雅と玲子、土蜘蛛の中に囚われていた令嬢たちは周の息のかかった病院に運ばれた。
 周は令嬢たちの記憶にも干渉をしたようで、土蜘蛛や玲子に関する記憶は消滅するに至った。

「瑠璃子……! よかった! 無事だったのね!」

 環はあれから一度だけ令嬢たちが療養する病院を訪れた。
 ぬらりひょんのツテだと言っていたとおりで、江戸時代から続く親妖派の病院だったようだ。
 今回の事件については、外部への秘匿を約束してくれているのだという。特に院長の祖先かつて遠い昔、鬼の一族である九条家に大層世話になっていたそうだ。

「あ……れ、わたくし、どうして」
「覚えていない? あなた、攫われて──それから……それ、から」

 瑠璃子の無事に涙をする雅だったが、瘴気に当てられたためか、栗花落家を訪れたあとの顛末はよく覚えていないようだった。
 しかし、土蜘蛛と玲子の関係性については、記憶からは抹消されていなかった。栗花落家から瑠璃子をどのように救ったのかは覚えていないが、それまでの過程に関しては覚えている。
 雅だからこそ、あえて消す必要もないと周が判断した、ということなのだろうか。

「いいえ、きっと思い出さない方が、あなたのためね」
「え……? ふふ、そんなに泣いてしまわれて、変な雅さん」
「もう、本当に心配していたのよ。けれど、無事でよかった。環さん、あなたには今度あらためてお礼をしないといけないわね」

 おさげ髪の瑠璃子が環を視線で追いかける。初対面の相手を前にすると、どうにもぎくしゃくしてしまうのが人見知りの質だ。
 環はきょろきょろと視線を揺らす。そもそも、他人からお礼など言われ慣れてもいないのだ。

「い、いえ、私は何もできなかったというか……結局、各方面を怒らせてしまっただけ、といいますか」
「なによそれ、わたくしにはよく分からないけれど、あなたがここまで動いてくださったことこそに意味があるのではなくて?」
「そ、そうで、しょうか。で、でも、事件が解決できて、よっ、よかった、です」

 攫われた人たちが全員生還したわけではない。土蜘蛛の体液に溶けてしまった者たちは、もう戻ってはこない。
 せめて、常世に送られることで、永遠に続く苦しみや痛みから解放されていればよいと願うばかりだ。

「ええ、そうね。瑠璃子はとにかく、ゆっくり療養をすること。ぜっっったいに、夜更かしをしてロマンス小説を読んだりしないこと。いいわね?」
「うっ……そ、そんな……」

 瑠璃子はがっくりと項垂れているが、そこまでロマンス小説が好きだったのか、と環は思った。

(そういえば、お部屋には女性作家の文学冊子が並んでいたような)

「それで……環さん、彼女のことだけれど」
「あ……はい」
「もう目覚めてはいるのよね? なんでも、記憶が曖昧なのだとか」
「そう……みたいです。事件に関することは、なにも」

 栗花落玲子が目覚めたのは、事件収束から三日ほど経った頃だ。
 玲子は目覚めると、しばらく呆然と窓の外を眺めていたという。

「彼女が裁かれる機会は訪れない……ということなのかしら」
「どうで、しょう。うまく説明、できないのですが、これはなんというか、玲子様だけの罪……ではないのかもしれないと、思います」
「どうしてそう思うの?」
「玲子様は現状に嘆いて……いらっしゃい、ました。レールが敷かれた、なんの苦しみもない退屈な人生……と。華族令嬢の定めを、憂いでいた」

 環が静かに告げると、雅は小さくため息を零す。

「たしかに、今の世はどこか可笑しいとは思うわ。身分制度などがあるから、人々はくだらない家督というものに執着する」
「……家督」
「だけれども、人として、踏み外してはならない道がある。自身の力で現状を打ち破らず、他人に逃避をするだなんて……間違っている。それが、彼女の罪」

 華族というものは、何不自由なくのびのびと暮らしている人たちなのだと思っていた。
 一般庶民からすれば、天井の人たちであり、華々しい生活に憧れを抱くものだ。

 だが、そうではないらしい。環には理解できない世界だ。

「とにかく、今回の件に関しては、本当に助けられたわ。わたくし、あんなに調子の良いことを言っておきながら、途中で意識を飛ばしてしまって。情けないものね」
「……い、いえ」
「それにしても、どのようにして蜘蛛とやらを倒したの? まさか、あなた一人で?」

 すると、唐突に踏み込んだ質問が飛んでくるではないか。
 環はぎくり、と肩を震えさせた。

 鬼になった周が土蜘蛛の腹を切り裂いてくれた──などと到底言えるわけもない。
 そもそも土蜘蛛に喰われそうになっていた、と伝えてしまったら、ショックを受けて気絶してしまうのではないか。

「い、いやあ……えっと、そのう、い、いろいろ、ありまして」
「いろいろ?」
「そ、そうなんです。あまり、く、詳しく、言えないん……ですが、ごにょごにょ」

 どう頑張っても誤魔化し切れていない。
 しかし、明らかに慌てている環を前にしても、雅は深く問い詰める気はないようだ。

「そう……まあいいわ。あなたには込み入った事情があるのだろうし」
「す、すいません……」
「それにしても、あなたって愉快な人ね。よければ今後も、仲良くしてくださると嬉しいのだけれど」
「……え」

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
 耳を疑いたくなるような内容が聞こえたような気がする。

(これから……も?)

