最後のナレーションの直後、幕が閉じる。照明の落ちた教室内に大きな拍手が響き渡る。再び舞台が明らんでキャスト陣が整列すると、その喝采は盛況をより確かなものにした。

「どうだ。自分の書いた脚本、思い出したか」
「……うん。我ながら傑作」

 観客の背中とキャストの皆を眺めながら、綾崎くんの言葉に頷く。途中で読むことを止めてしまった『レイニー』の続きは、私の心を朗らかに包み込んでくれた。

「小鳥遊の演技もゲネより良くなってた。宮城に背中押されたおかげかもな」
「じゃあ、その私の背中を押してくれた、綾崎くんのおかげでもあるかな」
「なんだそれ、心当たりねぇし」
「ふぅん。心当たりないのに照れてる」
「……お前、結構言うよな」

 彼が視線を流した瞬間、照明が灯る。暗がりになれた瞳孔が眩んだけれど、綾崎くんが眉を下げながら溢した笑みはしっかり目に焼き付けた。
 それにしても、気づけば腕が触れてしまいそうな距離感だ。舞台を見ていたから気がつかなかったけれど、互いのパーカーの擦れる感覚が今になって心音を深くして、もう一度彼の横顔を垣間見る。

「ん?」
「な……なんでもないっ」

 綾崎くんの高い背丈から下ろされる、黒光りした瞳が好き。薄い唇から不器用に放たれる優しさが好き。気づかないくらい自然に掬いあげてくれる、その温かい手が好き。
 思わず逸らした視線の焦点は合わないのに、心情のピントは徐々にくっきりと何かを写し出した。
 透子が綾崎くんを好きだった理由が、今ならとてもよく分かる。担任の先生に抱くのはきっと良くない事だけど、でも……十年前の今ならいいよね。

「綾崎く——」
「透子ちゃん……!」

 彼の袖口に手を伸ばした瞬間、観客の誘導を縫ってやってきた心優が体を締め付ける。正面から抱きつかれた私は、上品とはお世辞にも言えない声をあげ、伸ばした手を引っ込めた。

「心優……!お疲れ!」

 締め付けられたままで、少し声が裏返る。トントンと肩を叩くと「あ、ごめん苦しかった?」と腕は緩められ、晴れやかなお下げ姿の心優が顔を覗かせた。

「もう心優ってば、抜け駆け早すぎー!」
「あれ、もうバレてる」
「トーコ、甘やかさないでね。三公演目まではそんなに余裕無いんだからっ」
「ええっ、私から女神(ミューズ)を取り上げないでよ~」
「まったく!調子良すぎなんだからぁ、離れなさい!」

 後ろからやってきた監督の羽純に、心優はクスクス息を漏らしている。逃亡劇と公演を経たからか、内容はともかく二人の会話の息はピッタリだ。
 羽純の尽力によって剥がされた心優は一息吐いた後で、少し乱れたお下げを直しながらやんわり微笑む。先ほどまでは幼さが垣間見える小鳥遊心優だったのに、どこか達観した雰囲気を思わせるのは、その微笑みがレイニーの演技に通じているからかもしれない。
 私は思わず高揚した。

「透子ちゃん。私も、透子って呼んで良い?」
「え?」
「心優!って、呼んでくれたでしょ。籠ってたときも、今も」

 腰に手を置いて仁王立ちしていた羽純は、「確かに」と頷く。

「トーコって、ずっと“心優ちゃん”だったもんね。あ~っ、だからちょっと違和感あったのかぁ~」
「そうそう。突然だったからビックリしたけど、私を鼓舞してくれたのかなぁって」

 ドクン——、と鼓動が激しくなる。
 透子が小鳥遊 心優をどう呼んでいたのか、気に掛けることをすっかり失念していた。……彼女の救出に神経を注いでいたからか、それとも、透子と遠山千怜の境目が薄くなり始めているからなのか——。
 私は背後のロッカーに寝そべるざらめに意識を及ぼしながら、二人の言葉に笑みを浮かべた。引き攣らないように、細心の注意を払って。

『言っただろう。透子が延命した後のアンレコード(セカイ)をワタシは知らない、と。それに、訊かれていないことには答えようもないしなァ』
「——……」

 やっぱり、ある程度伝える意思を込めれば彼に通じるのか。これまでのやり取りをもってすれば、ざらめが読み取れる(・・・・・)こと自体は不思議ではない。しかし、案内役にはやはり適していないと思う。

「ね、どうかな?透子……って呼ぶの、」

 覗き込む心優に、私は慌てて縦に何度も頷く。すると彼女は満足げに笑い、なぜか視線を斜め上に持ち上げた。
 その視線の先に居る男子生徒は、自分に話が飛んでくるなんて思ってもみなかっただろう。

「ねぇー、綾崎も呼んでみたら?下の名前で」
「……ハァ?」

 ほら、その証拠に眉間にはこれまでにないくらい深くシワが刻まれている。

「嫌じゃないでしょ?透子も」
「い、……いや、ではないけど……」

 もちろん嫌じゃない。じゃあ、なんで——『嫌ではないけど(・・)』の続きに、私はなんて紡ごうとしていたの。

「呼ばねぇよ」
「うっわぁ、可愛くなぁい」

 心優に乗じて、羽純も苦い顔を向ける。綾崎くんは呆れたように嘆息を吐いて、シッシと手の甲を捻った。
 クガヤマくんの時にも感じていたけれど、彼がクラスメートと話している姿はとても好きだ。言葉遣いは決して良くないが、心地良さを感じさせる不思議な引力を彼は持っていた。

「いいから、次の公演あんだろお前ら」
「主演サマはね。アタシは一旦休憩~、現場は演出にバトンタッチでーす」

 言いながら、羽純は心優の背中を押して「ほらいってこーいっ」と手を振る。私も一緒に見送ると、彼女は整えた三つ編みを揺らして舞台袖へと駆けていった。
 本当に、一時間も籠っていた面影もない。私にはないその切り替えの早さは、心優と千怜という個々を実感させた。