「みたいだね、って。名前を見てもピンとこない?」
「まったく。衣奈ちゃんは?」
訊ね返されて、少し困る。
「わたしに聞かないでよ。そもそもわたしは、あなたに見覚えすらないんだから」
「由井って名前にも?」
「ないよ。わたしには青南学院の知り合いはいないし、由井くんなんていう知り合いもいない」
そう答えながら、自分の言葉に少し違和感がした。
由井くんなんて人は知らないはずなのに、なにかが妙に引っかかるのだ。でも、それがなんなのかは考えてみてもわからない。
「衣奈ちゃん、どうかした?」
黙り込んだわたしを、由井くんが不思議そうに見てくる。そんな彼に、わたしは「別に」と答えて首を横に振った。
なにかが引っかかるような気がするけれど、考えても思い出せないってことは、大して重要なことではないんだろう。
それよりも……。
自分の名前がわかっても何も思い出す様子がない由井くんを、どうするかだ。
手っ取り早く、霊媒師に頼んで祓ってもらう……?
でもそういうのって、すごくお金がかかりそう。
そうなったら、お父さんやお母さんにも説明が必要になってくるし。
とりあえず、話し合いで、わたしから離れていってもらうしかない。
わたしのことしか思い出せなくてわたしに執着してるなら、彼が他に執着できるものを探るしかない。
でも、名前と通っていた学校しか手がかりのない状態から、どうやって探ればいいだろう。
うーん、と考え込んでいるうちに、ふと、幼なじみのアキちゃんのことを思い出す。
そういえば、アキちゃんの中学時代の友達に、青南学院を受験した子がいたはず……。そこから、何か手がかりが得られないかな……。
「衣奈ちゃん?」
黙り込んで考えていると、由井くんがわたしの顔を覗き込んでくる。
「ああ、ごめん。ちょっといろいろ考えてて」
「いろいろ?」
「うん。あなたにわたしから離れてもらうためにはどうすればいいか、とか」
「やっぱり、おれ、衣奈ちゃんから離れなきゃダメ……?」
「ダメだよ。さっきのクレイの反応覚えてるでしょ。あなたが憑いてる限り、わたしはあの子に嫌われたままなんだよ」
きっぱりとそう言うと、由井くんがしょんぼりと悲しそうな顔をする。
そんな顔を見せられたら、ちょっと可哀想な気持ちになるけど……。
わたしだって、クレイに嫌われたままなのは悲しいんだ。
「大丈夫。今はわたしのことしか思い出せないから不安なだけで、他になにかもっと大事なことを思い出したら、わたしから離れられるよ」
「そうかな……。衣奈ちゃんより大事なことなんてないと思うけど……」
ボソリとつぶやく由井くんの表情は暗い。
「そんなことないよ。今は忘れてるかもしれないけど、家族とか、友達とか、あなたがわたしよりも大事に思ってた人が必ずいるはずだよ」
だってわたしは、由井くんと知り合いでもなんでもないはずなんだもん。
「そうかな……」
「そうだよ。あなたがどこの誰だったのか、わたしも一緒に手がかりを探るから」
疑心暗鬼な目をする由井くんを、明るい声で励ます。
「とりあえず……、あなたのことは由井くんって呼んでいいよね?」
本人はいまいちピンときていないらしい名前を呼ぶと、由井くんが困った顔で頷いた。
枕元で、ピピピピッとスマホのアラームが鳴る。
最近は朝が寒くなってきて布団から出るのがつらいけど……。そろそろ起きなくちゃ。
うちの両親は、わたし達が学校に行くよりも早く仕事に出かける。だから、妹の咲奈と弟の拓を起こして朝ごはんを食べさせるのは、昔からわたしの役目なのだ。
布団の中で伸びをして、ゆっくりと目を開いた……、その瞬間。
「ぎ、ぎゃあーっ!」
わたしは思わず悲鳴をあげた。目を覚ましたわたしの隣に、制服姿の男の子が寝ていたからだ。
寝起きで死ぬほどびっくりしたけれど、良く見れば、その男の子は、昨日の放課後からわたしに憑いてきている由井くんだ。
昨日の夜。「ユーレイはどうやって寝るのか」と聞いたとき、由井くんは「眠たくないから平気」とか言っていて。
ユーレイって眠らないものなんだなと感心したのだけど、そういうわけでもないらしい。
由井くんは、人のベッドで身体を丸めてガッツリと寝ている。
「ちょっと、由井くん。起きてよ」
すやすや寝ている由井くんを起こそうと、肩に手を伸ばす。けれど、わたしの手は、実体を持たない彼の身体をするりと通り抜けてしまった。
ああ、そうか。触れないんだよね……。
目の前に見えてはいるけど、なんの感触もない。
そのことがひどく不思議で、わたしは眠っているから由井くんを見つめながら、何度も手のひらを閉じたり開いたりした。
そうしているうちに、「うーん」と小さな唸り声が聞こえてきて、由井くんが目を覚ます。
「衣奈ちゃん、おはよう」
わたしがそばにいることに気付くと、由井くんが、ふにゃりと幸せそうに寝起きの笑顔をみせた。
