「急に家とは反対方向に暴走し始めたから、びっくりしたよ。気をつけなきゃ」
由井くんに、はぁーっとため息を吐かれて、ようやく少し、頭が働き始める。
「電柱にぶつかりそうになったとき、空気で守られたみたいな気がしたんだけど……。由井くんが助けてくれたの?」
「たぶん……」
「ありがとう。ユーレイって、あんな力も使えるんだね。びっくりした」
お礼を言うと、由井くんが自分の手のひらに視線を落として少し照れ臭そうに笑う。
「うん、おれもびっくり。でも、衣奈ちゃんが危ない、守らなきゃって思ったら、不思議と力が出た」
「そう、なんだ……」
「おれ、たぶん、衣奈ちゃんのためならなんでもできるんだと思う」
わたしに視線を戻した由井くんが、唇に弧を描くようにして綺麗に微笑む。その笑みの妖しいまでの美しさが、わたしをドキリとさせた。
「衣奈ちゃんが急に心を失っちゃったのは、あいつのせいだよね」
「あいつ……?」
「アキちゃんだよ。あいつと彼女がキスしてるのを見て、動揺しちゃったんでしょ」
由井くんが、わたしに微笑みかけたまま、しっかりと核心をついてくる。
「ち、がうよ。そんなんじゃない……」
すぐに否定したけど、由井くんは貼り付けたような綺麗な笑みを崩さなかった。
「できれば気付きたくなかったけど……。衣奈ちゃんは、あいつのことが好きなんだよね」
「アキちゃんは、ただの幼なじみだよ」
「ほんとうは、あいつと付き合いたかった?」
「違うってば……!」
否定すればするほど、動揺で声が震える。
笑顔でわたしを見つめる由井くんは、言葉にできないわたしの気持ちを見透かしているみたいだった。
「あいつが衣奈ちゃんに振り向くように、おれが協力しようか?」
「なに言ってるの。アキちゃんは、里桜先輩のことが好きなんだよ。それに由井くんだって、わたしがほかの人と仲良くするのはいやだって言ってたじゃない」
ゆるりと首を横に振ると、由井くんが「いやだよ」とつぶやく。
「衣奈ちゃんがほかのやつと仲良くするのはいやだ。でも、おれ、衣奈ちゃんのこと好きだから。衣奈ちゃんが望めば、おれは衣奈ちゃんのためならなんでもするよ」
口元にだけ笑みを浮かべる由井くんの目は、本気では笑っていない。
わたしを見つめる空洞みたいな目が、なんだか少し怖かった。
次の月曜日の朝。
教室で瑞穂と話していると、アキちゃんがいつもより少し遅めに登校してきた。
「衣奈、松川さん、おはよう」
わたし達のそばを通り過ぎるとき、アキちゃんが笑顔で声をかけてくる。
「おはよう」
「お、おはよう」
笑顔でアキちゃんに挨拶を返す瑞穂のとなりで、わたしはちょっとどもってしまう。
土曜日に見てしまった、アキちゃんと里桜先輩のキス。それが、ふと脳裏によみがえって気まずかった。
今朝も、アキちゃんは駅前で待ち合わせして、里桜先輩と一緒に登校してきたのかな。
今までは、毎朝仲良く登校するふたりのことをうらやましく思っていたけど。リアルなキスシーンを見たせいで、アキちゃんの顔がまっすぐ見れない。
もちろんアキちゃんは、里桜先輩とのキスをわたしに見られていたことなんて知らない。
だから、わたしが勝手にひとりで気まずくなってるだけなんだけど……。
「衣奈、どうかした?」
不自然に目線をそらすわたしのことを不審に思ったのか、アキちゃんが少しだけ顔を近付けてきた。
アキちゃんは、基本的に人との距離が近い。
わたしのことを女子として意識してないから、アキちゃんは無防備に顔を近付けてくるのだと思うけど……。
あまり近付かれたら、アキちゃんと里桜先輩のキスを思い出してしまうからやめてほしい。
「べつに、どうもしないよ。ていうか、近いから」
「そうか?」
わたしに指摘されて、アキちゃんが一歩下がる。
「あ、そういえばさ、衣奈――」
「あ、矢本ー。そういえばさっき、サッカー部のやつがお前のこと探しに来てたよ」
アキちゃんが、ふと思い出したようになにかを言いかけたとき、少し離れたところからクラスの男子がアキちゃんに声をかけてきた。
「え〜、名前誰?」
「なんだっけ。二組の背ぇ高いやつ」
「ああ……」
クラスの男子とそんな会話をしたあと、アキちゃんがわたしに向き直る。
「ごめん、衣奈。話したいことあったんだけど、またあとで」
「ああ、うん」
慌ただしくどこかに行ってしまうアキちゃんに手を振るわたしを、由井くんが無表情で見てくる。
いつもは、わたしが誰かと話すと目尻をつり上げて怖い顔をしている由井くん。その度に、彼が誰かを金縛りに合わせてしまわないかと気が気じゃないけど……。
今みたいに、無表情で生気のない目で見つめられるのもなんか怖い。
ドキッとしながら由井くんから視線をそらすと、わたしと一緒に去っていくアキちゃんの背中を見送っていた瑞穂が「ねえ」と話しかけてきた。
「矢本くんてさ、カノジョいるのに、衣奈との距離感すごく近いよね」
