環は翌朝、しゃかしゃかと粒が擦れる音によって目覚める。寝ぼけ眼を擦り体を起こすと、部屋の中に小豆洗いが座り込んでいた。

 いつの間に入り込んできたものか。小豆洗いはとくに環に悪戯する様子もなく、何度も何度も念入りに洗っている。

「ん……おはよう……ございます」
『……』
「ふわ……あなたは……いつから、そこに?」

 しかし、欠伸をする環を一瞥すると、徐に立ち上がって壁の中に消えていってしまった。

(あれ、いなくなってしまった)

 妖ものは気まぐれな生き物だ。ここで小豆を洗うのに飽きたのかもしれない。

 それにしても昨夜は泥のように眠ってしまった。よほど社交場で気疲れをしていたらしい。
 できればもう二度と出向きたくはないのだが、そうも言ってはいられないのだろう。少なくとも、綾小路雅には何らかの接触を図らねばならない。あの勝気な令嬢相手に、環がまともに渡り合える気がしないのだが。

 はあ、とため息をつき周囲を見回す。マダラはといえば、ベッドの上で気持ちよさそうに眠っていた。

『……むにゃむにゃ、もう食えねぇぞ……』

(呑気に寝ていて、羨ましい)

 起こさずに布団から這い出る。身支度を整えると、環は一階へと向かった。

 女中が朝食の支度を済ませているのか、味噌汁のいい香りが立ち込めている。
 こんがりと焼かれた魚の匂いに食をそそられ、広間に向かう。そこには朝刊を読んでいる周のほかに、見慣れない僧風の男が座っていた。

「お………お、おはよう、ございます」

 環が声をかけると、朝刊からちらと視線を上げた周と目が合う。

「おはよう」
「……あ、あのそちらの方は」

 先ほどから茶を飲んでいる男は、おそらくは妖でよいのだろう。大正の時代とは逆行した麻の着物を身につけ、知的な印象を受ける。もっとも目を引くのは、大きく突き出た後頭部だ。

「ぬらりひょんだ。今日からしばらく屋敷に滞在するようだから、よろしく頼む」
「……ぬらりひょんさん、は、はじめ、まして」

 ぬらりひょんといえば、一般に瓢箪鯰のように掴まえどころがないという。頭脳明晰とも言われ、妖の総大将ともされている存在だが、環は未だかつて実物を目にしたことはなかった。

「ほう……君が、周殿のよい人か」
「よっ、よい人?」
「どれ、君から周殿の気が伺える。これは……ふむ、"式”の他にまだ何かつけられておるな」

 よい人だとはとんでもない。あくまでも周と環は偽物の婚約関係にあるだけだ。

 ぶるぶると否定をするが、ぬらりひょんは飄々とした顔で茶を飲んでいる。周に関しては朝刊に目を通しているばかりで、ちっとも気にしていないようだ。

「あ、あの、私は……本物の婚約者では……ないのですが」
「知っておる。人間の娘の失踪事件を追っているのだろう。あれは、誠に残念のことよのう……」

 環はおずおずと席につくと、食卓に並んでいる皿たちがこぞって眼前に集まってきた。今すぐに使ってほしいといわんばかりだ。

「本来、人間と妖は、住む場所を分かち、よほどのことがない限りは干渉しあわないものだ。互いの世界を守り、均衡を築く役目を担っていたのが、人間のとある一族と、妖の鬼族だったのだが……」
「鬼族……」

 ちらりと周を見るが、視線は朝刊に向けられたままだ。

「最近は、妖が次々と町中へおりていっている。昔から町中でこっそりと暮らしているものはいたが、此度の妖どもは様子がおかしいのだ。人間の味を覚え、理性が保てなくなるものが増えている」
「そう……なんですね」
「わしらとしては、あまり妖ものや妖怪の悪評を広めたくないのが本音なのだよ。現に、令嬢の失踪事件も、神隠しにあった、だの。妖怪に呪われたのだ、などと騒ぎ立てる連中までいる。そうなってしまっては、人間の目が一層光るばかりで、わしら妖はおちおち暮らしてもいられんものよ」

