あの日、屋上で希望を託してから数週間が経つ。

「高嶺さん、おはよう」

「早瀬君は朝早いね、おはよう」

 彼に連れられたのは、電車で二時間程の山奥にある古屋。

「高嶺さんはここでの生活は慣れた?」

「少しずつ慣れてきたよ」

「突然のことだったからね、本当についてきてくれてありがとう」

 この生活は本当に突然始まった。
あの日、私は誰にも見つかることなく屋上を出て、止まることもなく通学路をセーラー服で駆けた。その途中で背負っていた通学カバンを川へ投げ捨て、学生証は落ちていたライターで燃やした。
最低限の生活用具と衣服、あるだけのお金をかき集めて使い古したリュックサックに詰める。最後に欠かしてはいけない作曲のデータが全て入っているノートパソコンを持ち家を出た。

「こちらこそ、連れ出してくれてありがとう」

 彼が連れ出してくれずにいたら、今の私は灰となって眠っている。

「高嶺さんご家族からの心配は大丈夫だった?」

「それなら問題ないよ、早瀬君こそ大丈夫だったの?」

 『問題ない』という言葉に疑うような表情を浮かべながら彼は口を開いた。

「僕の事情は姉に話してあるから大丈夫だよ」

 時刻は午前四時、自然に囲まれた空気は澄んでいて野鳥の声の響きが心地よい。

「高嶺さん、小屋の周りにしか出たことなかったよね?朝食まで時間あるからちょっと散歩してくる?」

「食事、早瀬君に任せちゃっていいの?」

「ここは綺麗な景色が多い、せっかく来てくれた高嶺さんにもそれを見てほしいんだ」

「じゃあお言葉に甘えて……ありがとう行ってきます」

 扉を開けると窓からでは感じ取れない空気が舞い込んでくる。透明で世界の綺麗な部分を掬い取ったようなものが肺を埋めつくす。
誰もいないと錯覚させるほどの静寂の森の中で、地面を踏みしめる足音と自然を生きる音が鼓膜を震わせた。

「この花綺麗……」

 日の当たらない場所に一輪咲く青い花。咄嗟に写真を撮ろうとポケットに触れるがこの瞬間で目に焼き付けることに価値があるのかも知れないと、その手を離した。
小さくて細い、だけど力強いその存在に心を奪われた。

「あっちの方、すごく光が差し込んでる」

 木々の隙間から光が一筋真っ直ぐに降りてきている。
生命の起源のような光、自然と引き寄せられる光。この光の発信元は空。

「これはお兄ちゃんの欠片……?」

 現実味のない妄想じみた呟きに息が早くなる。
目を逸らしたいという意思に反して、足は光の方へ動いた。しゃがみ込んだ光の焦点には、この世界のものとは思えないほど綺麗に草花が照らされていた。触れたら消えてしまうそうな空間。

「そろそろ戻らないと……」

 時計もないのもない空間で声が聞こえた。誰の声かはわからないけれど、私の帰りを待つ人の声。

「ただいま」

 扉を開け、彼の様子を確認する。

「高嶺さん!タイミングちょうどいい!おかえりなさい」

 この言葉を聴いたのは何年振りだろう。柔らかく、弾んだ声で迎え入れられる瞬間がずっと続けばいい。

「高嶺さん?立ち尽くしてどうしたの?冷めないうちに食べようよ!」

「あっ……うん!ありがとう」

 食卓に並んだ幸せの色。鼻を伝う香りは優しく、目に映る君はそれ以上に優しかった。
彼は私に暖かさをくれる。数年前感じた『あの暖かさ』に似てる。
彼の本心はまだわからないけれど、彼は私にとって確かな光となっている。進むべき道を照らし、導いてくれる存在。

「早瀬君のつくるご飯、やっぱりすごく美味しいね」

 共同生活が始まり数週間。
改めて感じた優しさの味、この生活が続いていきますように。