今日も、由井くんに憑けられています……!



「由井くんは、大丈夫。ちゃんと、元の身体に戻れる……!」

 自分にも言い聞かせるみたいにそう言うと、由井くんが困ったように眉尻を下げた。


「衣奈ちゃん……」

「だって、また水族館デートするんだよね。今度は、イルカのショーを見に行くんでしょ」

 ペンギンの水槽の前で、由井くんと交わした約束。それを口にすると、由井くんが表情を歪めた。


「そう、だけど……。でも……」

「今さら、やっぱりなしって言うのはなしだよ。由井くんが先に言い出したことなんだから。ちゃんと約束守ってよ」

 今は、ネガティブな言葉も弱音も聞きなくない。

 わたしは由井くんの言葉をさえぎると、不安そうに揺れる彼の目をまっすぐに見つめた。


「由井くん、言ってたよね。次は、他の人から見ても、わたしとデートしてるってことがちゃんとわかるようにしたいって。わたしだって同じだよ。由井くんとデートしてるってことを、ちゃんと周りの人にもわかってもらいたい。人前でふつうに由井くんと話して、由井くんにちゃんと触れたい」

 人目を気にしてコソコソとしか話せないのも、由井くんが苦しんで震えているときに、ただ見ていることしかできないのも嫌だ。

 もう、あんなにも歯痒くてもどかしい想いをしたくない。


 わたしは一歩前に出ると、輪郭のぼやけ始めた由井くんの頬に右手を伸ばした。

 実際には触れることのできない由井くんの感触を想像して、手のひらを椀状に丸めると、彼に顔を近づける。


「衣奈、ちゃん……」

 戸惑ったように目を見開く由井くんを見上げて、わたしは、ふっ、といたずらに笑った。


「キス、試してみようか?」

 お見舞いに来るたびに、由井くんは『チューされたら目覚めるかも』なんて冗談混じりに言っていた。

 言われる度に恥ずかしかったし、由井くんへの気持ちも曖昧で、そんなのできるわけないって思ってたけど……。

 今、この瞬間、空事でもいいから由井くんに触れたい。


「ちゅーされたら、目覚めるかもしれないんでしょ?」

「え……?」

 うっすらと半開きになった由井くんの唇。わたしはつま先立ちになると、そこに触れるように、唇を合わせた。

 どうか、由井くんが元に戻れますように。

 彼が、無事に目を覚ましますように……。

 願いを込めて、消えかけている由井くんの唇に架空のキスをする。

 しばらくしてからゆっくりと目を開けると、由井くんの身体は、空中で溶けて消えかかっていた。


「ありがとう。衣奈ちゃん、大好き」

 わたしにだけ聞こえる由井くんの声。それが、甘く優しく鼓膜を震わせる。


「わたしも、由井くんが好きだよ……」

 わたしの告白に、由井くんが泣きそうに微笑む。

 わたしに笑顔を残したまま、由井くんの身体は崩れるように輪郭を失い……。それから、空気中に溶けて消えてしまった。
「うー、寒い……」

 下駄箱で靴に履き替えて外に出ると、肌に痛いくらいの冷たい風が正面から吹きつけてきた。

 マフラーでは完全に覆いきれない顔と、スカートからのぞく膝が寒い。

 校庭では、運動部員たちが活動を終えて後片付けを始めている。そのなかにはアキちゃんの姿もある。

 里桜先輩といっしょにボールを片付けているアキちゃんは、楽しそうに笑っている。その様子を見ても、最近のわたしの心はチクリとも痛まない。

 むしろ、仲良さそうなふたりの姿を微笑ましく思いながら、わたしはひとり、駅へと急いだ。

 今日は委員会があって、いつもより帰りが遅くなってしまった。

 買い物に寄っていたらごはんの準備が遅くなりそう。

 念のため、妹の咲奈にラインを入れておく。

 下を向いてスマホを触っていると、ふと、後ろでなにか気配がする。

「由井くん……?」

 ビクッとして振り向いたけど、そこに彼がいるはずもない。ただ、枯れ葉が風に流されてきただけだった。
 由井くんがわたしの前から姿を消して、そろそろ二ヶ月が経つ。

 それなのに、未だに背後で空気が揺れる気配に敏感に反応してしまう自分に、苦笑いがこぼれてしまう。


 由井くんの本体が入院していた病室からいなくなり、ユーレイ状態だった由井くんも消えてしまった翌日。

 わたしは学校帰りに由井原総合病院を訪れた。

 だけど、受付で面会を断られてしまって……。仕方なく帰宅した。

 次の日も、その次の日も病院に行ったけど、由井くんには会えなかった。

 由井くんが姿を消して二週間が過ぎた頃、いつものように病院に行って面会の希望を伝えると、「由井さんは転院されました」と受付の人に言われた。

 ここは由井くんのお父さんが経営する病院なのに。そこから転院するなんて、なにがあったんだろう……。

 不安に駆られて、アキちゃん経由で大野くんに連絡をとってもらったけど、由井くんに関する情報はなにも得られなかった。
 高校の最寄り駅で青南学院の制服を着た男子生徒見かけるたび、もしかしたら……、と振り返るけど、それが由井くんであったことは一度もない。

