『お前が今いるこのセカイはフィクション——つまり、主軸のセカイに生きるお前以外の人間にとって、“実在しないもの”ということだ』
「…………え?」
『トウコとして延命したことも、トウコとして過ごすこれからの日々も、主軸のセカイに存在するお前以外の人間には記録として残らない。どうだ、分かりやすいだろう』

 分かりやすいとか、分かりにくいとか。そういう問題じゃない。……私って、とんでもないセカイに送り込まれてしまったんじゃないの?
 こめかみと手に伝う冷や汗とは裏腹、頭のなかでは呑気に自問自答を繰り返している。したり顔を止めないざらめに再び問いかけたのは、しばらくフリーズした後だった。

「フィクション……ってことは、だよ……現実の私は存在しないことになるの?」
『まあ、そういうことだな。主軸(むこう)のセカイの記憶操作はワタシの十八番だから、心配はするな』
「も、戻れないの? どうしても、戻れないの?」
『なんだ、戻りたいのか』
「え?」
『あれほど、自分の存在意義を失くしていたというのに、戻りたいのか? 主軸()のセカイの方へ』

 少し窓が開いているのか、隙間風の音が口笛のように背中を突く。呑気な音とは裏腹、それは私の核心に触れる針のように繊細だった。

「……どうだろう……分かんない」

 自分のなかで作り上げたフィクションが消える代わり、このアンレコードで “ミヤギ トウコ” を全うする——。
 非現実的な現実を叩きつけて、すぐさまイエスかノーを捻り出せるほどの勇気はない。見た目がいくら美人になっていても中身は平凡な遠山千怜であることが、私を余計に虚しくさせた。

「ねえ。じゃあ、もし戻りたいって言ったら……? 戻る方法はあるの?」

 “このセカイの案内役”と言ったざらめは、耳にタコと言いたげな表情で息を吐く。その分かりやすい態度は、ときに私の心を深く傷つけた。

『あるぞ。その方法は——』

 ガラッ——。
 それは、おちょぼ口が息を吸い込み、次の単語を発する寸前だった。保健室の扉が開かれた音に肩が大きく跳ね、声を発しないまま棒のように立ち尽くす。そしてベッドで休んでいたフリをする前に、カーテンがゆっくりと開かれた。

「お、立ってんじゃん」

 ……もう見なくても分かる。足音からなんとなく三橋先生でないことは察していたし、何よりも頼ってしまいたくなるその声は、否が応でも安堵を誘ってくるのだから。

「うん……おはよう、先生」
「は? 先生?」

 ああ、まずい。ベッドの脇に立ったまま横目に捉えた 綾崎 充(当時十七歳)は、いくつかの鞄を肩に引っ掛けて眉を寄せていた。

『墓穴』
「う、るさいっ……!」

 見えないのを良いことに、未だベッドの上で寛いで嗤うざらめを睨むと、綾崎充はさらに皺を深く刻んだ。……これじゃあ本当に墓穴だ。

「お前本当に大丈夫か? 一応鞄持ってきたけど、帰れる?」
「い、いや、うん。全然大丈夫っ」

 両手を前に振って、彼と真正面に向かい合う。この頃の彼と間近に目が合ったのは初めてで、何故かむず痒い。その細い線からは考えられないほど頼もしい背中に背負われていた、と思い返すだけでなんだか居たたまれない。
 私はおもむろに差し出されたスクールバッグに視線を落とした。

「……じゃあほら、行くぞ」
「え?」
「三橋先生から聞いてねぇの? 俺、ミヤギのこと送っていく係」

 ほら早く。と、差し出されるバッグ。受け取った直後に背を向けた彼の襟足は、ほんのり赤く染まった首筋を隠しきれていなかった。