―― 遡ること数ヶ月前。
「……スマホがない!」
ある日の放課後、スマホがないことに気づいた私は心当たりのある場所を探していた。いくら探しても見つからなくて、仲良しと呼べる友達がいない私は、たいして仲良くないクラスメイトにお願いをするしかなかった。勇気を出して声をかけて、私のスマホの番号にかけてもらう。
「……呼び出し音は鳴ってるけど、誰もでないよ」
私のスマホに電話をかけてくれたクラスメイトは面倒そうな表情を浮かべている。たいして仲良くないのに、たまたま近くにいるから、お願いされてしまったのだ。ただ迷惑だっただろう。迷惑をかけるのが申し訳なくて、なくしたスマホを諦めようとした時だった。
「……あっ、えっ、もしもし? はい、はい、あっ、はい」
突然、携帯に耳を当てて喋り出した。誰かが私のスマホを拾ってくれたみたいだ。期待の眼差しを向けると、肯定するように、うんうんと頷いてくれた。
「早川さんのスマホ、美術室にあるって。誰かはわからないけど、見つけてくれたみたいだよ」
「あ、あ、ありがとうございます」
クラスメイトと馴染めていないので、お礼の言葉がどもってしまう。美術の授業で落としちゃったのかな? 見つかってよかった。電話に出てくれた人にお礼を言わないと。
携帯が見つかった安堵感から足取りは軽くなり、小走りで美術室に向かった。
走ってきた勢いそのままに、美術室の扉を開けた。美術室に足を踏み入れると同時に、インクと紙の匂いが入れ混じった匂いが鼻を刺激する。美術館の空気は走ってきた校舎とは違う、なんだか、ピリッと身が引き締まる空気感だった。
美術室内を見渡すと、イーゼルに立て掛けられたキャンバスの前に座り、ただひたすらに筆を動かしている人物がいた。うちの学校の制服なので、生徒ということは後ろ姿でわかった。
「……し、失礼します。あの……」
私が美術室に入ってきても、微塵も反応を見せず、キャンバスに向かい続けている背中に向かって投げかけた。声は届いているのか、届いていないのかわからない。振り向こうとする気配もないし、手を止める様子も見られなかった。
「……あの!」
さっきよりも張り上げた声は美術室内に響き渡る。ビクッと肩を震わせて、手の動きを止めた。そして、ゆっくりと振り返った。目が合うと同時に、一瞬時が止まったような錯覚に陥る。
振り返った彼の顔が彫刻のように綺麗で、思わず息を呑んだ。
――この人知ってる。
少し癖のある黒髪にハーフのような顔立ちで、誰が見てもイケメンだと思うだろう。
学校でカッコいいと有名な
最上 来衣先輩。
カッコいいと騒がれる理由が、今わかった。
近くで見ても遠くから見ても、目立つ容姿は、イケメンだと認めざるを得ない。
「――なに?」
低く耳障りの良い声はやけに耳に残る。声を投げかけられて、ハッと我に返り、そして見惚れていたことにやっと気がついた。
「えっと、スマホ……」
「あー、そこ」
奥のテーブルを指さして、ポツリと呟くと、また前を向いて作業を始めた。
「……あっ、私のスマホだ。ありがとうございました」
スマホが自分の手に戻ってきたことが嬉しくて、声が自然と高らかになる。その声も彼には届いているのかわからない。返事がなくて、早く出ていけと背中から伝わってくるようだった。
大人しく教室に戻ろうと廊下に向かって歩き出す途中で、キャンバスに目が止まった。
絵画の世界に吸い込まれて、足が動かない。絵画に吸い込まれた。そう表現するのが1番しっくりくる。
その絵は、黒く、暗い。一筋の光さえないその絵は、不気味さと綺麗さが混ざり合っていて、絵画の世界の懐の深さが見て取れる。
絵に詳しいわけではない、好きなわけでもないのに、目が離せなくなった。
「……なに?」
立ち止まる私に投げかけられたその言葉からは、不機嫌さをすぐに感じ取れた。
「え、絵が素敵だなって」
「これが? 光なんて見えないのに?」
「えっ?」
ボソッと呟いたその声は耳に届いていたけど、言葉の意味は理解できなかった。
どういう意味だろう?気になったけど、先輩の雰囲気が少し怖くて聞けなかった。
話したのはこの時が初めてで、最後だった。
それ以降は、女の子たちに騒がられてるのよく見かけた。
「来衣くん、放課後遊ぼうよ」
「行かない」
「来衣くん、メールアドレス教えてよ」
「教えない」
そのそっけない返事に、女の子たちが「はあ」と落胆の声を上げる光景を何度も目撃した。
「本当に人気者だなあ」と心の中で思ったくらいだ。
人気者の来衣先輩と、地味な私。生きる世界が違いすぎて、交わることはなかった。
だから知らなかったんだ。来衣先輩の身に、何が起きている状況なのかを。
コツコツと白杖とアスファルトが衝突する音が、どんどん小さくなっていく。暗闇に溶け込んでいく来衣先輩の背中をずっと見ていた。
きっと、来衣先輩は目が見えていない。
白杖を使ってゆっくりとぎこちなく歩く来衣先輩の姿を見て確信に変わる。
どうして、白杖を使ってるの?
