それから、準備や着替えなどに小一時間。
ハチと雪子を留守番役に、結衣は恋時とともに神社を出発した。
「本当にこの格好で街に行くのかぁ」
自分の姿を振り見て、結衣の息は自然と紫色。
対照的なまでにクリアなのは、浅葱色の袴装束だ。常着といって、宮司の基本衣装である。着慣れてはいるが、それはあくまで神社の中や神事の際に限る。
横を歩いていた恋時が、くすくすと苦笑した。
彼は髪を黒にチェンジし、彩り鮮やかな着物を、いつもの組み紐で合わせていた。
足元はスニーカーで妥協した結衣とは違って、高い歯の下駄で固める徹底ぶりだ。
「よくお似合いですよ、結衣さん。それに浅葱色は、初夏の季節柄にも合ったいい色です」
「そう言われてもさぁ」
「まぁまぁ。もしかすると、結衣さんが素晴らしい神主だから似合うのかもしれませんね」
甘い褒め文句だった。結衣は思わず照れてしまうが、その手には乗るものかとすぐに思い直す。
元々、目立つから、広告塔になるからと、恋時がこの衣装でのチラシ配布を提案したのだ。
「適当言ってくれてさぁ。やらせたいだけでしょ」
「いえ、そんな。ただ私情として、結衣さんのその姿が見たかったんですよ。頑張ってる女性は素敵ですから」
「えっ……す、素敵……。って、いつも見てるじゃん! 騙されないからね!」
結衣は不平をこぼしつつも、参道を下っていく。
石畳の階段の影では、もう苔が蒸していた。
思えば、両脇の山もかなり青々しい。
草木が勢いを競っているかのよう、あるはフェンスから迫り出してさえいた。
結衣は、頭を屈めて避ける。
「鳥居に絡まり出したら、俺が草抜きをしますよ」
「草抜きで済むのかな、これ。業者呼ばなきゃいけないんじゃ……」
「除草剤でも撒けば、少しは効果がありますよ。大体、そんなお金があったら貯めたいでしょう?」
「穴があったら入りたい、みたいに言われても。まぁそうなんだけどね」
と、突然に近くの木々が大きく揺れた。
風もないのに、葉が擦れあい、山全体が震えている。
柵を鳴らして、小さな石も転がり落ちてきた。
昔から、鎮守の森では、たまにこういうことが起こる。
「山鳴りですね。大方、住み着いている妖が騒いでいるんでしょう。なにかあったのかもしれませんね」
「そうなんだ、妖の……。入ったことないから知らなかったよ」
「そうでしたか。でも、ここも八羽神社の敷地ですよね?」
「うん、境内の外だけどね。鎮守の森って言う名前もついてる。よく神社の森って、神様が降りてくる場所って言うから整備しなきゃいけないよね、とは思うんだけど」
「だけど?」
「お父さんが絶対に入るなって言うから」
「なるほど、そんな言いつけが」
思えば、なぜなのかは知らない。
ただ、耳にタコができるほどには、忠告を受けてきた。それは常識となり、結衣の身体に染みついている。
とにかくあの山には入ってはいけない。
悪戯心が全盛期の子供時代にさえ、破らなかった掟だ。
気にはなれど、十九にもなって、どうこうしようという気にもならなかった。
そのまま参道出口の鳥居を出る。
すぐ隣にある横野寺を抜ければ、そこから徒歩十分ほどで、彦根市街地にたどり着いた。
シンボルたる彦根城がすぐ側から見下ろす街並みは、石畳の上に瓦葺きの商店が軒を連ねる和風な佇まいだ。
けれど決して古臭いわけではなくて、中には、ポップなアクセサリー屋もある。
そういった歴史と今との融合が、街に言い知れぬ情緒を醸しているのかもしれない。
「普通に来たかったなぁ」
とは、率直な感想だった。
大型連休中ということもあるのだろう。観光客の姿も多く、その分、通り全体が活気付いていた。
その一員としてひっそり紛れているだけで十分だったのだが、むしろ注目の的ど真ん中。彦根城の和装イベントかな、との勘違いも聞かれる。
できるだけ隠れようと恋時の長い影を踏み歩いていたら、
「もう少し、神社の知名度があれば、ここまでしなくても済んだかもしれませんね」
彼がにっかり笑って言う。
