アキちゃんとは同じクラスだから、どうせ教室でまた顔を合わすし。ただの幼なじみでしかないわたしが、アキちゃんと友達の会話に入っていくのもおこがましい。
階段に向かって廊下を歩いていると、学校に着くまでわたしとアキちゃんの話を黙って聞いていた由井くんが、すーっと隣にやってきた。
「そういえば衣奈ちゃん、前まではよく、アイツと一緒に電車に乗ってたよね」
由井くんの言葉に、ドキッとする。
「なんで、由井くんがそんなこと知ってるの?」
「わからない……。けど、なんかそんな気がした」
由井くんが眉をハの字に下げて、自信なさそうに小さく首を横に振る。
わからないと言う割には、『アイツと一緒に電車に乗ってた』って、結構ハッキリと断言していた気がするけど……。べつになにかを思い出したってわけでもないらしい。
由井くんの中に潜在的に残っている記憶が、ふとした瞬間に言葉になってこぼれたのだろうか。
由井くんが言ったように、高校生になってからしばらくのあいだ、わたしとアキちゃんは朝の同じ時間帯の電車に乗って通学していた。
家が近所のアキちゃんと朝一緒に登校するのは、小学校の頃から続いている習慣みたいなものだったのだ。
だけど、アキちゃんが里桜先輩と付き合い出してから、わたしは電車の時間を一本ずらした。
里桜先輩と付き合えたアキちゃんの邪魔はしたくなかったし、ただの幼なじみのわたしが、毎朝彼女持ちのアキちゃんと一緒に登校するのはよくない気がしたから。
「おれ、アイツが『衣奈』って呼ぶのを聞いて、君の名前を知ったのかも……」
「え?」
「ごめん、やっぱり違うかな。自分でもよくわからない……」
由井くんが、立ち止まって両手で頭を抱え込む。
「え、ちょっと、大丈夫……?」
そのままうずくまってしまった彼の肩に手を伸ばすと、なんの感触もつかめないままに、手のひらだけが彼の体をすり抜けた。
「あ……」とつぶやくわたしのことを、たまたま通りすがった生徒が不思議そうな顔で見てくる。
由井くんの姿はわたしにしか見えていない。だから、廊下の途中で立ち止まって宙に手を伸ばしたわたしの行動は、ハタから見ればおかしかっただろう。
突然頭を抱えてうずくまってしまった由井くんが心配だけど、人通りの多い廊下で、ヘタに動くことも話すこともできない。
しばらく見守っていると、由井くんがゆっくりと顔をあげた。
「今ちょっと、なにかを思い出したような気がしたんだけど……。頭が痛くてダメだった。ごめんね……」
しょんぼりとした顔で謝られて、わたしは無言で首を横に振った。
思い出そうとして頭が痛くなるってことは、由井くんの中で記憶を思い出したくないっていう拒絶反応が起きているのかもしれない。そんな状態で無理やり思い出させるのは、危険かも。
由井くんが今まで言っていたことから推測すると、彼がわたしのことを知ったのは、高校生になってからアキちゃんが里桜先輩と付き合うまでのあいだ。
そのときに、電車の中で会っている――、もしくは、由井くんから見られている。
最近のことだし、もし青南学院の制服を着たイケメンが同じ電車に乗っていたなら気付きそうなものだけど……。
気付かなかったってことは、由井くんは数年前にはもうユーレイになってて、ユーレイの状態で、電車に乗っているわたしをどこかから見てたって仮説もたてられるのでは……。
そうだとしたら、ちょっとホラーだ。
朝起きると、今日も目の前に、青白くて綺麗な顔をした男の子の寝顔があった。
布団もかけず、黒の制服のブレザーを着たまま背中を丸めて眠っているユーレイの男の子。
初めの数日は、目覚めるたびに驚いて悲鳴をあげていたけど……。さすがに同じことが一週間も続くと、あまり驚かなくなった。
学校の最寄り駅のホームで出会ってから一週間以上が経つが、由井くんは未だにわたしに憑いたまま離れてくれない。
彼が忘れている記憶を思い出す様子もなく、アキちゃんの友達からの情報も今のところなし。
自分でもなにか由井くんに関する情報を調べようと、ネットでニュースを検索してみたり、図書館に行ってなにか手がかりになりそうな記事が載っていないか新聞を調べてみたり……。思いつくことはいろいろやってみたけど、由井くんに関する手がかりはなにもつかめていない。
