令嬢たちはサロンにて政治的な意見の交換を心から楽しんだようだ。解散の合図があり、ちらほらと席を立つ令嬢たちに紛れて、環はそわそわと立ち尽くした。

『あいつ、どこからどう見ても、ただの人間なんだよなあ』

 雅からの指示があり、この場で待つようにとのことだったが、公爵家令嬢を相手にいったいどのように立ち振る舞えばよいものか。

『蜘蛛の糸で操られている……なら、何かしらの痕跡があるはずだろうし。まさか、屋敷に巣を作られてるってのに、気づかないわけはねえもんな』

(う、うん……)

『にしても不気味だな。ふつうだったら、あんなに穏やかに笑っていられねえぞ』

 土蜘蛛の中には時に、人間を蜘蛛の糸で使役するものもいる。だが、それに至るまでには、よほどの人間を腹に蓄えねばならない。ただの土蜘蛛が、これほど知略的に動けるはずがないのだ。

 普通に暮らしていればここまで暴走することもないはずだが、いったいどのようにしてここまでなれ果ててしまったのか。

「環さん、今少しよいかしら」

 しばらくその場に立っていると、背後から声がかけられる。びくっと肩を震わせつつ振り返れば、思っていたとおりの姿があった。

「……こ、こんばんは、雅様、それから……れ、玲子様、まで」

 雅の隣には玲子が微笑んでいる。打合せのとおり、雅が間をとりもってくれたのだ。

「九重環さん、あなたとはいずれ、ゆっくり話してみたいと思っていたところだったのよ」
「いきなりで申し訳ないのだけど、よければ、これから時間を作れないかしら。三人で語り明かしたいと、玲子さんと話していたところなの」

 雅は違和感ひとつない口ぶりで環を誘いかける。ほかの令嬢からすれば、公爵家の玲子や雅から誘いを受けるなど、有頂天になる事案だろう。だが、演技の経験などない環はわざとらしく喜ぶこともできない。

「え……わ、私などと……でしょうか」
「ええ、先日の雅さんの救出劇もお見事でした。よければ、栗花落の屋敷に招待をさせて。友人の窮地を救ってくださったお礼もかねて」

 完璧なまでの笑みを前にして、環はぶるりと背すじを震わせた。はじめて目にした時にも気づいたことだが、玲子の目の下には、やはり大きな隈がある。悠々自適な暮らしをしている華族令嬢と、疲労や寝不足が起因する隈はどうにも結びつかないと思っていたが、土蜘蛛絡みであることは、まず間違いはないようだ。

「あの……えっと」

 視線を巡らせ、うつむいていた顔を上げる。環と目が合うと、玲子は目尻を下げてゆるりと微笑んだ。

「ご、ご招待……謹んでお受け、いたします」


  *

 環と雅は、栗花落家の自動車に乗車し、日比谷にある邸宅までたどり着く。玲子の様子は終始穏やかであり、車内では舶来ものの哲学書の話題で持ちきりだったほどだ。

「環様は博識のようにお見受けいたしますけれど、かのキルケゴールはご存じかしら」

 環は念には念を入れて周囲を警戒していたのだが、一向に妖ものの気配は感じられない。運転手にいたっても、人ならざるものの特徴である妖気は感じられない。ただの人間であるのだ。

「は……はい。‟死に至る病″のキルケゴール、ですよね。読んだことは、あります」
「まあ! 令嬢方は小難しいからといって、今までに読んでいらっしゃる方に巡り合ったことはございませんでしたの。ふふふ……なんていう素晴らしい日でしょう。嬉しいわ」

 キルケゴールとは欧州の哲学者、思想家のことだ。代表著書である‟死に至る病″は読破できない難解な本として有名だ。

 華族令嬢たちはもっぱら、ロマンス小説や女性作家の文学冊子を好むものだと思っていた。もちろん、可憐な風貌の玲子もどちらかというと、その手の書物を好んでいるのかと考えていたが、まさか玲子の口からキルケゴールの名を聞くことになるとは。

「わたくし、キルケゴールの考え方に深い感銘を受けておりますの」
「ぜ、‟絶望の諸段階″のこと、でしょうか……」
「ええ、あなたはこれについてどう考える? 人は、絶望をしてこそ自己を認識できる。そして、その自己を認識したのち、人間はいったいどのようにして救済を求めようともがくのかしら」
「は、はあ……」

