学校が終わり守護対象者の若菜さんが下校中の帰り道でのことだった。
ちょうど路地に入り道幅が狭い道を歩き始めると、前から走ってきた自転車が、バランスを崩したようでガタガタと左右に揺れ出した。
バランスを取りながら立て直そうとしている様子だけど、揺れは収まらず、今にも倒れそうだ。
ちょうど近くを歩いていた若菜さんは、携帯を触って俯いているので、前が見えていない。
このままだと、自転車とぶつかってしまう。
迷ってる時間はなかった。
危険がすぐ目の前まできている。
「――危ないっ!」
咄嗟のことで思わず声を出してしまった。若菜さんは私の声が聞こえたようで、驚いて進めていた足を止めて立ち止まった。俯いていた顔を上げる。
――ガタンッ、
辺りにアスファルトと金属音の衝撃の音が鳴り響く。
立ち止まったおかげで、2人が衝突する時間がずれた。若菜さんのすぐ目の前でバランスを崩した自転車は倒れた。立ち止まらなかったら、完全にぶつかって怪我をしていた。立ち止まったおかげで、衝突することをギリギリで回避できたのだ。
安堵と共に、深いため息が漏れる。
若菜さんが怪我をしなくてよかった。
声を出すのはルール違反だが、助けられたことには変わりはない。
怪我の危険を助けられたから、感謝とかされたりするかなあ。「誰だかわからないけど、教えてくれてありがとう」とか、言われたりするのかな。
若菜さんを助けられたことが嬉しくて、淡い期待に胸を膨らませる。
「え、なに? 誰もいないところから声が聞こえた? こわっ、怖いんですけどっ!」
感謝されるどころか、思いきり怖がられている。若菜さんは、私が声を上げた方向に視線を向けたが、誰もいないので顔は引き攣り、恐怖が表われていた。
若菜さんには、私の姿が視えていない。彼女からすれば、誰もいるはずのないところから声だけが聞こえた、ということだ。
怖がるのも無理はない。
瞳を揺らして、今にも泣き出しそうな顔をしてるので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
怖がらせてごめんなさい。
怖がらせるつもりなんてなくて、ただ助けたかっただけ。声を出して伝えられないので、心の中で問いかけた。
「やっちゃったね……」
柊は後ろから気まずそうな顔でポツリと呟いた。焦ってて彼が近くにいることを忘れていた。あの場合はどうすればいいか、柊に聞けばよかった。
「声出しちゃった。これってまずいよね?」
「ああ、でも、今回は担当に未蘭の存在がバレたわけじゃないから。今回はセーフだと思うよ」
「……それって誰が判断するの?」
「それは俺も知らないんだけど、ルールを破ったことが上層部にバレるとスマホに警告がくるらしい」
「……警告かあ」
「そしたら、本当にまずい」
「……気をつけます」
「守護霊の仕事に慣れるまでは、生きてる時の癖で声を出しちゃうのは、よくあることだから気にしすぎないで! ただ、今後は注意すること!」
「うん」
「上層部は、いつ俺らのことを監視してる分からないから、気をつけろよ」
「……気をつけます」
「まあ、結果的には担当も怪我せずに済んで良かったけどな」
担当に私達の存在がバレてはいけない。
話しかけることも、もちろんルール違反。
若菜さんに危険が迫っていたとはいえ、声をあげてしまったことは反省点だった。自分の行いにしっかりと反省しつつ、なんとか守護霊代行1日目が終わろうとしていた。
「さっきはミスしちゃったけど、他は今日の感じで大丈夫だよ。明日からは1人で頑張れよ」
「えー、まだ全然わからないことだらけだよ?」
明日から柊が側にいないと分かると不安が襲ってくる。なんとか引き留めたくて、縋る思いで視線を向けた。
「不安なのはわかるけど、今日の感じで大丈夫だから、自信持って!」
不安を拭うように、いつも以上に優しい声だった。その優しい声に感化されて、私はゆっくり頷いた。
「う、うん、頑張ってみる」
守護霊代行。
神様みたいな力はないけれど、ちょっとだけ小さな危険を助けて、人の手助けをする。
若菜さんの危険を助けることができて、達成感のような、満ち足りた気持ちになった。
事故に遭う前、私の存在は母にとって邪魔者だっただろう。私がいなければ彼氏と新しい家族を築けるのだから。
邪魔だと思われるのは、やはり悲しかった。
こうして、少しでも人の役に立てたことで、荒んでいた心が少し和らいだ。
この仕事をしているうちに、もっと私にできることないかな。空を見上げならそんなことを思っていた。
一通り説明を終えた柊は、自分の担当エリアに戻って行った。
「ありがとう」明日から1人だと思うと不安で、弱々しい声で呟いた。
担当の森本若菜さんは学校から帰宅後、自宅で家族とご飯を食べ、お風呂に入り、特になにごともなく今は自室で眠りについていた。呼び出し通知がくるまでは、守護霊代行としての仕事を続けなければならない。それは、担当が眠っている時もだ。
ふと、窓の外を見ると暗闇が覆っていた。見える光は人工的な光だけ。窓越しの空には星なんて見えなかった。夜空でさえも、懐かしさが込み上げてきて、嬉しさと悲しさが混じり合う。
夜の街、歩いてみたいなあ。
生前は夜道を1人で散歩するなんて、危険なのでしたことがなかった。
今は幽霊で人視えないから、犯罪に巻き込まれる心配もない。
堂々と夜道を散歩できちゃうんじゃない?
好奇心が心の中で疼く。
窓から見える夜空があまりにも真っ暗で、吸い込まれそうになる。まるで外に誘われているような錯覚に陥る。
少し、少しだけなら……許してもらえるかな?
本当は、眠ってる時も仕事を続けなければいけないのに、好奇心を我慢することができなかった。
ごめんなさい。
少しだけ。本当に少しだけ行ってきます。
好奇心に勝てなかった私は、家の壁を通り抜けて外へ出た。スッと壁を通り抜けるだけで、こんなに簡単に外に出れるなんて、幽霊って便利だ。
一歩踏み出すと外は、車のライトやビルの灯りが街を明るく照らしていた。
夜に一人で歩くなんて、なんだか悪いことをしているみたいで、ちょっとだけわくわくしてしまう。軽い足取りのまま、人通りの多い大通りを抜けて路地に入る。
1本小道に入るだけで、大通りの煌びやかな街とは違い、あまりに静かで違う街に来たようだった。街灯がポツポツと照らしてる道を私はゆっくり歩いていた。
こうやって街を歩いていると、自分が幽霊だなんて思えないなあ。
――彼と出会ったのは、そんな静かな夜だった。