「衣奈ちゃん、やっと会えた!」
学校からの帰り道。
いつも利用している高校の最寄り駅の改札を抜けてホームに入ったわたしは、こちらに向かってにこにこと笑いなら手を振ってくる人物の姿に驚いて目を丸くした。
電車の3両目の乗り場あたり。そこに立っているのは、黒髪で目元の涼やかなイケメンだ。
そのイケメンがとても親し気に、なれなれしく、そして嬉しそうに。「衣奈ちゃん」とわたしの名前を呼んで、大きく手を振ってくる。
遠目からでもわかるくらいに爽やかでキラキラした彼の笑顔を凝視しながら、わたしは果たして手を振り返していいものかどうか、一瞬悩んだ。
黒のブレザーにグレーのズボン。細いゴールドの斜めストライプが入った紺のネクタイ。
彼が軽く着崩しているその制服が、この駅で別の路線に乗り継いで何駅か先にある私立進学校・青南学院のものだということは一目でわかるのだが……。
わたしの記憶の限りでは、青南学院の生徒だったイケメンの知り合いなんていない。
どうしてそんな言い方をするのかと言うと……。
駅のホームでにこにこと手を振っている彼の様子が、どう見てもあきらかにおかしいから。
学校帰りなのにカバンを持ってないってところも変だけど、それ以上におかしいのは彼の身体だ。
さっきから、ホームを歩く人たちがみんな、3両目の乗り場の前に立っている彼の身体をどんどんと通過していっている。
どうやら、わたし以外の人には彼の姿が見えていないし、声も聞こえていないようなのだ。
何あれ。どういうこと……?
もしかして、なにか見てはいけないものが視えているんじゃ……。
わたしは青南学院の制服を着たイケメンから目をそらすと、1両目の乗り場のほうに速足で歩いた。
ほんとうは地元の駅で降りるときに3両目に乗っておくと改札が一番近いのだけど、背に腹は代えられない。
「待って、衣奈ちゃん! 行かないで!」
イケメンが必死な声で呼びとめてきたけど、わたしは全力で聞こえていないフリをした。
ホームに入ってきた電車に乗り込むときにチラリと見たら、彼は三両目の乗り場の前で立ち止まったままでいた。
どうやら、こっちまで追いかけてくるつもりはないらしい。
それにしても、どうしてあの人はわたしの名前を呼んだんだろう。
疑問に思ったけれど、その理由をあまり深く考えたくはなかった。
だってたぶんあの人は、《視えてはいけないもの》だから。
なるべく早く忘れてしまおう。
わたしはため息を吐くと、空いていた座席を見つけて腰をおろした。
次の日の朝。
いつものように地元の駅から3両目の車両に乗り込んで、高校の最寄り駅で降りたわたしは、目の前に現れた人の姿に心臓が止まりそうなほど驚いた。
「おはよう、衣奈ちゃん」
駅のホームの3両目の乗り場の前。そこに立っているのは、昨日の放課後に見かけた青南学院の制服を着たイケメン男子高校生。
笑顔でわたしに手を振ってくる彼の身体を、わたしのあとから電車を降りてくる人たちがあたりまえみたいにどんどんすり抜けていく。
電車を降りたすぐの場所で思わず足を止めてしまったわたしは、後ろから降りてくる人たちに押されたりぶつかられたり。邪魔者扱いされて舌打ちされたりしているのに、同じように3両目の乗り場の前に立っているイケメン男子高生は、誰からも邪魔者扱いされていない。
その理由はおそらく……、わたし以外の誰にも彼の姿が視えていないから。
昨日の放課後の時点でうすうす気が付いていたけれど、この人はたぶんユーレイ的ななにかだ。
そうじゃないと、彼の姿や声を誰も認知している様子がないことや、通行人が彼の身体を突き抜けて進んで行くこと、彼が昨日と全く同じ姿で同じ場所に立ち続けていることに説明がつかない。
でも、どうしてわたしだけに彼の姿が視えているの……?
わたしは人になつかれやすいタイプではあるけれど、特別霊感が強いタイプじゃない。だから、この不思議な状況が少し怖かった。
「今日も衣奈ちゃんに会えてよかった」
血の気が引いて冷たくなった指先を手のひらにぎゅっと握り込むと、やたらと色白な彼がわたしに向かって嬉しそうに微笑みかけてくる。
その笑顔も口ぶりも、まるでわたしのことをよく知っているみたいだ。わたしは彼の姿に全く見覚えがないのに。
どこかで会ったことがある人……?
それともわたし、知らないあいだに彼から恨みでも買ったの……?