 玲子は秀麗な笑みを浮かべている。余るほどの富や名誉を持つ公爵家の令嬢にとって、苦しみなど無縁ではないのか。美しい容姿からは想像もできないような重たい命題である。環はちらちらと雅を見やりながら、どう答えるべきか逡巡した。

「絶望は、人間だけがかかる病気。それは、人間が動物以上の存在である証拠……だけれども、悲しみや苦しみを知らない子が多すぎる……まったくもって、可哀想よ」

 玲子は小さくため息を落とし、嘆いた。
 やはり、可笑しい。目の前に存在しているのは、いびつな美しさだ。花園で紅茶を楽しんでいるような令嬢が、まさかこれほど危険な考えをもつに至っているとは。雅も静かに生唾をのんだ。

「人間が本当に高次元の生き物であるのだとしたら、絶望をしたその先で、真の輝きを見出せるはずなのよ」
「ち……違い、ます。キルケゴールの、‟死に至る病″は、に、人間は、自己意識をもつからこそ、絶望をして、自己を見つめることができる。たくさん挫折をして、主体的に生きることが重要だと、解いている……だから、絶望をするから輝けるのでは、ない……です」

 環は自身の考えを述べながら、ふと、過去の残像が脳裏によみがえる。
 燃え行く森の中でただ一人立ち尽くす幼い環。ひたひたと流れている――人間の血。絶望から目を背けているのは、環自身ではないのか。

 もう誰のことも――信じられないと思い、嘆き、自己に蓋をして生きていた。

「そう……環さんは、そのようにお考えなのですね」
「……」
「残念だわ。きっとあなたとなら、分かり合えると思っていたのだけれど」

 自動車がようやく停止し、栗花落邸に到着する。敷地の中に入った途端、辺りの異様な気を察知し、ぶるりと背すじを震わせた。

(やっぱり、ここに土蜘蛛の巣がある……)

『間違いねえな、いったい何人腹に蓄えてやがるんだ……』

 いつ何が起きてもおかしくはない状況だ。環の影の中にいるマダラの警戒心が強くなった。
 雅に注意を払いながら、環は玲子のあとをついてゆく。

「今日は、あなたたちをとっておきの場所に招待しようと思っているのよ。家の者には秘密にしている……わたくしだけの、ユートピア」
「そう、それはいったいどのような場所なのかしら。楽しみだわ」

 くすりと微笑む玲子をよそに、雅は挑発的な態度で返した。

(せめて、雅様のことは、守らないと……)

 とっておきの場所とは、土蜘蛛の巣であることは間違いない。玲子は正真正銘の人間であり、蜘蛛の糸で操られている痕跡もない。そうなると、妖ものである土蜘蛛に魅せられて、自発的に協力をしていると考えるのが妥当だ。
 無垢な令嬢を屋敷に招き、土蜘蛛の餌として提供している。その過程で得られる人間の‟絶望‟――命の輝きとやらに陶酔しているのだ。

 玲子は凄艶に微笑み、環と雅を地下室へと案内する。その道すがらは、ひどく重く、冷たい瘴気がたちこめていた。呼吸をしているだけで肺が腐ってしまうような、気持ちの悪い空間だった。

『おい、環平気か……これは、ちとやべえな……』

(だ、大丈夫。それよりも、雅様が)

『ったく、なんの耐性もない小娘が、こんな場所に来るべきじゃねえってのによ』

 雅を見やれば、顔を真っ青にしてふらついている。意識もおぼろげな様子であったが、どうにか気力で持ちこたえているようだった。

「環さん、あなたをはじめて目にした時から、わたくしは、大きな悦びを感じていたのよ」
「……悦び?」
「ええ、あなたの目には深い‟絶望″が見えた。華族令嬢には不釣り合いな――深淵に迫る漆黒。悲しみ。嘆き。憤怒。ああ……なんて輝かしいのかしら、と期待に満ち溢れていたのだけれど」

 地下通路は狭く、さらに奥深い場所へと繋がっている。かつての防空壕の名残であったのか、はじめこそは煉瓦造りの壁で囲われていたが、やがて洞窟のように周囲の岩肌が剥き出しになってゆく。

「あなたも、退屈な喜劇を語るのね。よき理解者になってくださると思ったのに……嘆かわしいこと」