢れる。開いた唇からは、生理的なうめき声の代わりにどばっと赤い塊が落ちた。ぐしゃっと顎から地面に落ちる。背中が上下するのにあわせてびゅうびゅうと弱い風切り音が鳴った。

「何回でも殺してやる。何千回でも何万回でも何億回でも。たっぷり苦しんで死ね」

 誰の声だろう。ぐわんぐわんと銅鑼の音が反響する蝸牛の内側で渦巻いたその音に、脳の芯を捻じられながら、和泉の意識はゆっくり暗転していった。



 *



 真夜中の太平洋は、まるで蠢くコールタールのようだ。

 その上を、一艘のゴムボートのエンジン音が軽やかに滑り、遠ざかり、やがて消えた。