「そ、そうかな……。家近いし、小学生の頃から知ってるからね」
「だとしても、距離感近いよ。矢本くんて、誰とでも仲良くできるイメージだけど、衣奈とは特に仲良いよね。あんなに距離感近くて、今まで矢本くんのこと好きだな〜って思ったこととかないの?」
何気なくといったふうに訊ねてきた瑞穂の言葉に、ドキリとする。
「いや、でも……。アキちゃん、カノジョいるし」
「矢本くんにカノジョできたのって、夏休みくらいでしょ。それまでのあいだで、ときめいちゃったこととかないの?」
アキちゃんに、ときめいちゃったこと……。
そんなの、何度もある。アキちゃんが里桜先輩と付き合い出して、自分の気持ちを自覚してからは特に……。
だけど、そんなこと、たとえ瑞穂にも言えるはずがない。
アキちゃんには、わたしに対して恋愛感情は一ミリも持っていないんだから。言ったところで、虚しい気持ちになるだけ。
それに、ヘタにアキちゃんへの想いを誰かに口にして、これまでの関係を壊したり、アキちゃんと里桜先輩の付き合いを邪魔したくない。
「アキちゃんにときめくとかないよ。アキちゃんとは、兄妹みたいな感じだし」
わたしがハハッと笑うと、「きょうだいか〜」と、瑞穂がなんだか不服そうな声でつぶやいた。
「なんで、ちょっとつまらなそうなの」
「だって、衣奈が全然好きな人とかカレシ作らないのって、密かに幼なじみの矢本くんに恋してるからなのかな〜ってちょっと思ってたから」
「いやいや、ないって」
笑って顔の前で手を振りながら、口の端がひきつりそうなのがちゃんと誤魔化せているかな……、と思う。
話してなかったのに、瑞穂にはうっすらとバレてたんだな。わたしの気持ち……。
アキちゃんは鈍いから大丈夫だと思うけど、気付かれないように気をつけなきゃ。
瑞穂の前でひきつり笑いをしていると、横顔に視線を感じる。
見ると、由井くんはまだ無表情でわたしのことを見つめていて。やっぱり、少し怖かった。
どうしたんだろう。
考えてみれば、土曜日にふたりで青南学院に行って帰ってきたあとから、由井くんは少し様子がおかしい。
青南学院に行って、帰りにスーパーに寄ったときまでは「デートだ」って喜びながらわたしについてきていたのに。
家に帰ってからは、今みたいに無表情でわたしのことを見ている瞬間が多くなって。クレイから、今まで以上に敵意の牙を向けられていた。
もしかして……。青南学院の前に行ったことで、なにか思い出したことでもあったのかな。
学校の前ではなにも思い出している気配はなかったけど、時差でなにか思い出すことがあったのかもしれない。
それをわたしに言えなくて、困ってる……、とか?
だとしたら、少し心配。
気になってジッと見つめると、わたしの心配のまなざしに気づいた由井くんが、ハッとしたように表情を緩めた。
「衣奈ちゃん?」
わたしにだけ聞こえる声で名前を呼んだ由井くんの唇の端が弓状に引き上がる。
わずかに目を細めて微笑む由井くんが、教室に差し込む朝の太陽の光に透けて綺麗で。ドキリとした。
さっきまで、わたしはアキちゃんのことを考えていたはずなのに。
ちょっと笑いかけられたくらいで由井くんに心を揺さぶられるなんて、気が多すぎ……。
自分の優柔不断さに反省しつつ、由井くんから顔をそらす。
わたしはべつに、由井くんのことはなんとも思ってない。
突然、視えるようになって。なにも覚えてないけど、わたしのことが好きだ、って言われて。つきまとわれて。そのせいでクレイには牙を向けられてて、困ってる。
なんとかして、わたしから離れてもらわなきゃって思ってる。
だけど、ときどき由井くんにドキリさせられてしまうのは、彼の見せる表情が、瞬間的にとても綺麗だから。
ただ、それだけだ。
◇
その日の昼休み。
お弁当を食べたあと、彼氏に会いに行くという瑞穂といっしょに教室を出た。
「衣奈、どこか行くの?」
「飲み物買いに行く」
「そっか。じゃあ、あとでね」
瑞穂の彼氏は二年生だから、教室はひとつ上の階。自動販売機があるのはひとつ下の階。
階段のところで瑞穂と別れると、後ろからついてきていた由井くんが、ふわっとわたしの横にきた。
ちらっと横目で見ると、由井くんがにこっと笑いかけてくる。
朝はものすごく無表情だったけど、今隣にいる由井くんの笑顔はいつもどおりだ。
なにかわたしに言えないことでも思い出したのかな、と心配してたけど……。わたしの思い過ごしだったのかもしれない。
人通りがあるから学校ではあまり由井くんに話しかけられないけど、飲み物を買いに行ったあと、中庭にでも行こうかな。
そこならあんまり人が来ないから、由井くんと話していても目立たない。
駆け足で階段を降りると、由井くんが同じスピードでついてくる。
学食のそばの自動販売機でホットミルクティーを買うと、あつあつの缶を伸ばしたセーターの袖の上から両手でつつむ。
「中庭行こう」
こそっと声をかけると、由井くんがパッと目を輝かせた。