 ユーレイ状態の由井くんはなにも覚えていなかったし、もちろんスマホなんて持っていなかったから、連絡先もわからない。


 由井くんは、今どこにいるんだろう。

 ユーレイ状態だった由井くんの身体は、元に戻れただろうか。

 無事に目を覚ましているだろうか。

 目を覚ましているといたら、どうして二ヶ月も音沙汰がないんだろう。

 元の身体に戻れたら、水族館デートしようって約束したのに……。

 約束も、わたしのことも、もう忘れちゃったのかな……。

 吐いたため息が、真っ白な細い線になって風に流れる。

 マフラーに顔を埋めながら目線だけあげる。駅は、もうすぐそこだ。

 カバンからIC定期を取り出すと、改札を抜けて駅のホームに入る。
 今日の夕飯はなににしようかな。

 帰りが遅くなっちゃったし、寒いし。お鍋の材料でも買って帰ろうか……。

 何鍋がいいかな……。水炊き? ちゃんこ? 豆乳?

 咲奈や拓の顔を思い浮かべながら考えていた、そのとき。


「衣奈ちゃん、やっと会えた!」

 ふいに、聞き覚えのある声がした。

 ドキッとして顔をあげると、ホームの3両目の乗り場の前に黒髪で目元の涼やかなイケメンが立っていて。

 その人がとても親し気に、なれなれしく、そして嬉しそうに、「衣奈ちゃん」とわたしの名前を呼んで大きく手を振ってくる。

 黒のブレザーにグレーのズボン。細いゴールドの斜めストライプが入った紺のネクタイ。彼が軽く着崩しているその制服は青南学院のもので。

 遠目からでもわかるくらいにキラキラした彼の笑顔を認めたわたしの視界が、涙の膜でぼやけた。

 笑いかけてくる彼に手を振り返すことも忘れてたたずんでいると、彼がわたしのほうに向かって駆けてくる。

 その途中で、反対方向から歩いてくる人を避けきれずにちょっとぶつかって、彼が「すみません……」と頭を下げる。

 そんなあたりまえのことが嬉しくて、ツンと痛くなる鼻をマフラーの上から手で押さえた。

「会えてよかった。衣奈ちゃん、なかなか帰ってこないから、今日はもう会えないかなって思ってた」

 わたしの前に立った彼が、今にも溶けてしまうんじゃないかと思うほど嬉しそうに、ふわっと笑う。

 その笑顔が透明にぼやけて見えるのは、堪えようとしても溢れてくる涙のせいだ。

「もっと早く衣奈ちゃんに会いに来たかったんだけど……、時間がかかっちゃった。おれの目が覚めたあと、中条の親とか学校の先生とか、謝罪や面会したいって人たちがバタバタ病院に来たみたいで……。兄ちゃんが全部面会謝絶にして、しばらく父さんの知り合いのツテだっていう別の病院に転院させられてたんだ」

 そう、だったんだ……。

 彼の説明に、なにか言葉を返したいけど、胸がいっぱいで小さく頷くことしかできない。
「目覚めたあとは、別にどこも悪いところもなかったんだけど……。親っていうか、特に兄ちゃんががめちゃくちゃ心配してて……。念のためだって、いろいろ検査受けさせされたり、しばらく安静にしろって自宅療養させられたりで……。やっと一週間前から学校に行かせてもらえるようになったんだ。だけど、当分は、兄ちゃんが車で送り迎えするって聞かなくて……。全然ひとりで出歩けないんだ。放課後も校門前で兄ちゃんに待ち伏せされてるから、今日は昼休みのあとにこっそり早退して、ずっとここで衣奈ちゃんのこと待ってたんだよ」

 長かったこの二ヶ月間についての説明をしたあと、彼がにこっと笑いかけてくる。

 わたしが無言のまま、また、なんの反応もできずにいると、彼が不安そうに眉尻をさげた。

「ご、めん。いきなり。あれから、ずいぶん日にちが過ぎてるもんね。衣奈ちゃん、もう、おれのこととか覚えてない……?」

 彼の瞳が、哀しそうに揺れる。

「……、そ、んなわけないでしょ」

 ボソリと低い声でつぶやくと、彼が今度は不安そうに、わたしの顔を上目遣いに覗き込んでくる。