なんで、目が見えなくなってしまったの?
聞きたかったけど、聞くことのできない質問は、広がる夜の街へと消えていった。
目が見えない来衣先輩は、私が幽霊だとは気づかずに、生きてる人だと思って私に話かけてきた。
生きてる頃のように怖がられることなく人と会話が出来た。の事実が、胸の奥をじんわりとあたたかくさせる。
学校で会ったりするかな。会ったとしても、人と話すことはルール違反だから、もう関わることはないだろうなあ。
――この時はそう思っていた。
私は来衣先輩の背中を見送ってから、担当する若菜さんの元へ帰ろうと夜道を歩いていた。
前の方から自転車に乗ったお爺さんが走ってくるのが見えた。微かに聞こえてくる鼻歌。鼻歌を歌いながら、自転車を漕いでいるようだ。
私は人には視えない存在なので、お爺さんにも目の前に私が歩いていることが視えていない。
お爺さんと自転車は私を目掛けて直進してくるだろう。
私って仮死状態で本当に幽霊なのかな?
来衣先輩と会話をした余韻が、私の思考を迷わせた。
私、死んでないんじゃないかな?願いのような、そんな期待が僅かに残っている。
確かめてみよう。 自転車を避けないことに決めた。恐怖心がなかったわけじゃない。自転車とぶつかったら痛いし嫌だけど、確かめたい気持ちが大きかった。
お爺さんの鼻歌の音量が大きくなり、自転車はすぐ目の前まできていた。
いざ、目の前にくると怖い。反射的に目を瞑る。
――痛く、ない。
耳に届く鼻歌がどんどん消え入りそうに小さくなっていく。おそるおそる目を開けると、目の前には誰もいなかった。
急いで後ろを振り返ると、鼻歌を歌って自転車を漕ぐお爺さんの姿がどんどん遠くなって行くのが見えた。ぶつかることなく私の中を通り抜けていったみたいだ。
改めて実感させられる。
私の存在は人には視えていない。
私がここにいることに、誰も気づいてはくれない。その事実は胸がぎゅっと締め付けられたように痛かった。
来衣先輩は私の存在に気づいてくれた。
私が幽霊だとは知らずに、普通に話しかけてくれた。
転んだ時の傷は大丈夫だったのだろうか。
なんで白状を使っていたんだろう。
来衣先輩の目は見えなくなってしまったのかな。
あんなに素敵な絵を描いていたのに。
頭の中は来衣先輩のことばかり浮かんでいた。
明日、また学校で会えるだろうか。
そんなことを考えながら夜道を歩いた。
「未蘭さあ、仕事放棄はよくないよ?」
歩いていると、いきなり背後から声がしたので、肩がビクッと震えた。心臓もどくん、と跳ねた。
「い、いきなり現れるの……やめてほしい」
柊といい、楓さんといい、みんないきなり背後に現れるのが好きなのかな。
逃げ出して散歩していたことがバレてしまったので、怒られるかな、と緊張感が全身を駆け巡った。
「……怒らないの?」
「あー、仕事放棄の件?」
「う、うん」
「俺もやったからなあ」
怒られると覚悟していたので、あっけらかんとしている柊に驚かされた。
「そうなの?」
「そう、俺は言えないようなところも行ったよ?」
「どこに行ったの?」と口を開きそうになったけど、良くない予感がしたので聞くのをやめた。柊のしたり顔を見る限り、その選択肢は正解だと感じる。
「……あのさ、柊はなんで守護霊代行の仕事やってるの?」
「俺は、生前真面目だけが取り柄のように生きてきたからな。スーパーエリート優良人間だったから、守護霊代行に選ばれたってわけ」
「柊はあと何日で生まれ変わるの?」
「あと、4日だな」
「……そっか。生前の自分に戻りたいと思ったことは?」
「あったよ、死んですぐなんかは、戻りたいと思ってた。でも、勝ち組が約束された元に生まれ変われるなら、来世を頑張りたいと思ったんだよ。俺は芸能人夫婦の赤ちゃんに生まれ変わって、金に困ることのない、容姿も美形が約束されてる。親ガチャに成功するんだ」
「芸能人か、」
「芸能人じゃなくても、一流企業の社長の子供に生まれ変わって、お金に困らない贅沢な生活。スポーツ選手の子供に生まれ変わって、運動神経抜群の遺伝子を持つ子供。……夢みたいな話だけど、親を選べるっていうチャンスが、俺たちの目の前にあるんだぜ?」
「……そうだね」
「悩んでまで生前の自分がいいの? 辛そうに見えたけどな」
右手で頭をくしゃっと、かく仕草をして、ポツリと呟いた。何かを考えているような顔をして私の顔色を伺っているように見える。
「……もう少し考えてみる」
「そうだな、まだ時間はあるから」
生まれ変わることも悪くないのかな。
私は特別かわいいわけではないし、特別頭が良いわけでもない。アイドルみたいな可愛い顔に生まれたかったなあ、と鏡を見ながら思ったし。
芸能人の子供に生まれたら最高だろうなあ、と何度も妄想したこともある。
勝ち組の人生を選べるなんて、ラッキーなのかな。柊の話を聞いて、素直にそう思った。