電車がホームに停車して、ドアが開く。
乗り降りする乗客が、ホームのギリギリ端っこでうずくまっている由井くんに気付くことなく、彼の半透明の身体を通過していく。
うずくまって震える由井くんの背中を見つめながら、わたしは思い出していた。
これは、何ヶ月か前に見た光景と似ている。
あのときは、たまたまホームに入ってくる電車はいなくて。わたしは、白線の外側で具合悪そうにうずくまっている青南学院の男の子の背中に声をかけた。
「大丈夫ですか……?」
声をかけた男の子は、髪がボサボサで、長い前髪から少しだけ覗く目はおどおどと怯えるように左右に揺れていて。顔は青白く、唇も真っ青だった。
「さ、わらないで……。お、れ……」
最初は具合が悪くなってうずくまっているのかと思ったけど、今にもホームから落ちてしまいそうなギリギリのところで、切羽詰まった顔をしている彼を見て、様子がおかしいと気が付いた。
この人、もしかして――。
確信は持てなかったけれど、彼からなんとも言えない危うさを感じて、膝を抱えて震えている彼の手にそっと手を置く。
ビクッと震えた彼の手を怖がせないように、だけど絶対に離さないようにぎゅっと握ると、わたしはゆっくりとした口調で話しかけた。
「君は嫌かもしれないけど、離せないよ。あっちに座って、なにか飲み物でも飲もうよ」
最初は顔を伏せて首を横に振っていた彼だったけれど、不自然な場所でしゃがんでいるわたし達に気付いた駅員さんが近付いてきてくれて。
わたしは彼のことを、ホームの待合用の椅子まで連れて行くことができた。
椅子に座らせたあとも、うつむいてなにも言わない彼に、わたしは自販機で買ってきたペットボトルの水を渡した。
わたしと彼は、三十分ほどお互いに何も言わずにホームの椅子に座っていた。
やがて、気持ちが落ち着いたのか、彼がふらりと立ち上がって頭を下げた。
「――なさい……。それと、――とう、ございました……」
ボソボソした声で話すからよく聞こえなかったけど、たぶん、謝罪とお礼を言ってくれていたのだと思う。
そのあとしばらくして、わたしは彼にホームの3両目の乗り場の前で呼び止められて告白された。
あのとき助けた男の子は、髪の毛もボサボサで、長すぎる前髪で顔がよく見えなくて暗い印象で、ブレザーの全部のボタンをビシッと止めていてマジメそうで。ボソボソ喋って名前も教えてくれなくて……。
あの男の子と、ユーレイの姿でわたしの前に現れた由井くんとは見た目の印象が全然違う。
だから気付かなかったけど、うずくまって震える由井くんの背中を見ていたら、その姿があのときの男の子と完全に一致した。
由井くんとわたしの関係がなんなのか。
どうして彼がわたしのことを「好き」だと言うのか。
ずっと不思議に思ってたけど、やっとわかった。
わたしは、由井くんのことを知っている――。
半年ほど前、わたしが、電車に飛び込もうとしていた彼を止めたんだ……。
《大野くんに、由井 周って人のことをできる限り聞いてみてほしい》
由井くんの名前がわかったわたしは、家に帰ってからすぐにアキちゃんにラインを送った。
部活が終わってからラインに気付いてくれたアキちゃんからは、既読が付いたあとに電話がかかってきて。
「なあ、ほんとうに大丈夫なの? なんか変なことに巻き込まれてない?」
心配そうな声で、何度も確認された。
「大丈夫。アキちゃんが心配することはなにもないよ。もしなにか困ったことがあったら、ちゃんと相談するから」
わたしがそう言うと、アキちゃんも最後には渋々といった感じで納得して、大野くんに連絡してくれた。
その結果、わかったのは……。
まず、由井くんが高校二年生だということ。
それから、彼の実家はうちから電車で一時間ほどのところにある由井原総合病院であるということ。
お父さんが由井原総合病院の院長と勤めていて、医学部に入った優秀なお兄さんがいるということだ。
どうやら由井くんは、なかなか裕福なお家のおぼっちゃまだったらしい。
由井くん自身は、頭はいいけれど地味であまり目立たない生徒だったみたいだ。
大野くんが話を聞いてくれた二年生の先輩の話によると、由井くんは一週間くらい前に学校帰りに交通事故に遭ったようで、しばらく学校に来ていない。
今も意識不明の重体で、お父さんが経営する由井原総合病院で入院しているというウワサだという。
由井くんはパソコンが得意で、中学のときからプログラミング部に入っていたらしいのだけど……。部活にもクラスにも特別に親しくしていた友達はいなかったらしい。
入院している彼のところにお見舞いに行ったという人の話は聞かない。先生たちも、長期間学校を休んでいる由井くんについて特に触れることはないそうだ。
「——、ってことみたいなんだけど……。なにか思い出せたことはある?」
アキちゃん経由で大野くんに聞いてもらった情報を伝えると、由井くんは眉をハの字に下げて小さく首を横に振った。
「なんとなく自分の話のような気もするけど、あんまりピンとこない」