 ぬらりひょんは湯呑みを置き、重たいため息をついた。

『たいへんだ、たいへんだ』
『あちこちにお札が貼られているよ』
『あれ、痛くて苦しいよ』
『オイラたち、見えるにんげん、いじめてくる。遊び場が、なくなっちゃう』

 瞬きをしたその時、いつのまにか周囲に座敷童子たちが集まっている。その場でバタバタと走り回ると、壁を駆け上がり天井裏へと消えてしまった。

 このままゆけば、妖は人間に害をなすものとして、いっそう忌まれてしまう。すべての妖が悪ではないのに。人間にも善人と悪人がいるように、妖だってそうなのだ。
 環はやるせなくなり、かたく唇を結んだ。

「それにしても、風変りな娘さんよのう。このような妖まみれの屋敷で、平然と暮らしているとは」
「あっ……えっと、これはその……慣れている、ので」
「しかし、これほど視えてしまっては、面白がった輩どもにいたずらをされてしまうだろう」
「うーん、まあ、そうなの、ですが……勝手に鞄を持っていかれてしまったり、本を破かれてしまったり、あとは……ああ、そうだ、昔、一度だけ嫌々女中をしていた時に、お嬢様を池に転落させられたり……しました。おかげでお暇をいただくことが、できました」

 かつての出来事を思い出し、あははと笑った。口入れ屋から斡旋された仕事は、内職以外はどれもうまくいかなかった。大抵は、妖たちにいたずらをされ、気味悪がった主人に暇を言い渡されて終わってしまう。
 できることならば四六時中家に引きこもっていたい環にとっては、ありがたい迷惑だったが。

 すると、しばらく朝刊を眺めていた周がくすりと笑う。

「そこで喜んでどうする」
「あ……だ、だって」

 もごもごと口ごもると、女中が朝食を運んできてくれた。ふっくらと炊けた白米と、具沢山のみそ汁。それに加え、こんがりと焼けた魚も添えられているとは、なんと贅沢な朝食なのだろう。

「お……おおおおっ、おいしそう、です!」
「どうぞ、召し上がれ」
「いっ、いただきます!」

 環は両手を合わせて勢いに任せて白米をかきこんだ。マダラはいつまで寝ているのだろう。

「それで、令嬢界隈の件だが」
「ごふっ!」

 本題だ、とばかりに両手を顎の下で組み合わせている周がいる。かきこんでいた白米が喉につまり、環はあわててお茶を喉に流し込んだ。

 しらを切って視線を逸らそうかとも思ったが、周の鋭い瞳からは逃げられない。分かっている。給金をもらっている手前、どれだけ気が進まなくとも、環はやらねばならないのだと。

「……なんとか雅さんという御令嬢が、なにかご存じかも……しれません」
「公爵家の綾小路雅か」
「うっ……、そうです。公爵家の、かなりはっきりとものを申される御令嬢です……」

 とたんに憂鬱になり、箸を持つ手が止まる。

「なんでも、ご友人が失踪されたそうで……って、ぜんぶ周さんはみっ、視ていたんですよね? 説明しなくても、わっ、分かるじゃないですか」
「ああ。それで、環はどうしたいと思う?」
「え……? そりゃあ、本音では関わりたくはないと思います……人間って怖いし……」

 もし、この事件の犯人が妖であったとして、それが軍部側に露呈してしまったのなら。人間は、人間ならざる者を過剰に恐れ、撲滅を願うだろう。

 やがて国は魑魅魍魎の排斥に本腰をいれる。そうなってしまっては、なにも悪いことをしていない妖や妖怪も、殺されてしまうのかもしれない――そう考えると、環の決心は鈍るのだ。

「で、でも……」

 ぎゅっと唇を結ぶ。環の瞳が、周の月のような瞳に映った。

「なんとか、してあげたい」

 まだ人間は怖い。今のところは、妖側に寄り添う気持ちの方が強い気がする。人間は環をいつも苦しめ、寂しい時、悲しい時、味方をしてくれたのはいつも妖だった。
 そんな彼らが傷つくのは耐え難い。そしてなにより、我を忘れ、化け物になり果ててしまった妖を、楽にさせてあげたいと思ったのだ。