「あの花は剛が持ってきてくれたの」
私の言葉に司が花瓶を確認して「本当に?」と、声のトーンを上げる。
「本当だよ。それに、私のクラスメートたちがひっきりなしにお見舞いに来てたの。そしたら叔母さんが腕によりをかけてスイーツを作って持ってきてくれるようになってさ、この病室は毎日にぎやかだったんだよ」
司はきっとその夢を見ていたんだ。
だから一週間穏やかに眠ることができていたんだ。
「そっか。そうだったんだ」
なにかに納得したように何度も頷いてみせる。
「実は夢の中でとても楽しくて、一時期はもうこのままここにいたいと思ったんだ。夢の中にいれば悲しい現実を見なくてすむから」
私の胸はチクリと痛む。
担当医が言っていたとおり司は自ら目覚めることを拒んでいたんだ。
「でも途中からなんだかちょっと焦りはじめたんだ。この楽しさは本当に夢の中だけの出来事なんだろうか? もしかしたら、現実でもこんなに楽しいことがあるんじゃないかって。そしたら急に、悔しくなった」
「悔しく?」
「うん。僕だけを置いてみんなで楽しんでるなんて、悔しいなって思ったんだ。今まで屋敷で1人ぼっちだった僕が、こんなことを思うなんて変かもしれないけど」
私は左右に首を振る。
全然、変なんかじゃない。
みんなが楽しく騒いでいるのを見れば、誰だって興味が湧いてくる。
「そうしたら急速に目が覚めたんだ。暗い水の奥底から浮上していくような感覚だった」
「現実は、どう?」
聞くと司がこちらへ視線を向けた。
そして私の頬に軽くキスを落とす。
「うん。悪くない」
それから数日後。
精密検査を受けた司はどこも異常なしということで、無事に退院していた。
「今日は退院パーティーだね」
司と叔母さん、そして私の3人で病院を後にしてタクシーに乗り込む。
今日は休日で、とても晴れたいい天気の日だった。
外は蝉の鳴き声で騒がしい。
「もうスイーツの準備はできているわよ」
タクシーの助手席に乗る叔母さんが楽しげな声色で言う。
叔母さんからは甘い砂糖菓子の香りがしてきていた。
「そんなに張り切って作られても食べきらないよ」
呆れた声の司に私は「それはどうかな?」と首をかしげる。
あるいは簡単に食べ切れてしまうかもしれない。
「どういうこと?」
首をかしげる司に、私は窓の外へ視線を投げかけた。
タクシーは丘の道に差し掛かり、すでに屋敷が見えてきている。
「ほら、見て」
私が屋敷の方角を指差すと、司が目を細めて確認した。
屋敷の前には沢山のクラスメートたちが集まってきている。
そして《司くん退院おめでとう!》と、横断幕を掲げているのだ。
「あれは!?」
司の声が驚きでひっくり返った。
「クラスメートたちだよ。みんな、1度は司に自己紹介しに病室に来た子たち」
その数は20人を超えている。
司は唖然と目を見開いて言葉を失ってしまったようだ。
「あれが全員司の友達だよ」
「僕の……友達」
「そうだよ。だから孤独を感じたときにいつでも誰にでも連絡を入れていいんだよ。もう、風に声を乗せる必用はないんだよ」
司の声はみんなに届けることができる。
声をかければ、返事がもらえる。
司の目に一瞬光るものが見えたけれど、それはすぐに拭い取られて消えてしまった。
今のは嬉し涙だよね?