「そっかあ」
ラインで送られてきた文章をもう一度読み直してから、わたしはスマホをベッドの布団にポイッと放り投げた。
「今度こそ、なにかわかったと思ったんだけどな……」
ぼやきながらベッドに仰向けに寝転がると、由井くんがなんだか申し訳なさそうな顔をしてわたしのそばに正座する。
「あの……、ごめんね。今日はいろいろと迷惑かけて……」
由井くんが、膝に手をついてうなだれる。今はもう黒いオーラは出ていないけれど、しょんぼりとする彼の顔は、叱られた犬みたいだった。
「迷惑とは思ってないよ。でも、ビックリはしたかな。由井くん、しばらくパニックでホームの3両目の乗り場から動かなくなっちゃったし」
「うん、ごめんね……」
高校の最寄り駅のホームで、由井くんが突然うずくまって震えだしたのは、3両目の乗り場の近くに立っていた青南学院のガラの悪そうな三人組のせいだと思う。
あの人たちのほうから、一週間前の事故のことや由井 周という名前が聞こえてきたあたりから、たぶん由井くんの様子はおかしくなった。
ホームにうずくまってしまった由井くんは、わたしがそばに言って話しかけても全然震えが治らなくて……。
青南学院の三人が電車に乗って去って行ったあとも、由井くんはずっと青ざめた顔をしていた。
ホームのギリギリのところにしゃがんで動かなくなってしまった由井くんを心配していたら、わたしの行動を不審に思ったのか、駅員さんに声をかけられた。
「危ないから下がって」と言われたあと、学校や名前、そこでなにをしているのかと立て続けに質問されて、ちょっと焦った。
由井くんの姿が見えない駅員さんには、わたしが駅のホームから線路に飛び込もうとしているように見えたんだと思う。
由井くんの震えは止まらないし、駅員さんには変な疑いをかけられて親と学校に連絡されそうになるし……。ごまかすのが、いろいろと大変だった。
駅に停車した電車を何本も見送って、ようやく由井くんの震えが落ち着いたときには、わたしも心底ほっとした。
「とりあえず、由井くんと無事に帰って来れてよかったよ」
寝転んだまま由井くんを見上げて笑いかけると、彼が恥ずかしそうに少し目線を逸らした。
「よかった、って……。衣奈ちゃんは、早くおれに離れて行って欲しいんじゃないの? あのとき、駅のホームにおれを置いてってれば、離れられたかもしれないよ」
由井くんに指摘されて、ハッとする。
言われてみれば……。
あのときの由井くんは、わたしから完全に意識が逸れていたし、わたしがどれだけ声をかけても反応しなかった。
パニック状態の彼からそっと離れて電車に乗ってしまえば、もしかしたら由井くんと離れることができていたのかもしれない。
でも……。
ずっと由井くんと離れたいと思っているのに、あのときはそんな作戦、思いつきもしなかった。
「だって、あんなふうにパニックになってる状態の由井くんを置いてけないよ。わたし、そこまで非道じゃない」
「そんなこと言って……。だから衣奈ちゃん、おれみたいなのにつきまとわれちゃうんだよ……」
由井くんがふいっと横を向いて、ボソボソと何か言っている。その横顔を見つめながら思った。
「だけどひとまずは、由井くんが生きてるかもってことがわかってよかったよね」
何ヶ月か前に、電車に飛び込みそうになっているところを助けたのに。もしその人が、事故で命を奪われていたとしたらやりきれない。
ポツリとつぶやくと、由井くんがわずかに目を見開く。
事故に遭って入院しているという彼が今どういう状態にあるのかはわからないし、なぜ彼がユーレイのような状況になっているのかもわからないけど。
意識不明の状態で眠っているってことは、彼の身体はまだ生きている可能性が高いってことだ。
なんらかの理由で彼の意識だけが身体から抜けてきてしまったのだとしたら、きっと元に戻ることもできるはず……。
だけど問題は、由井くんがまだわたしを「好きだ」ってこと以外、なにも思い出せていないってことだ。
由井くんがホームでうずくまってしまったのは、なにかを思い出したからなのではと期待したけど……。
由井くんは、青南学院の三人組に対してものすごい嫌悪と寒気を感じただけで、彼らが誰なのかまったくわからないらしい。
それに、自分の名前が由井 周だということや、実家が由井原総合病院だということについてもイマイチ実感が湧いていないみたいなのだ。
自分が由井 周だということに実感が持てない状態で、彼の意識が元の身体にちゃんと戻れるのか。それがすごく不安だ。
「嫌な感じがした三人には、ほんとうに見覚えがないの? あの中の一人が瑛士って呼ばれてたけど、その名前にも聞き覚えない?」
「うん、ごめんね……」
「ううん、由井くんが謝ることじゃないよ。思い出せないなら仕方ないもん」
仕方ないけど……。
駅で会った青南学院の三人の会話を聞いた限りでは、事故に遭う前の由井くんと彼らにはなんらかのつながりがあったはずだ。