「おれ、だめだった……」
「え?」
「衣奈ちゃんに釣り合うようになるために、見た目変えなきゃって頑張って……。でも、見た目変えたって中身はそのままで……。中条たちには逆らえなくて……。逃げるしかできなくて……。その途中に――」
震えながら話す由井くんが、なんのことを言っているのかわからない。
けれど、ぼそり、ぼそりと語られる言葉を聞いているうちに、由井くんがなにかを思い出しかけているのかもしれないと気付いた。
今までどんなことをしても、なにも思い出せなかったのに。どうして急に……。
もしかして、わたしを助けるために力を使ったから……?
その可能性を考えて、サーッと血の気が引いた。
わたしのせいで、由井くんの記憶がおかしなふうに戻っているんだとしたらどうしよう……。
記憶喪失だった人がなにかを思い出すときって、こんなに苦しそうになるの……?
知識がなさすぎて、わからない。
「由井くん、大丈夫だよ。ゆっくり呼吸して……」
由井くんを落ち着かせようと、耳元で声をかける。
だけど、苦しそうに息を吐く由井くんに、わたしの声が届いているのかはわからなかった。
「由井くん、大丈夫……?」
今すぐ震える由井くんの手に触れて、できればきつく握りしめたい。それなのに、どうやっても触れられないことを歯痒く思う。
駅のホームで中条瑛士たちに会ったときも、アキちゃんから話を聞かされたときもそうだった。
こんなに近くにいるのに。わたしだけが、うずくまって震える由井くんの姿が視えているのに。
なにもしてあげられない――。
「由井くん……」
どれだけ名前を呼んでも、由井くんの震えは治らない。
「由井くん、由井くん……。わたし、どうしたらいい……?」
泣きそうになりながら呼びかけていると、由井くんがゆっくりと顔をあげた。
「衣奈ちゃん――」
由井くんの唇が、わたしになにか伝えようと震える。だけど、その声はわたしの耳に届かない。
「由井くん、なに……?」
由井くんの口元に耳をよせる。
「衣奈ちゃ……、た……、けて――」
途切れ途切れに聞こえてくる由井くんの声。
「由井くん、でも、わたし――、どうすれば……」
助けを求める由井くんを泣きそうに見つめたその瞬間、由井くんの身体が目の前でぐにゃりと歪んだ。
「え……」
驚いて、息を飲み込む。
そんなわたしの目の前で、まるで煙のように、由井くんが消えた――。
優秀で容姿の整った兄と違って、おれは地味で消極的で口下手で、小さな頃からどちらかと言うといじめられ体質だった。
小学校低学年の頃は、同じ学校に在籍していたちょっと過保護気味な兄に守られてイジメにあうことはなかったけど、ひとたび兄が卒業すると、同級生の主に男子から、物を隠されたり、仲間はずれにされたり……、そういう嫌がらせを受けることが多くなった。
背が高くて成績やスポーツも万能だった兄と違って、おれは骨が細くて色白で、男にしては頼りない見た目だったし。他の子どもに強く言われたら、怖くていつも逆らえなかった。
だから、受験して青南学院の中等部に入ってからも、そのままエスカレーター式で高等部に進学してからも、クラスの中心人物的な生徒にはなるべく近付かないように気を付けていた。
友達はあまりいなかったけど、カースト上位の生徒に目を付けられないように気を付けていれば、それなりに平和な学校生活を送ることができる。
伸ばした前髪で顔を隠して、必要なこと以外はしゃべらず、クラスメートたちから無害だと思われるように心がけて。
そうやって、地味に、静かに、海の底で呼吸をするように過ごしてきたのに……。
高校一年の終わり頃、同級生の中条瑛士に目を付けられた。
「お前、由井原総合病院の息子なんだってな」
教室でいきなり足を引っかけられて転び、驚くおれを見下ろして、中条瑛士がニヤリと笑う。
その瞬間、頭のなかに試合終了のゴングが響き、おれが守ってきた平穏が崩れた。
青南学院は中高一貫の進学校で、おれも含めて高等部にいる生徒の7割は中学受験で入った内部組。
