五章 今宮郁人


     一


形の知らないものを探している。

落ち葉のよう、幾重にも重なった小さな義務や欲望の中、埋もれてしまったそれは居場所が分からない。
あるかなきかの、自分のありかを求めている。見向きもしてこなかったものは、向こうから振り向いてはくれない。


     ♢


棚には、もう疎らに商品が残るだけだった。

八時を過ぎると、近くのスーパーマーケットは早くも閑散としてくる。その日の特売はとうに売り切れて、卵も牛乳もない。鮮魚コーナーから流れる安直なテーマソングが、店頭の野菜売り場まで聞こえてきていた。

今日は特に遅くなった。明日がリハーサルで明後日が本番、いよいよ文化祭準備も大詰めに入っている。細かい修理を小道具やらに加えていたらきりがなくなって、最終下校時間をとうに割ってしまった。

半値になった合挽き肉を前に迷う。献立はハンバーグとポテトサラダ、既に弟に宣言してきてあったが、それをここへきて後悔していた。疲れで重い身体が、簡易なメニューを過ぎらせる。すぐ隣、調味済みの豚カルビに目移りはしたが、辛うじて弟への義理が優った。ポテトサラダだけ惣菜で間に合わせる事を自分に許して、会計へ向かう。炊飯器のスイッチを押したか急に不安になってレジ前でレトルトご飯を追加した。

「高校生? 偉いねぇ」

商品をスキャナーに通していきながら、中年の女性店員が口元で言った。独り言のようにも聞こえたので財布の中、小銭を揃えていると

「私にも高校生の息子がいるけど、買い物なんてもう頼まれてもくれないもの。それどころか無視される時もあるの」

今度は明白にこちらへ話しかけてきた。にこりと微笑んで誤魔化す。よそ行きの、自分でも好きではない顔だ。このせいで、老成してみられることも多い。

「お母さんは幸せ者ねぇ。また手伝ってあげてね」

そのまま保って、代金を支払う。

隣のゲージから、焦ったように初老の男性店員が移動してきた。まともに話をしたことはなくとも、昔から知った顔だった。たぶん家庭事情も察しがついているのだろう。なにやら囁くと、元の中年店員はばつが悪そうに下がっていった。

「ごめんね、悪気はないだろうから。この時間帯は暇でねぇ色々話したくなるみたい」
「いえ、気にしてないので」

カードと釣り銭を受け取る。詫びに、とアボカドの小袋を同時に押し付けられた。固辞するのだけど、押し問答の様相になったので受けとることにする。形が悪いからと客に突き返されたものらしい。

花柄ベージュのバッグに荷物を詰めて、店を出る。すぐ脇、粉物屋台の匂いは芳しい。鼻にしつつ、春には桜道になる一本道へ乗った。ここを真っ直ぐに行けば、左手に家がある。

母親はいない。俺が小学生の頃、弟はまだ物覚えもつかない頃に、病気で他界した。しばらくは父方の祖母が出入りして家の用事を済ませてくれていたが、実家との二重生活はそう長く続かない。ちょうど弟の手がかからなくなってきたこともあって、俺が家事を見るようになった。

家事はこちらの事情に関係なく、日々覆い被さってくる。
放り投げたくなったことは数知れないが、今のところ生活を崩すには至っていない。親父の着るワイシャツも、弟が派手に汚した服も、月曜日には皺のないよう整えられている。別に、自分を不幸とは思わない。ろくに母親の記憶がないだけ弟の方が不憫だ。その点、俺は恵まれているとさえ思う。

さすがに、デートを途中で切り上げざるを得なかった時は、堪えたが。

街灯に照らして劇の台本を見返す。短いとはいえ、台詞もあった。なにより初めて委員を担ったのだ、せっかくなら成功させたい気持ちは強かった。

目の前に人の気配がした。台本から顔を上げると、

「歩きスマホじゃなくて、歩き読み? ぶつかるよっ、幼馴染に」
「……幼馴染限定なの?」
「今回はね。ずっと後ろいたんだけど気づいてなかったでしょ。追い抜かしちゃった!」

はるが、スタバの空容器を手元で揺らしていた。久しぶりに会った。白のセーラーがすっかり秋らしい。

それから、ばっさり髪が短くなっていた。前は胸元まであった髪が、耳が辛うじて隠れるくらいに切り揃えられている。驚いて、反応が一呼吸遅れてしまった。

「そんな真剣になに見てたのー?」
「劇の台本だよ。もう明後日なんだ、早いもんでさ」
「台本! あのあと、どうなったの。見てみたかったんだ~、貸して」

「いいけど、プロに言われてももう修正できないよ」
「だから、うちなんて甘々のアマだってば。分かった、こうしよう。褒めるだけにする」
「それもそれで気持ちよくはないな」

渋々、俺は台本を手渡す。真剣に読み込み始めたはるの歩幅が小さくなっていくのに、調子を合わせた。
妙な緊張に鼓動がはやりつつ待っていると、台本が返ってくる。

「分かるよ、今の郁人の気持ち。子どもの発表会を見る親の気分」
「よくご存知で。で、どうなの我が息子は」
「贔屓目なしに面白いよ。最後はださい私服、しかも銀杏の木の下で告白する感じ、結構私好み」