相変わらず、ぐさりと胸を刺してくる御人だ。なんの前触れもないのがたちの悪いったら。
「……どうせうちは、無名のボロ神社ですよ」
「でも、今回をきっかけに変わるかもしれませんよ。自分で言うのもなんですが、企画も目新しいですし、神社の古臭いイメージを変えることにもつながるかもしれません。人を呼び込むことさえできれば、きっと一気に名前が轟きますよ」
恋時は早速、満点のスマイルを千切っては投げるように、チラシを撒き始める。
恥じらいを一切感じさせない仕事ぶりだった。
その姿を見ていたら、結衣もだんだん振り切れてきた。
どうせもう彼といるだけで、スポットライトの中にいるのは免れない。一番格好つかないのは、光の中でもじもじしていることだ。
「今月末、八羽神社コン開催します! ぜひ、参加してください!」
結衣は一歩前へ出ると、チラシを高く掲げて声を張り上げる。
そうして少し、まわりには人だかりができるほどになっていった。
恋時の思惑どおり、衣装効果てきめんだったようだ。
神社コンの対象としている二十代後半世代の人も、興味を示してくれていた。
「格好良すぎないかな、あの人! 役者さんかな?」
「時代劇の撮影とか!?」
内容ではなく、恋時に対してばかりだが。
好奇の目とともにカメラのレンズが、いくつも彼に向けられる。コスプレだと思っている人もたくさんいた。女性だけでなく、男性までもが彼を取り囲む。
なんだかやってもいない勝負に敗れた気になるが、たしかに滅多にない美貌である。おまけに愛想もいいのだから、テレビの中にいるアイドルに会ったような気分なのかもしれない。
それを横目に、結衣はひっそりとチラシ配りを行う。
ふと物陰から視線を感じた気がした。しかし、顔を向けたときには誰の気配もない。
たぶん恋時を狙った流れ弾だったのだろう。
そうとしか思えぬほど彼の周りは、お祭り騒ぎ状態だ。
「お兄さんは、神社コン参加するんですか!? というか彼女いますか? いなかったら私と付き合ってくれたりしませんか」
熱狂的な女性から、ついにはこんな直球の質問(願望とも言えるかもしれない)が飛び出る。
……どうするのだろう。
結衣がチラシを盾にしてひっそり伺うと、恋時は悩ましそうに小首を傾げた。
「俺は参加者じゃありませんよ。彼女もいませんが」
歓喜の悲鳴がわきおこる。まるでアイドルグループがライブ会場で行うフリートークのよう。
あぁでも、と恋時はほつれもない笑みを見せた。
「ご主人様なら、そこにいらっしゃいますよ」
なんてことを言うのか、この人は。
そう思ったのは結衣だけではなかった。集団に、ざわめきと動揺が広がっていく。
「どういう関係なんですか!」「羨ましすぎ! 気になる!」
一転して、結衣の元に質問が殺到することとなる。背が低いので、視界が一気に人で埋まった。肩を突かれ、裾を踏みつけられ、わ、わ、と転びかけたくらいだった。
中には、あらぬ嫉妬もあった。
とある女性などは眼光に明白な怒りを宿して、渡したばかりのチラシをぐしゃっと潰していた。
怖いったらない。
妖だけどね! とどれだけ言ってやりたかったか。
なんにせよ抜群の集客力となり、チラシは次々と捌けていく。
用意していた数百枚を配り終わるまで、なんと一時間とかからなかった。
「……時間の割に、すごい疲れたよ」
人目から解放された帰り道、結衣は盛大なため息をつく。勝手に、タレントさんたちの心労を知った気分になっていた。
「まぁいい宣伝になったと思いますよ。これで、SNSでも拡散してもらえ、参加者も集まるはずです」
「もう、こんなイベントしなくても、伯人くんが毎日街へ出たらそれだけで参拝客増えるんじゃない?」
実際、後ろをついて八羽神社まで、こようとしている人たちもいた。
だが、どういうわけか恋時が人払いをしたのだ。
「それでは意味がないんですよ。正しく、八羽神社の参拝客とは言えませんから」
ただお金に執着しているわけではなく、稼ぎ方に、彼なりのこだわりがあるらしい。