中条瑛士は高校から入ってきた外部組で、成績はよかったが、素行は悪かった。
中条の父親は市議会議員で、うちの学校の卒業生。母親は、PTA関係の役員。
学校にも多額の寄付をしているという中条の家は裕福だったはずだし、中条自身も特に不自由のない暮らしをしてきたはずだ。
だから、このあたりでそこそこ大きい病院の息子であるおれに目を付けたのは、きっとただの暇つぶし。
ほとんど無理やり中条と連絡先を交換させられたおれは、それ以来、中条とその仲間にしょっちゅう呼び出されて、金をとられたり、殴られたりした。
両親が病院の仕事で家を開けることが多かった分、兄の亨は面倒見が良かった。
というより、おれに対してかなり過保護で。
おれがたまにケガして帰ってくることや、親が銀行に貯めてくれていた貯金をしょっちゅうおろしていることに気が付いていた。
兄は「困ってることがあるなら言え」と、何度も言ってきたけど、おれは中条たちのことを兄には相談しなかった。
高校生になってまで、兄に守ってもらわなきゃいけないなんて情けないと思ったし、医学部に入って勉強も忙しくなった兄に迷惑をかけたくなかった。
だけど、中条たちの嫌がらせにひとりで耐え続けるのはやっぱり苦しくて……。
高二の一学期が始まって少しした頃、限界がきた。
学校から家に帰る途中の乗り換え駅。その日も中条たちに嫌がらせを受けたおれは、ホームの3両目の乗り場の一番前の列に立って、ぼんやりと電車を待っていた。
反対車線の電車が、ゴーッと音をたてて駅に入ってくる。
電車のライトがパーッと目にまぶしくて、頭が少しフラフラする。
電車のライトを見ていると、すぅーっと線路のほうに吸い込まれてしまいそうな心地がしてきて、足が片方前に出る。
気付けばおれはホームの白線の外側に立っていた。
このまま、ホームの向こう側に行けば……。
その日のおれは、ひどく疲れていて、ふと思いついた自分の考えが魅惑的なものに思えた。
さらに一歩足が前に出て、ゆらり、身体が動く。
靴のつま先がホームの外側に少しはみ出しかけたとき、急に自分の行動に背筋が凍り、足がすくんだ。
おれ、何しようとしてた……?
ホームからはみ出しかけていた足を、一歩引く。
頭が少し冷静になると、どっと恐怖が襲ってきて。膝からガクンと力が抜けた。
その場にうずくまると、身体がガクガクと震え始める。
「大丈夫ですか……?」
しゃがみ込んで動けなくなってしまったおれに声をかけてくれたのは、その駅にある公立高校の制服を着た女の子だった。
なんの面識もないはずのおれの手に、そっと手を重ねた彼女は、ゆっくりとした口調で話しかけてきた。
「君は嫌かもしれないけど、離せないよ。あっちに座って、なにか飲み物でも飲もうよ」
線路に落ちるかもしれないすれすれのところでうずくまっていたおれのことを、彼女がどんなふうに思ったのかはわからない。
だけどおれは、膝を抱えて震えていた手を握ってくれた彼女の手の温もりに救われた。
それ以降、よく電車で彼女を見かけるようになった。
もしかしたら前から同じ電車を利用していたのかもしれないけど、助けてもらったあの日から、彼女はおれの中で特別になった。
でも、彼女のほうは、たまに電車で乗り合わせるおれのことに気付いていないみたいだった。
助けてもらったときに、ろくにお礼も言えなかったし。見た目がダサくて地味な自分が、彼女の視界に入れてもらえるはずもない。
だからいつも、少し離れたところから彼女のことをそっと見ていた。
中条たちの嫌がらせは続いていたけれど、たまに電車で見かける彼女の存在が、おれの心を救ってくれていた。
彼女の名前は、偶然電車に乗り合わせたときに彼女と一緒にいた男が「衣奈」と呼んでいるのを聞いて、初めて知った。
その男は、背が高くて、日に焼けた肌が健康的で、明るい笑顔の爽やか高校生だった。
彼氏なのかな……。
面識のないおれなんかを助けてくれた衣奈ちゃんは優しいし、かわいい。
彼氏がいたっておかしくない。
だけどそう思うと、胸の中が苦しくてぐちゃぐちゃに掻き乱された。