この一週間、わたしがいろいろと手をつくしているのに、肝心の由井くんのほうにはあまり記憶を思い出すつもりがないらしい。
毎朝わたしのベッドで目覚めて、わたしにくっついて学校に行って、帰り道にスーパーに寄って。
家に帰って家事の手伝いをしているときは、わたしの後をつきまとって、クレイに牙を剥かれて。部屋でわたしが勉強するのをぼんやり観察して、わたしが眠るときに隣にふわりと横になる。
由井くんはわたしのそばで、もう一週間ほど、そんな生活をしている。
最初は、どこに行くにも由井くんが半径一メートル以内のところにいることが落ち着かなかったけど。(トイレやお風呂のときは、ドアを隔てて少し離れたところで待ってくれてる……)
だんだんと感覚が麻痺してきて、由井くんが近くにいることがふつうになってきた。
そして、ふと冷静になった瞬間に、彼がいることがふつうだと思い始めている自分がヤバいなと思う。
由井くんは、だいたいわたしよりも起きるのが遅い。
今日も変わらず綺麗な由井くんの寝顔を眺めて、ふぅーっとため息を吐くと、彼の長い睫毛がわずかに揺れた。
そろそろ、目覚めるのかもしれない。
わたしはベッドから這い出すと、由井くんが目を覚ます前に着替えを済ませた。
洗面所で顔を洗ってくる余裕、あるかな……?
由井くんが眠っているのを確かめてから部屋のドアを開けようとすると……。
「衣奈ちゃん、どこ行くの……?」
掠れた声の由井くんに呼び止められる。
ぐっすり眠っているようでも、由井くんは結構敏感で。わたしがどこかへ行こうとすると、すぐに気が付いて目を覚ますのだ。
「顔洗って、ごはん食べようと思って」
「ふーん。あれ、今日は制服じゃないの」
「うん、土曜日だからね」
そう言うと、由井くんがまだ眠そうな顔で「そっか」とうなずいた。
それから、音もなくベッドから起き上がってわたしのほうにふらりと近付いてくる。
土曜日だから、わたしは黒の細身のパンツにグレイのパーカーっていう部屋着仕様のラフな格好だけど、由井くんはブレザーを羽織った制服姿のままだ。そのうえ、首元を緩めてはいるけど、ネクタイもしめている。
そのまま一日中過ごして、寝起きもしているけれど、由井くんの着ているものは、シワがついたり汚れたりしないから不思議だ。
一度、「ブレザーだけでも脱げないの?」って聞いたら試そうとしてくれたけど……。
脱ごうとしても、なぜかうまく脱げないらしい。ユーレイになる直前に身に付けていたものは、とろうと思ってもとれないのかもしれない。
部屋を出て階段を降りると、まず洗面所に行って顔を洗う。
そのまま由井くんを引きつれてリビングに行くと、キッチンのほうからコーヒーのほろ苦い香りが漂ってきた。
「おはよう、衣奈」
すでに起きて、ダイニングで朝ごはんを食べていた両親がわたしを振り向く。
「おはよう。咲奈たちは?」
「まだ起きてきてないわよ。衣奈の朝ごはん準備するね」
「いいよ。自分でやる」
わたしは、食べかけの朝ごはんを置いて立ち上がろうとするお母さんを止めると、キッチンに向かった。
トーストを焼くと、お母さんがコーヒーメーカーに淹れた残りのコーヒーをちょっともらって、牛乳を混ぜてカフェオレにする。
トーストのお皿とカフェオレのカップを持って食卓に座ると、ソファーのそばにいたクレイが、わたしに——、ではなく。わたしの背後に身を隠している由井くんに「シャーッ」と歯を剥いてきた。
由井くんがわたしに憑き始めて一週間経っても、彼に対するクレイの警戒心は緩まない。
それどころか、日を追うごとにひどくなっているような気がする。
可愛いクレイに怖い顔で睨まれながら、今日も切ない気持ちで朝ごはんを食べていると、お母さんとお父さんが不思議そうに首をかしげた。
「クレイってば、さっきまでソファーでおとなしく寝てたのに。最近、衣奈に対してだけ態度が変よね」
「どうしちゃったんだろうな」
両親も、わたしに一番なついていたクレイの態度がここ一週間で豹変したことが不可解みたいだ。
わたしはなるべく急いで朝ごはんを食べると、「部屋で勉強いなきゃいけないから」と言ってリビングを出た。