「衣奈ちゃん、あのさ」
必死に考えていると、目の前の彼がなにか言いたげにわたしのほうに手を伸ばしてくる。
え、なに……。どうしよう。
ビクッとして思わず一歩後ずさると、後ろから電車を降りてきていたサラリーマンに背中がぶつかった。
「おい……」
20代後半くらいの男性に不機嫌そうな顔でじろりと睨まれて、またビクッとなる。
「すみません……」
目の前には得体の知れない男子高校生の、たぶんユーレイ。後ろには、怒った生身のおとなの人。
その両方に前後を塞がれて泣きそうになっていると、「衣奈」と誰かが横からわたしの腕をつかんで引っ張った。
「すみません、こいつ俺のツレなんです」
そう言ってサラリーマンに頭を下げて、わたしをその場から引きずりだしてくれたのは、幼なじみの矢本秋成だった。
「アキちゃん……」
同じ高校に通っている小学校のときからの幼なじみ。アキちゃんの出現に、緊張が解ける。
「変な場所で立ち止まってたらダメじゃん」
「ごめん、助けてくれてありがとう」
「おう、気を付けろよ」
アキちゃんが、わたしの肩をぽんと叩きながらにっこりと笑いかけてくる。そんなやりとりの間に、サラリーマンの男性はいなくなっていた。
だけど、横顔になにか別の視線を感じる。
ふと見ると、3両目の車両の乗り場の前に立ちすくむイケメン男子高生のユーレイが、ものすごく怖い顔でわたしたちを——というよりは、アキちゃんのことを凝視していた。
「衣奈ちゃん、それ、誰?」
3両目の乗り場からは少し離れたところにいるのに、怨念のこもったみたいな彼の低い声がわたしの耳に響いてくる。
その声はやっぱりわたしにだけ聞こえているらしく、アキちゃんはまったく気付いていないみたいだ。
わたしはともかく、アキちゃんが変なユーレイに取り憑かれてしまっては困る。
「アキちゃん、急ごう」
わたしはアキちゃんの肩を押すと、怖い顔でこちらを見つめてくる男子高校生のユーレイから遠ざけた。
3両目の乗り場の前に立っている彼は、昨日と同様そこから動けないらしく。わたし達のことを怖い顔で睨んでくるものの、追ってはこない。
あそこから動けないってことは……。自縛霊とか、そういうやつなのかもしれない。
「どうか、放課後までには成仏していてください……」
駅の改札を出たあと小声でぶつぶつ祈っていると、アキちゃんがわたしのことを変な目で見てきた。
「どうした、衣奈? なんか疲れてる?」
「ぜんっぜん! 元気だよ」
「それならいいけど。衣奈は基本的に真面目でしっかりしてるけど、たまにさっきみたいに抜けてるときあるから心配だわ」
アキちゃんが眉をハの字に下げて笑いながら、わたしの頭に手をのせる。
手のひらの大きなアキちゃんに、頭をつかまれるようにぐしゃぐしゃと撫でられて、ドキドキと、朝から心音が速くなった。
アキちゃんがこんなふうにわたしの頭を撫でるのは、小学生のときからやってるクセみたいなもの。
わたしはアキちゃんに触られるとドキドキしてしまうけど、アキちゃんのほうは、なんとも思っていないからこそ気安くわたしに触る。
「じゃあ、俺行くな」
乱された髪を手櫛で整えていると、アキちゃんがそう言って笑う。
わたしに手を振るアキちゃんの身体は、既に駅の改札の向かいにあるコンビニのほうに向いていて。その入り口の前で、里桜先輩が待っている。
里桜先輩は、わたし達のひとつ上の高校二年生。
アキちゃんが入っているサッカー部のマネージャーで、アキちゃんのカノジョ。
長く伸ばした髪はサラサラで、少し下がった目元がいつも笑っているように見える、癒し系の美人だ。
高校生になってサッカー部に入ったときから、アキちゃんはずっと里桜先輩に片想いをしていて。夏休み前に思いきってアキちゃんのほうから告白したら、里桜先輩からオッケーの返事をもらえたらしい。
憧れの里桜先輩と付き合えることになったアキちゃんは、かなり浮かれていて。
夏休み中は、「デートはどこに誘えばいいと思う?」とか「昼メシ食べるならどんな店が喜ばれるかな?」とか。
相談のラインが毎日のように送られてきた。
そんなアキちゃんからのラインに面倒くさいが半分、複雑な気持ちが半分でせっせと返信しているうちに、気付いてしまった。
アキちゃんと里桜先輩との関係がうまくいけばいくほど、胸が痛くなって、ドス黒い感情がちょっとずつ心に溜まっていくことに。
わたしは、アキちゃんのことが好きなのかもしれない……。
小学生の頃からの幼なじみに恋人ができた。そんな間の悪いタイミングで、わたしはアキちゃんへの恋心を自覚してしまったのだ。
少し先のコンビニの前では、里桜先輩の隣に立ったアキちゃんが、なんとも締まりのない顔でデレデレ笑っている。
好きな人のそんな顔を目の当たりにして、胸が苦しくなるとか、嫉妬でおかしくなるとか、そこまでではないけど……。
憂鬱にはなる。ため息が出る。
あー、やっぱり。
さっきはわたしのピンチを救ってくれたけど、アキちゃんの好きな人は里桜先輩なんだよな。
はぁー、っと盛大なため息をついてアキちゃんと里桜先輩から顔をそむける。
駅からの通学路を学校に向かってひとりで歩き始めたとき、「衣奈ー」と後ろから声をかけられた。
立ち止まって振り向くと、同じクラスの松川瑞穂が走ってきて隣に並ぶ。
「おはよう、衣奈」
「おはよ……」
ボソリと挨拶を返すと、瑞穂がバッチリとアイメイクした大きな目を瞬かせた。