 冗談ではない。まだ華族ごっこをしろというのか。令嬢界隈などもう真っ平御免であるというのに。

「わたくしからも、お願いいたしますわ。この度のお礼として、ぜひおすすめのロマンス小説を、お貸しいたします!」
「……え、え」
「まず手始めに、薔薇と貴公子全二十六巻……夕暮れの花園全十七巻……それから……」
「おっ、お構いなくうううっ……!」

 何故瑠璃子の目がキラキラと輝いているのか。生憎だが、環はロマンス小説を求めてはいない。
 即座に病室から退出しようとする環の首根っこを、雅が軽々と捕まえてしまう。

「あらあら、どこに行こうとしているのかしら」
「ひいっ……!」

 こうして令嬢失踪事件が収束したわけであったが、環の肩の荷はそう簡単には下りてはくれないようだ。


 
 一連の失踪事件について、一部では奇々怪々の仕業なのではないかと報じる新聞社もあった。
 犯人逮捕に至らないままに、失踪者が帰還した。しかも全員が失踪していた当時の記憶を喪失している。
 不可解すぎる事案ゆえに妖撲滅特殊部隊の目がより一層光ったが、それでも、帝都のかつての日常は徐々に取り戻しつつあった。

「あ……あの、し、失礼します」

 小石で切りつけた手首はまだわずかに痛む。湯浴みを終え、傷口に包帯を巻いた環は周の私室の前に立っていた。

 一連の事件から数日経ったが、いまだに周と環はぎくしゃくしている。それに、この事件が解決したのなら、環はもう周の婚約者を務める必要はない。

 そのはずなのだが、環の心情は複雑だった。

 扉を開けると、周は静かに月を眺めている。人間の姿――ではなく、鬼の姿だった。流れるような黒髪は、月の光を浴びてきらきらと輝いている。あまりの美しさに、環は言葉をなくしてしまった。

 しばらく沈黙が流れ、ふと、冷ややかな周の瞳が向けられる。

「じ、事件が解決して……あ、安心、しました」
「……」
「め、目覚めたご令嬢たちも、もうすっかり元気な、ようで」
「……」
「ま、まあ……こ、これ以上、私が、かかわることも、な、ないかと思いますが……。なんだかよく分からないロマンスなる招待状をいただきますけれど……」

 可笑しい。環は周に呼びつけられてここにいる。それなのに、一切会話をする気がないのか。先ほどから環ばかりが口を開いているばかりか、やはり、どことなく怒っているように感じる。

「えっと……あの」

 環がどもっていると、瞬きの間に周が目の前に移動をする。
 突然距離を詰められるとは想定していない。目を丸くしていると、環の視界は何故か反転した。

「‼」

 さらりと落ちてくる糸のような髪。天上越しに見える端正な顔立ち。月のような瞳は、まるで環を欲しているようだった。

「え……ああ、ああ、あの」
「こんな傷など、勝手に作るな」
「いっ……た」

 信じられないことに、環の手首の包帯がはぎとられ、周の牙が突きつけられている。ざらりとした舌の感触。滴り落ちた環の血液を、周はごくりと飲み込んだ。

「あのような妖に食われるくらいなら、いっそ、私が――……」
「あ……まね、さん」
「何故、こうも腹が立つ」
「ん……」
「あなたが私のもとから去ることを、許してやれない」

 立ち込めるのは儚い鬼の冷気だ。寂しいようで、悲しいようで。長い時間を一人で生きてきた者のそれだった。

「わ、たしは……まだ、よく、分かりません」
「……」
「ここに残っていたら、マダラが、お、怒ると思います、し」
「……」
「華族令嬢のふりだなんて、荷が重すぎる……し」
「……」
「く、暗くてじめじめした場所の方が、お、落ち着き、ます……」

 覆いかぶさる周を見つめ、環は胸の内を告げる。

「で、でも……少しだけ、心残りというか」
「心残り?」
「あ……周さんと、まだ……一緒に、いたい私も、いて……そ、それから、ここの図書室の本を、よ、読み切っていません……し」

 ごにょごにょと語尾を誤魔化す環であったが、周を前にしてはなすすべもない。
 再び周の表情を伺えば、どことなく満足げに口角を上げているではないか。先ほどまで癇癪を起していた男はどこへいったとばかりの反応だ。

「なるほど、では、偽りを誠に変えるか」
「え」
「環はこの私の――鬼の婚約者。好きなだけここで暮らすといい」

 周はそう告げるとくつりと笑った。背筋がひんやりと凍っていく心地がするのは気のせいではないだろう。

「鬼族は誓いを違えない。これから先も、謹んであなたのそばにいよう」

 何か取り返しのつかないことになっているのではないか。環は身動きがとれぬまま、はくはくと唇を動かした。
 やがて、周の冷たい唇が環の手首へと寄せられると、得体の知れない妖術がかけられたのだった。



 これは、大正の世の人間と妖の物語。

 ――少女はまだ、愛を知らない。


【完】