だけど、だけど……。惑わされちゃいけない。
だってわたし、もう二回も、彼の眼力による金縛りにあっている。
イケメンユーレイを精一杯、ギリリと睨め付けると、彼がますます困ったように眉尻を下げた。
「おれ、もしかして衣奈ちゃんに嫌われてる?」
彼が少し首を傾げながら、不安そうな声で訊ねてくる。
どうして彼がわたしの名前を知ってて、しつこく憑けてくるのかはわからないけど……。
こっちは彼のことを全く存じ上げないし。その時点で、嫌いとか、好きとかの次元じゃない。
わたしに縋りついてくるような上目遣いを見れば、ちょっとかわいそうかな……、なんて思うけど。
でも、ここで情けをかけてしまっては終わる気がする。
「悪いけど、他を当たってください」
小声で。だけど、頭を下げて丁重にお断りをしてから離れようとすると、イケメンユーレイもわたしについてくる。
「こ、来ないでください……!」
吊り革を持って立っている乗客たちの合間を縫って、早く隣の車両へ……と思いながら逃げる。
途中でいろんな人にスクールバッグがぶつかって嫌な顔をされたけど、そんなの構ってられない。
人波を掻き分けて、やっと隣の車両へ通じるドアを引き上げようとしたとき。
「お願い、待って」
イケメンユーレイが、スーッとやってきてドアの前で通せんぼした。
「お願い、逃げないで」
「嫌です、ムリです……!」
首を横に振って強く拒絶すると、イケメンユーレイがショックを受けたように、ズーンと肩を落としてうなだれた。
「おれ、衣奈ちゃんに嫌われてるんだ……」
ブツブツとつぶやくイケメンユーレイから、今度はただならぬ気配の負のオーラが漂い始める。気のせいかもしれないけど、周囲の温度が少し下がったような気がする。
ぷるっと震えると、イケメンユーレイが右手の親指の爪をガリッと噛みながら、虚ろな瞳でわたしを見てきた。
「どうしたらいいんだろう……。おれにはもう、衣奈ちゃんしかいないのに……」
暗い表情を浮かべてぼそぼそとつぶやく彼は、情緒不安定になっている様子だ。
白く青ざめた綺麗な顔には悲壮感か漂っていて、今にも倒れてしまいそう……。(ユーレイだから、倒れるも何もないのか……)
正体不明のユーレイなんかに、絶対情けをかけちゃだめ。
それはちゃんとわかっているのに、わたしのおせっかいな部分が、やっぱりちょっとかわいそう……? なんて思ってしまう。
「あ、の……。そもそも、どうしてわたしに話しかけてきたんですか……?」
警戒しながら、恐る恐る声をかけると、イケメンユーレイがゆっくりと視線をあげた。
奥二重の切長の目が、わたしのことをじっと見つめる。憂いを帯びたまなざしに、思わずドキリと胸が鳴る。その瞬間、彼が言った。
「だって、おれ、衣奈ちゃんのことが好きってことしか覚えてないから」
彼が発した言葉が、頭の中でうまく理解できないままに流れていく。
「え、今、なんて?」
思わず聞き返すと、イケメンユーレイが「だから……」と、ちょっと恥ずかしそうに眉根を寄せた。
「おれ、衣奈ちゃんが好きってこと以外、何も覚えてないんだ」
聞き直しても、返ってきた答えは変わらない。
え、ちょっと待って。
わたしを好きってことしか覚えてないって、どういう意味……?
わたしはこの人のこと、1ミリも知らないんだけど。
混乱して額を押さえていると、イケメンユーレイが不安そうな目をしてわたしの顔を覗き込んできた。
びっくりして後ずさると、彼が少し傷付いたような顔をする。
「お願い、怖がらないで。自分でもよくわからないけど、おれ、衣奈ちゃんのことがすっごく好きなんだ。だから、しばらく憑いてっちゃダメ?」
上目遣いにわたしを見つめる彼の目が、同情を誘うように潤む。
しばらく憑いてっちゃダメ?、って。
まさか彼は、わたしがその質問に「いいよ」と笑って答えるとでも思っているのだろうか。
わたしは、どちらかというとおせっかいで面倒見がいいほうだと思う。
だけど、さすがにユーレイは困る……。
ものすごく、困る……。
「ここが衣奈ちゃんち……!」
駅から徒歩十五分の自宅に着くと、イケメンユーレイがボソリとつぶやいた。
ちらりと横目で見ると、彼がウチを見上げながら、両手を合わせて目を輝かせている。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
わたしは、電車を降りてから家に着くまでの彼とのやりとりを思い出して、深いため息をこぼした。
電車の中で『憑いてっちゃダメ?』と訊かれたとき、わたしは「困ります」と、彼のことをきっぱりと拒否したはずだ。
それなのに――。
わたしが地元の駅で電車を降りると、なぜか彼もついてきた。
駅前のスーパーで夕飯の材料と明日の朝ごはんの材料を買っているときも、買い物を済ませてスーパーを出たあとも、彼はわたしを追いかけてきて……。
「どこまでついてくるの? わたし、困りますって言ったよね?」
たまりかねて訊ねると、イケメンユーレイが申し訳なさそうに目を伏せた。