昨日出会ったばかりなのに、わたしに完全に気を許しているような由井くんの笑顔に、ほんの少しドキッとする。
わたしは由井くんに離れてもらいたいって思ってるのに。あんまり信用されたりなつかれたりするのは困るんだけどな……。
「おはよう。眠たくないって言ってたのに、結局寝たんだね」
「うん。昨日の夜は眠れそうになかったから、しばらくずっと衣奈ちゃんの寝顔見てたんだけど……。気づいたら、一緒に寝ちゃってたみたい」
「やめてよ。勝手に寝顔見るとか……」
「え〜、でも……、眠ってる衣奈ちゃんもかわいかったよ」
にこっと笑いかけてくる由井くんの表情は爽やかだけど、夜中にずっとわたしの寝顔を見てたとか、眠ってるのがかわいかったとか……。
彼の口から飛び出す発言は、ちょいちょい変態っぽい。
「とにかく、勝手に寝顔見るのはやめて。あと、勝手にわたしのベッドで寝ないで」
「え、なんで……」
「だって、目覚めたときにびっくりするし」
お互いに触ることも触られることもできないから、寝てる間に何かされる心配はないけど……。
「由井くんと同じベッドで寝るのは、なんかやだ」
そう言うと、由井くんの顔が、あからさまにガーンッとショックを受けたような顔になる。
「衣奈ちゃんにやだって言われた……。衣奈ちゃんに嫌われたら、おれ、これからどうすれば……」
由井くんが、ズーンと肩を落としてブツブツとつぶやく。
由井くんの背中からは、ゆらりと暗いオーラが漂い始めていて。なんだか関わると、面倒臭そうだ。
出会ったときからそうだけど、由井くんは何も覚えてないくせに、わたしに対する執着だけはやたらと強い。
ユーレイになる前の由井くんとわたしに、いったいどういう関係があったっていうんだろう……。
わたしは首をひねりながら静かにベッドを降りると、由井くんからそーっと離れて部屋を出た。
リビングに降りると、すでに制服姿の咲奈がダイニングに座っていて。両手で持った大きめなスープカップのフチに、ふーふーと息を吹きかけていた。
朝食用にレトルトのコーンスープを温めたらしい。ほんのりと甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
その匂いに誘われて、わたしもコーンスープが飲みたくなった。
「おはよう」
キッチンに行く前に咲奈に声をかけると、「おはよ〜」と、まだ半分寝起きの声が返ってくる。
「今日は早いじゃん」
「うん……。英語の小テストで五回連続合格点切っちゃったから、朝のホームルーム前に再テストなんだよ……」
「え〜、それ、大丈夫? 来年はもう受験生なのに……」
すでに仕事で出かけているお母さんに代わって小言をいうと、咲奈がコーンスープをふーふーと冷ましながら、「へーき、へーき」と適当に返してくる。
それから、ふとなにか思い出したようにわたしを見てきた。
「そういえばお姉ちゃん、さっき大声で叫んでたけどどうしたの? 朝から部屋にGでも出た?」
咲奈が、朝からは絶対に出会いたくない虫のイニシャルを口にする。
部屋に出たのは虫じゃなくてユーレイなんだけど。目覚めたらユーレイが隣に寝てたとは言えないので、笑ってごまかす。
「夢見て寝ぼけただけだよ」
「朝から絶叫するって、いったいどんな夢見てたの? お姉ちゃん」
「さあ、目覚めた瞬間忘れた」
会話しながら、冷蔵庫に入れてあるパックのコーンスープを取り出して、カップに注いで電子レンジで温める。
熱々になったカップを電子レンジから取り出すと、わたしは咲奈と向かい合うように座った。
スープにたつ湯気にふーっと息を吹きかけながらカップに口をつけたとき、トントンッと階段を駆け降りてくる音がして、弟の拓がリビングに入ってきた。
「おはよう」
いつもわたしが揺り起こすまで寝ている拓が、今朝はもう着替えまで済ませている。
「おはよう、拓。今日はひとりで起きれたんだ?」
声をかけると、拓がわたしを見て顔をしかめた。
「そりゃ、起きるよ。だって、衣奈姉、隣の部屋ですげー叫ぶんだもん。朝からあんなうるさくされたら、嫌でも目ぇ覚める」
拓が生意気にそう言って、キッチンに入っていく。
「朝ごはん、どうする? トーストと卵焼く?」
冷蔵庫から牛乳を出して飲んでいる拓に聞くと、「じゃあ、目玉焼き。半熟で」と返ってくる。
「咲奈は?」
「あたしは、もうすぐ出かけるからスープだけでいい」
「はい、はーい」
わたしはカップのスープを半分ほど飲むと、拓と自分の分の朝食を作るために立ち上がった。
キッチンに向かおうとするわたしの元に、ソファーのそばで丸まっていたクレイがゆっくりと歩み寄ってくる。
昨日、由井くんがそばにいるときは、クレイにめちゃくちゃ警戒されていたけど、今は大丈夫みたい。
由井くんが視界に入る場所にいなければ、クレイはいつもどおりにわたしになついてくれるみたいだ。よかった。