聞くのも不躾な気がして、私は黙って微笑んだ。
徐々に屋敷が近づいてきて、みんなの笑顔が出迎えてくれる。
「こんなに歓迎してくれるなんて、いいですねぇ」
運転手さんがのんびりとした口調で言ったのだった。
☆☆☆
司の退院パーティーはとても盛大なものになった。
みんながそれぞれ司のために選んだプレゼントを持ち寄っていて、司の部屋はプレゼントでいっぱいだ。
叔母さんが作ったお手製ケーキが出てきたときには大きな歓声が沸き起こった。
最初はみんなを前にして照れてしまってぎこちなかった司も、もう1度自己紹介を交わしているうちにどんどん打ち解けてきていた。
中でも読書好きな男子生徒数人とは気が合うみたいで、さっきから熱心に本の話を続けている。
「この部屋の本棚は宝箱みたいだな! 司、俺たちまたここに来てもいいか?」
「もちろんだよ。でもその時は君が好きな本を一冊僕に貸してくれる?」
「それいいな! お互いに本をオススメし合うのか」
「オレも参加させてほしい! 休日には叔母さんの作ったスイーツを食べながら読書とか、最高じゃん」
「お前はほとんどスイーツ目的だろ!」
大きな笑い声が聞こえてくる。
司はずっと楽しそうに笑っている。
いつもは青白い頬が、今日は赤く染まっている。
「今日、司に本当のことを話すつもりなの」
入り口付近に立って司の様子を見つめていた私に叔母さんが声をかけてきた。
「え?」
「私が、本当の母親だってことを」
「話すんですか?」
驚いて聞き返す。
司はまた大きなショックを受けるんじゃないだろうか。
心に負担がかからないか、少し心配だ。
「これだけの友達ができたんだもの。悩んだとしても誰かに相談することができるわ」
「そうですね……」
みんなの顔には笑顔が浮かんでいる。
司、退院おめでとう!
司くん、はじめまして!
司、司、司……。
少なくても今はみんな司のことを思ってここに来てくれている。
「いつまでも内緒にはしておけないしね」
私は頷く。
それは叔母さんにとってどれほどの覚悟だったろうか。
自身も体の弱い叔母さんが決死の覚悟を決めた瞬間だった。
「きっとうまくいくと思います。だけど、なにかあったらすぐに連絡ください」
「あらあら、ありがとう。美保ちゃんったら頼もしいんだから」
叔母さんはいつもの調子に戻り、口元に手を当ててホホホとお上品な笑い声を上げたのだった。
☆☆☆
「最近はずっと体調が良さそうだね」
私と司は丘をおりて近くの河川敷をゆったりとした足取りで歩いていた。
時折爽やかな秋風が吹き抜けていく。
蝉の声は小さくなり、今ではほとんど聞こえてこない。
散歩をするのにちょうどいい季節になった。
「うん。週末には誰かが訪ねてくるから、寝たきりではいられないからね」
そう答える司の背はいつの間にか私を追い越していた。
出会ったときは確か同じくらいだったのに。
少し見上げないといけない司の顔は顔色がよく、表情も明るい。
地面を踏みしめる両足も力強さを感じられた。
「ごめんね、みんなのこと迷惑になってない?」
「全然! だってみんなは僕の友達だからね」
司は誇らしげに胸を張る。
それがわざとらしく感じられて私は声を上げて笑った。
自然と伸ばされた手をつなぎ、また歩き出す。
その手も少し大きく、男っぽいゴツゴツとした手になってきている。
出会ったときはなにもかもが華奢だった司が、しっかり食事を取ることによって遅い成長を迎えているのがわかる。
「担当医に言われたんだ。この調子なら学校へ行くこともできるかもしれないって」
「本当に!?」
一瞬、司と一緒に登下校する光景が浮かんできた。
同じ学校の制服を着て、同じ道を歩く。
「来年、美保と同じ学校の夜間コースに通うことになるかもしれない」
「夜間コース……」
夜間コースは私たちの授業が終わる頃に学校へ来て、3時間ほどの授業を受けるものだった。
確か、夕方4時から7時までだったか。
教室はなく、図書館の奥にある特別室で行われていたはずだ。
1年遅れて入学することになるし、普通に通っても途中で体がついていかなくなるかもしれない。
だから、そう判断したらしい。
少し残念に感じたけれど、それが司の考えたことなら、私に文句はなかった。
それに、図書館には司の興味をひく本がいくらかあるかもしれない。
放課後図書室にいれば司に会うこともできる。
そう思うと今から胸が踊った。
「ここら辺に座ろうか」
木陰になっているところに木のベンチが置かれていて、私達はそこに腰をかけた。
川のせせらぎが心地よく聞こえてきて、思わず目を閉じたて、耳を傾けたくなる。
私たちは膝の上でそれぞれ本を広げて読み始めた。
最近司と散歩にできかけたときの日課だった。
それぞれオススメの本を持ち寄って、ここで読む。
数日かけて読み終えたら、今度は屋敷の司の部屋で感想を言い合う。