世辞でもほっと胸のつかえが下りた。ラストは、はるの意見もなしに決めたから、この段階まで来てもどこか不安だったのだ。

「ねぇこの銀杏の木って」
「そう、俺たちが転んだところの木から思いついた。粋な演出だろ。あ、はるも出る? こける役で」
「なにそのいらない役! うちは観客でいいの!」

背中に鞄がぶつけられる。漫画の資料でも入っているのだろうか、ずしりと一撃が重い。

「はるの方は、調子どうなの。今日もかなり遅いけど居残り?」
「そ、居残り。劣等生だから──、なんてね。文化祭で描いた作品、先生が気に入ってくれたみたいで毎日のように特別講義」
「ありがたい話だな」

「そうなの。そうなんだけど、結構手厳しいんだよ。かなり手間かけた絵に、躍動感に欠ける、って一言書かれてた」
「さすがはプロ、だな」
「そうだね、ほら。うちは甘かったでしょ? このフラペみたい。今日から新作だよ、りんご」

はるの手元を見る。ゴミ箱ないかな、と呟く横顔、やはりその短さは慣れない。

「髪いつ切ったの、というかどうして」
「そこは一言目で褒めないと。似合ってるよ、って」
「似合ってる、似合ってる」

「適当言わないの。そうだなぁ。振り向いてもらうためかな、誰かさんに」
「……えっと」
「そこで黙ったら本気でそうみたいじゃん。やめてよね。ごく一般的な気分転換。ずっと伸ばしてきたからここまでやったのは六年ぶりとか? 郁人と野球とかサッカーしてた頃だね。活発だったなぁ」

はるは襟足をよけて首筋を見せる。

思い返せば、小学生の頃はさらに短髪だった。それが見る間に伸びて、すっかりロングのイメージが定着していた。昔に返ったよう、けれど身長も纏う雰囲気もなにも様変わりしている。

「というか勉強はしてるの。山田くんがそろそろ中間って言ってたけど」

目の前にいる彼女が、ずっと目の前にいた伏見はるが、途端に見知らぬ人になった気分がして立ち止まってしまった。

「立ち尽くすほどってそうないよ?」
「あぁうん、全く手もつけてない」

開いてしまった数歩分の距離を詰める。

「仕方ないなぁ全く。じゃあ教えてあげる。芸高の私が教えるのも変だけど。で今度、いつ空いてる?」
「……来週末とかなら一応」
「なに、その煮え切らない感じ。予定あるなら言ってくれないと本気にするよ。クラスで打ち上げある、とか、いっちゃんと遊ぶ、とかならそうすればいいし咎めないし」
「予定はないよ。ただ、はるがいいなら」

奥歯にものが詰まったような言い方になる。

考えてみれば告白されて以来、まともに話す機会がなかった。
その当日も家の用事、と言うありがちな建前は用意して、別々に帰っていた。

栗原さんに別れを告げられたすぐ後だった、あの時はすでに思考回路がショートしていた。今は考えられない、と場当たりの答えをした。
それはたぶん、はるとは対極の態度だった。

「あのさ、あれ。別に郁人が気にすることじゃないよ。郁人は今までどおり、幼馴染って思っててくれればそれでいい。だって幼馴染じゃん?」
「そうだけど」

「そうだよ。この先もずっと幼馴染、何が起きてもその事実は変わらないし。まぁでも」
はるが何歩か前へ駆けて振り返る。今はない、亜麻色の長い髪が凛と揺れた気がした。
「うちは今そう思ってない、ってこと少しだけ知っててほしい。うちの描く漫画も、たとえばSNSの文章だって少しそんなふうに思って見てほしい、かな」

「……できるだけ頑張るよ」
「つまんない答え~。無理矢理分からせてあげよっか」

字面とうらはらに、肩に掛けた鞄を引っ張ってくるはるは、なぜか愉快そうだった。

「離せよ、重たい」
「はーい。でも、重たいって禁句だと思うけど」
「ごめん、それは謝る」

「よし、その素直さに免じて許してあげる。その代わり覚悟しててよ。本当に分からせてあげるから」
「実力行使で?」
「ううん、たぶんうちはもう幼馴染って思えないから、その辺りちゃんと分かってもらう」

その花をつけたような笑顔は、髪に関係なく変わらない。
けれど

「はる、なんか大人っぽくなったな」
「え? しばらくぶりの親戚みたいなこと言うね、一応美容院でオトナショートってお願いしたからかな。色も染め直したんだよ、私立の特権だね」
「そうじゃないよ」

「じゃあなに? 教えてくれるまで帰さない」
「もうすぐそこじゃん」

マンションの共有玄関でチラシを掴んで、部屋の前で別れる。
彼女が玄関扉の奥に消えた後、俺は今しがた来た道を振り返った。

幼い頃、ここを走り回った自分たちを思う。
同じ轍を残してきたはずだ。

そのはずが、はるがずっと先にいるように思えた。