「わかってるんだけど……。どうやって衣奈ちゃんから離れたらいいかわからなくて……」
「え……?」
彼曰く、
「おれ、どれだけ頑張って動こうとしても駅のホームのあの乗り場から全然動けなかったんだ。でも、衣奈ちゃんがおれから逃げようとしたとき『離れたくない!』って強く思って……。そうしたら、衣奈ちゃんについて電車に乗れたんだ。でも、衣奈ちゃんに憑いてきたら困るって言うから離れようとしたんだけど……。あのホームの乗り場から離れられなかったみたいに、今度は衣奈ちゃんの近くから離れられなくなっちゃったみたい」
とのことらしい。
わたしから離れられなくなっちゃった、って。本格的にヤバいじゃん。
そう思ったわたしは、彼を撒くためにダッシュで逃げた。
だけど、どれだけ逃げても、彼はわたしの後ろをぴったり憑いてくる。
最初は彼が自分の意志でつけてきているのかと思ったけれど、そうではなくて。彼自身もよくわからない引力みたいなものに引き寄せられていて、わたしから離れられないらしい。
結局、家に着くまでにイケメンユーレイを撒くことはできず……。
不本意にも、彼を家まで連れてくることになってしまった。
玄関のドアを開けて家の中に入ると、イケメンユーレイも「お邪魔しまーす」と嬉しそうについてくる。
お邪魔していいなんて言った覚えはないんだけど……。
駅から家までの追いかけっこでわたしの体力は底をついていて、もはやつっこむ気力もない。
「あ、お姉ちゃん。おかえり〜」
ぐったりとしながらリビングのドアを開けると、妹の咲奈がお茶の入ったコップを片手に振り返る。
「た、ただいま……。帰ってたんだ」
妹の咲奈はわたしも通っていた地元の中学の二年生だ。
いつもなら、部活に出て帰宅は18時半過ぎになるのに。男子高校生のユーレイを連れ帰ってしまった今日に限って、咲奈が早く帰宅していることに焦る。
今のところ、彼の姿はわたしにしか視えていないみたいだけど、咲奈はどうだろう。
もしも万が一視えてしまったら、きっと怖がらせてしまう。
わたしの斜め後ろに浮かんでいるイケメンユーレイを咲奈から隠すため、横歩きで二歩移動する。
だけど、空気の読めない彼は「あの子、衣奈ちゃんの妹?」と、わたしの肩越しにひょいっと顔を出してきた。
どうして、このタイミングで話しかけてくるのよ……!
無言で横目に彼を睨むと、咲奈が不審気にわたしを見てきた。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
わたしの横から男子高校生のユーレイが顔を覗かせているのに何の反応も示さないってことは……。どうやら咲奈には、彼の姿が視えていないらしい。
「べつに、どうもしないよ」
わたしが笑って首を横に振ると、咲奈がまだ不審そうな顔で「ふーん?」という。
とりあえず、咲奈を怖がらせずに済んでよかったけど……。わたしは、彼をどうすればいいのだろう。
買い物袋を持ってキッチンに向かうと、シンクの足元に置いてある皿の水を飲んでいたクレイがわたしの気配に気付いて顔をあげた。
クレイは、二年前にわたしが近所の公園で拾ってきた猫だ。たぶん雑種だけど、アッシュブルーの毛と緑がかった瞳の色がなんとなくロシアンブルーっぽい。
「ただいま、クレイ」
クレイは家族の中でもわたしに一番よくなついていて、名前を呼ぶと足に体を擦り寄せてくる。それなのに……。
なぜか今日は、わたしを見るなり背中の毛を逆立てて、「シャーッ」と、威嚇してきた。
「どうしたの、クレイ」
様子のおかしいクレイに近付こうとすると、クレイが数歩後退りして、わたしを見上げて歯を剥いてくる。
「クレイ、どうしたの? お姉ちゃんに威嚇するのなんて初めてじゃない?」
コップをキッチンのシンクに置きにきた咲奈が、毛を逆立てて怒っているクレイを見て目を見開く。
「そうだよね。どうしたんだろう……」
買い物袋を台所の床に置くと、クレイのそばに歩み寄る。そのままちょっと強引に抱き上げようとすると、クレイがわたしの手の甲にガリッと爪をたててきた。
「い、った……」
ビックリして手を引くと、クレイが咲奈の足元へと走って逃げる。
拾ってきたばかりの頃のクレイにはよく引っ掻かれたけど、最近ではこんなふうに爪をたてられることはなかったから、地味にショックだ。
それに、一番懐いているはずのわたしを拒否して咲奈の足元に逃げていってしまったことも……。
引っ掻かれた手の甲を押さえて茫然としていると、咲奈が足元に擦り寄ってきたクレイを抱き上げる。
「クレイ。どうしちゃったのー?」
咲奈に抱かれたクレイは、きゅっと小さく体を丸めて、まだわたしのことを警戒しているふうだった。
「クレイがお姉ちゃんのこと引っ掻くとか、おかしいよね。お姉ちゃん、帰ってくる途中になにか猫の嫌う匂いでもつけてきたんじゃない?」
「猫の嫌う匂い……?」
変な匂いをつけてきてはないと思うけど、今日のわたしは、いつもと違うモノを連れ帰ってきている。
もしかして、クレイはわたしのそばにいるユーレイの存在を感じ取っているのだろうか。