「そうか。じゃあ、もう少し敬意を持って接してくれよ」
「敬語使ってるじゃん」
「使えてねぇよ」

 ふ、と笑って流される視線にずっとドキドキしていることも、先生は知らない。
 エントリー順をすでに放棄して、自由に歌い盛り上がる生徒たちを見据えながら、私は訊いた。

「うちの学校の文化祭って、どうして名前が変わったんですか」

 “第三十一回 青鳴祭”
 ステージに掲げられた垂れ幕に、手作りの青い花々に囲まれた文字がバランスよく保たれている。十年前、赤い花に囲まれていた“茜”の面影は一つもなかった。

「……随分物知りじゃん」

 先生は苦笑を浮かべて、垂れ幕へと視線を向ける。

「まぁ、自分の学校のことですし」

 しっかり敬語を携えながら言うと、先生は言葉を選ぶようにしてゆっくりと唇を割った。

「変わったのは、俺が三年の頃。……前年の、火事を彷彿とさせる“茜”の字は適してないって。たぶん、大人たちが決めたんだろうな」
「茜色……だから、ですか」

 棺を蹴り飛ばした後に広がった、夕焼けに呑まれるような惨状を思い出す。

「被害に遭った生徒やその遺族に配慮して——とかなんとか、言ってたかな。……あー、俺もここの生徒だったんだよ」

 知ってた?
 そう訊かれて、少し迷ったけれど素直に頷く。直後、舞台袖に向かった先生の瞳が、僅かな照明にキラキラと反射した。

「大人って、被害者に寄り添うだけで気持ち良くなれんだろうな、とか。……あのとき、結構捻くれたこと考えてたわ。だから、前夜祭のことで不満を言う生徒の気持ちも、よく分かった」

 悲しげに微笑む表情が、不覚にも涙を誘う。準備日のときに、クラスメート全員の前で言葉を紡いだ先生を同時に重ねて、唇を噛み締めた。私はステージに視線を向けて、溢れるのを懸命に耐えた。

「……先生」
「ん?」
「力になってくれて、ありがとう」

 綾崎先生は憶えていないと思うけど、私はずっと憶えてる。辛いときも、悔しいときも、言いたいことを言えないときも——どんなときでも私があなたを見てるって、約束したこと。
 まだ熱の冷めない瞳で先生を見上げると、彼は「こちらこそ」と微笑んだ。

「……そうだ、先生は歌わないんですか?」

 あの日重ねた歌声を恋しく思いながら、期待を込めて訊いてみる。しかし、先生は首を振った。

「後夜祭は生徒主催だしな。教師が出てっても興醒めだろ」
「そうかなぁ……」
「それに、俺いま喉やられてるから。実は」

 確かに、ちょっと鼻声のような……。様子を伺うように覗き込むとしっかり視線が交わって、私は思わず喉を鳴らした。

「良い案だったよ。カラオケライブ」
「あ、ありがとうございます……永島さんにもそう言われた」
「仲良くなったんだな、お前ら」
「……んー、どうかな。永島さん忙しくて、学祭でもあんまり話せなかったし。残念ながら、地味~にぼっちの学祭だったし」

 卑屈っぽくそう言うと、先生は声を上げて笑い出す。十年前の綾崎くんでも同じ反応をするだろうな、と苦笑を浮かべた。

「……笑うところじゃないんですけど」
「あー、悪い悪い。なんか吹っ切れたな、遠山」
「え?」
「ある意味爽やかになってて、安心したよ」

 ある意味ってなにさ。私は少し口を尖らせた後、先生の笑みに吊られて笑う。十年前のあなたに会ってきたおかげだ、なんて言ったら、その大きな瞳を丸くするのだろう。

「全部、言っちゃいたいな……」
「……ん?」

 魔が差して呟くと、綾崎先生の顔が同じ目線に下りてくる。私の声を拾おうと近づけられたその表情に、ドクドクと鼓動が荒いだ。本当に、この人は十年経っても心臓に悪い。

「な、なんでもないっ……です……」
「そうか。じゃあ、若者は歌ってこい」
「えっ、ちょ……」

 動揺も体の熱も冷ませないまま、背中を軽く押される。振り返ると、綾崎先生はしてやったりな表情でステージの袖を指していた。
 “行ってこい”——。音のない声で伝えるその仕草に、胸がキュンと鳴く。我に返って彼の指先を辿ると、そこには音響を担っている永島さんが立っていた。

 私は先生を振り向いて大きく頷く。同じ仕草を返してくれた彼に、今度は私から音のない声を届けた。

 “ずっと前から、大好きです”——。

 なんだって?と言いたげに眉を寄せた先生へ、舌を出してハラハラ手を振る。永島さんの元へ走り出した後、一粒の涙が頬を流れた。