屋上特有の扉の重さと、その反動からの風に目を瞑る。
作詞の種を探しに立ち入り禁止の鍵を開けたのは、実は初めてではない。高校一年生の夏にも一度、ここを訪れた。当時と同じように規則を破ることへの躊躇いを抱えながら足を踏み入れた。

ー*ー*ー*ー*ー

 握りしめた手には、スマートフォンと有線イヤホン。日陰を探し、酷く荒れた呼吸を落ち着かせる。その日はちょうど初めての大学説明会があった日だった。

『ここにいる君たちが生きる現代社会は学歴が全てだからね』

 その言葉が何度も頭に響く、脳裏にこびりついて離れない。
綺麗に安定をなぞることを間接的に強要された瞬間、酷い悪寒と吐気に襲われ、そのまま講義室を飛び出した。
誰にも吐けない弱音の行方は、全て音楽に頼ることしかできなかった。

『無音』

 突如現れた、本人に関する情報が全て非公表な謎に包まれたアーティスト。年齢、性別はもちろん顔すら公開されておらず、届けられる情報は音楽のみ。
その音楽に歌詞はなく、映像も題名もない。『有名アーティストの裏活動』『引退した作曲家の匿名活動』『音楽史に名を残した偉人の生まれ変わり』など数多くの考察が繰り広げられるものの、その全てに根拠はない。

「……」

 『無音』の音楽には不思議な力がある。歌詞のない旋律だけが紡がれる中に、聞こえるはずのない不明確な言葉が聞こえてくる。そしてその言葉の中に確かな叫びがある。

「僕の創りたい音楽は……」

 スマートフォンに保存した書きかけの歌詞を辿る。いつか『無音』のような誰かの心を揺れ動かす音楽に僕の言葉を乗せたい。
 『無音』の正体についての考察の中に『無音AI説』というものがある。完璧なメロディーと無機質な音の羅列、有名な特定班が探っても一つとして見つからない情報から説が浮上し、多数のインターネットユーザーがその説を信じ、議論は一時収束した。
ただ僕はいまだに、その説を信じられずにいる。

「この曲は、確かに人間が創ってる」

 『無音』の曲はどれも、強い孤独と拒絶、そして隠しきれない臆病さがある。
ただその冷酷さの中には『ここにいていい』と教えてくれる温かさがあった。

「もし同じ世界に『無音』がいるのなら、僕は死ぬまでに貴方と言葉を交わしたい」

 盲目的に信じきった『無音』の架空の像へ、液晶越しに祈りを告げた。
きっと『無音』は僕なんかが触れてはいけないほどに尊い存在で、言葉を交わしたいだなんて贅沢な願いは叶うはずがない。

「でもいつか…『無音』の曲に僕の言葉を」

 叶う可能性すらない夢を描き、諦め、流すように『無音』の曲を聴く。

ー*ー*ー*ー*ー

 二年前のあの日と同じように、屋上に辿り着いた僕はまた『無音』をイヤホン伝えに感じている。
何一つ変わっていない自分が惨めになる。自分の夢に背を向けたまま、空気に抗うことを恐れて従うたびに胸が締め付けられる感覚を背負っている自分の無力さに落胆する。

「新曲……?」

 相変わらずの黒背景と旋律だけの音源に詰められたものは、感じたことのない絶望だった。
強風に促されイヤホンを外すと、誰もいないはずの屋上の奥からフェンスの軋む音がした。

「……?」

 揺れる髪と靡くスカート、僕の目を惹く白く細い脚。

「早瀬君……?」

 信じ難く、現実とは思えない光景。ただ確かに僕の目に映っているのは

「高嶺さん……?」

 躊躇いながら、彼女の名前を呼んだ。