一
「ほら、もうすぐできるよ~、朝ごはん!」
小葱を刻む手を止めないまま、結衣はキッチンの奥から声を張りあげた。
広さや部屋数こそ、それなりの我が家である。
しかし悲しいかな、壁は薄く防音性は皆無。下手をすれば、この包丁の音さえ廊下に響いているかもしれない通気性抜群の仕様である。
あえてそれを逆手にとるならば
「なんや、めっちゃ早いやん今日は」
ほら、ちゃんと聞こえていたようだ。
まずはハチが居間へ飛び込んできて、結衣の膝に頬をすりつける。
作業中なので撫でてやれずにいると、ややつまらなさそうに、芝犬姿から、にゅうっと人の形へ変化した。
「ふわぁ、眠いんだから静かにしなさいよ、ワンコ」
今度はあくびをしながら、雪子。
挨拶もそこそこに、妖二体の視線はすぐ、食卓へと吸い寄せられていった。
「いいじゃない、涼って感じだわ。好きよ、こういうの」
「僕、赤い麺専門で食べたい!」
でんと真ん中に鎮座しているのは、そうめんの山盛り入ったボウルだ。
白く艶のかかった麺の上で氷が溶けかかっているのを見ると、いよいよ夏が来たのだと実感する。
結衣はその上に、切ったばかりのネギを散らした。爽やかな彩りに、つい唾液が滲み出すが、まだ終わらない。
本命は、冷蔵庫に隠していた。
「山形だしに、冷やし味噌煮、オーソドックスにめんつゆ。出汁、三つ用意してみたんだ。おかずを豪華にできないなら、っていう逆転の発想!」
「へぇ、毎度よく考えるわね、結衣は」「……結衣、天才やな! 味が単調っていう、そうめんの唯一の弱点消えたわ。これで!」
「せめて食べてから言ってよ、そう言うのは」
期待されないよりは、された方が嬉しいけれど、ハードルが上がりすぎるのも困りものである。
低予算ごはんなのだから、超えるハードルも低くあってほしい。
「おーい、朝ごはんできたよ」
結衣は、もう一度呼びかける。
今度は相手がすぐ近くにいるため、抑えた声量だ。桜の花びら付き、和室の古びた襖が、おもむろに開く。
ややむわっとした風に、銀色の長い髪と七色の組紐がたなびいていた。
「おはよう、伯人くん。また縁側の窓開けてたんだね」
「おはようございます。えぇ、すだれ越しの夏風も風流でしょう? 昨日は少し雨が降ったようで、湿気ていますが。おや、料理の方も夏らしいですね」
「でしょ? でも、季節感で言うなら伯人くんの格好の方がよっぽどだよ」
彼は七分袖の作務衣に、羽織を召していた。
仕事以外では洋服ばかりを着る結衣からすれば、夏祭りの格好というイメージだ。
「そんなんえぇから、はよ食べようや~」
風流など、犬は解さないらしい。食事を前に、我慢しかねたのだろう。
ハチが恋時の背中を押しに回る。
「この乗ってる氷だけなら、先に食べてもいいわよね? もう暑くてさぁ」
「あ、ずるいで雪子! そうやって、麺もさらうつもりやろ!」
「私はワンコみたいにいやしくないわ。あ、山形だしと、氷合うかも……! キュウリの浅漬け感がいいわね。歯当たりが最高よ、これ。一気に涼やかな気分!」
雪子がフライングをして、なし崩し的に食事が始まった。
ガリガリと氷を砕く豪快な音が鳴る。
だが思いのほか硬かったらしく、雪子が頬を歪ませ格闘しているその横で、ハチはその隙に、と色付き麺の確保へ乗り出していた。
こちらは、威勢がいいわりに、作業がちまちましている。まるでピンセットで分銅を掴むかのようだ。
静かだった朝が、一気に騒々しくなった。
恋時と苦笑いを共有してから、結衣たちも食事につくとする。
「朝にはちょうどよいですね。味噌だれも、攻撃的な辛さがないというか」
「あ、分かる? 少し蜂蜜入れてみたんだよね」
桃色のランチョンマットの前は、すっかり恋時の指定席だ。
それもそのはず。彼がここへやってきてから、早くも一つの季節が過ぎていた。
人気のない幽霊ボロ神社。
彼が来たばかりの頃、八羽神社はもっぱらこう揶揄されていたものだが、季節よろしく今は少し状況が変わっている。
最近はちらほら、参拝客の姿も見えるようになっていた。中には御朱印やお守りを求めたり、お祓いの依頼をくれるものもいる。
この間などは氏子総代のご老人がやってきて、変わりように目を細めていた。
「いやぁ、若い人がたくさんだ。これなら例大祭も、やるようにやってくれたらいいよ」
若干投げやりだったけれど、それはご愛敬である。
やっと見えてきた光明だった。
それは直接的には、依頼人だった竹谷未央が宣伝してくれた効果や、神社コンの開催による話題性のおかげなのだろう。
ただ、元を辿れば、どちらも恋時伯人のおかげに違いなかった。彼の商才は、たしかなものだったわけだ。
おかげさまで、春先には絵に描いた餅だった「大々的な例大祭の開催」も、残り一月に迫り、現実味を帯びてきていた。
仕事の合間を見つけては準備は進めており、また街中へ宣伝に行く用意もある。
そして変化といえば、こんなところにも。
「いくら美味しいからって、なにもあんなに奪い合いみたいに食べなくてもいいのに」
結局、三度も麺を茹でる羽目になった。
満腹と満足と引き換えに、やや疲労を残した朝食終わり、結衣は拝堂から外へ出る。
参拝客の目の前でやるのは、心証がよくなかろう。
入念に人目のないことをたしかめてから、屈んだのは賽銭箱の後ろだ。
参拝客が増えるのにあわせて、お金を入れてもらえる事が増えていた。
前はほとんど常に空で、悪戯なのか落ち葉が詰められていたりしたので、確認は気まぐれだったが、最近は毎朝確認することが日課となっている。
一礼してから、下部にある引き戸の錆びついた鍵を開ける。
「……あれ?」
なぜか、空っぽだった。
しかし少し記憶を辿れば、昨夕にも、お金を投げて手を合わせていた人がたしかにいた。そして結衣は昨日の朝以降、賽銭箱に触れていない。
思考がはたと止まって、その場でしばらく座り込む。夏にしては嫌な寒気が、背筋を抜けていった。
周りを見ず立ち上がったものだから、垂れていた鈴緒に頭をぶつける。がらんがらん、鈴の音が鳴った。
打った箇所に手を当てながらも、結衣は社務所へと走る。
「結衣さん、どうされました?」
「ねぇ、手提げ金庫どこにあるかな」
PCになにやら打ち込んでいた恋時に、食い気味に尋ねた。彼は、そうだそうだ、とその言葉を受ける。
「あれ、持たれていないのですか。ロッカーの中になかったので、てっきり結衣さんが持ち出されたのかと」
「ううん、そもそも開けてないし、知らないよ」
「……なんと」
どこかに入れ違えたのかもしれない。二人して、社務所内を捜索する。
何度も同じところをひっくり返すけれど、せっかく整っていた机の上が散らかっていくという二次災害に見舞われるだけ。
一応ハチや雪子にも確かめるが、両者とも目を丸くして首を横に振った。
いや、まさか。仮にも貧乏弱小神社だ。念には念をと、総出で家中を洗ってみたが、金庫だけが忽然と消えている。
どうやら、盗難にあったらしい。