両親が仕事が休みの週末は、できるだけふたりとゆっくり話したいけど……。
わたし(と、由井くん)がリビングにいると、クレイが怒ってくるから、早く部屋に戻るより仕方がない。由井くんのことで、クレイに過度なストレスを与えるとかわいそうだ。
部屋に戻ると、わたしは少しスマホを触って、それから学校の数学の問題集を開いた。
週明けに課題の提出があるから、勉強をしないといけないというのはウソじゃないのだ。
「衣奈ちゃん、勉強するの?」
マジメに机に向かうわたしに、由井くんが横から話しかけてくる。
「うん、来週提出だから」
机の引き出しからシャーペンを出して問題を解き始めると、由井くんがわたしの斜め上からその様子をじっと見てきた。
ユーレイになる前の由井くんが高校何年生だったのかはわからないけど……。由井くんは、わたしが勉強をしていると、いつも手元を興味深そうに覗き込んでくる。
学校に行っているときも、わたしの横で真剣に授業を聞いていることが多くて。授業中にたまに居眠りしちゃうわたしよりも、よっぽどマジメだ。
頭がいい青南学院に通っていたから、勉強は好きなのかもしれない。
由井くんに見られながら数学の問題を解いていると、三問目の応用問題で解き方がわからなくなって手が止まった。
「由井くんって、数学得意?」
自分の名前も覚えていないくらいだから、きっと高校で習ったことも忘れちゃってるんだろうな。
あまり期待せずに訊ねたら、由井くんが「よく覚えてないけど……」と首をかしげて。
「理系科目のほうが好きだったような気がする……」
なんて言い出した。
「え、そうなんだ。じゃあ、この問題わかる?」
「どれ?」
途中で詰まってしまった応用問題を指差すと、由井くんがわたしの横から顔を近付けてくる。
シャーペンを手に持つことができない由井くんが考えるのは、頭の中でのみ。手をつかわずに数学の問題を解くって難しそうだけど、問題を見つめる彼のまなざしは真剣だった。
数学、好きなのかな。だとしたら、好きなことをきっかけになにか思い出したりしないかな。
数学の問題を解いて由井くんがなにかを思い出したら、わたしの課題が片付くし、一石二鳥だ。
期待しながら待っていると、由井くんが「あ、そっか」とつぶやいて、わたしのほうを振り向いた。
「わかったよ、解き方」
嬉しそうににこっと笑いかけられて、一瞬、ドキリとする。
「あ、うん。教えて」
急にすごく笑うから、ビックリした。ドキドキと鳴る胸を押さえつつ、由井くんの解説を聞くために居住まいをただす。
「あ、衣奈ちゃん、シャーペン持って。おれ、書いて説明ができないから。おれが言うとおりに書きながらやってみてね」
「わかった」
「えーっとね、まず……」
そこからの由井くんの説明は、すごくわかりやすかった。
途中で手が止まってしまった応用問題はあっという間に解けてしまったし、そのほかの問題も由井くんにヒントをもらうと簡単に解けてしまう。
「うわー、数学の課題がこんなに早く終わったの初めてかも。ありがとう」
「衣奈ちゃんの役に立ててよかった」
わたしが笑顔でお礼を言うと、由井くんがちょっと照れたように、ふふっと笑う。
「理系が得意っていうのはほんとだね。由井くんの説明、すごくわかりやすかったよ。ほかに、なにか思い出したこととかある?」
褒めついでに聞いてみると、由井くんは首をかしげながら「うーん」とうなった。
その様子だと、特に思い出したことはないみたい。
「でも、高一の数学の問題がスラスラ解けたってことは、由井くんはもうこの単元は勉強済みだったってことだよね。てことは、由井くんの学年は高二か高三? あ、でも……。青南学院は進学校だから、授業の進み方が早いのかな。だとしたら、高一の可能性も捨てきれないよね」
わたしの数学の課題は早く終わったけど、由井くんのことを探る手がかりは、結局なにも得られていない。
由井くんにユーレイになる前のことを思い出してもらって、わたしから離れてもらうには、いったいどうしたらいいんだろう……。
「うーん……」
腕を組んで悩んでいると、「衣奈ー」とお母さんに呼ばれた。
「なあに〜?」
部屋のドアを開けて階段の上から返事をすると、リビングから廊下に出てきたお母さんがわたしを見上げた。