꙳
これから森本 若菜さんの担当として、見守っていかなければならない。
これが私の初仕事となる。
守護霊代行の事務所から現世に戻ってきた。
現世に戻ってくると、見るもの感じるもの全て感慨深い。自分でもわからない感情が込み上げてきた。
悲しいのか嬉しいのか苦しいのかわからない。だけど、心はあたたかいような。
空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。毎日のように見上げていた空なのに、その青さの尊さに心を揺さぶられる。
森本若菜さんは、私が生前に通っていた桜ヶ丘高校の1年生。サラサラの黒髪のロングヘアが似合う、可愛らしい女の子だ。
私は2年だったので後輩にあたる。同じ学校の後輩といっても面識のない子だった。
若菜さんは学校に向かうため、通学路を一人で歩いているようだ。耳にはイヤホンをして、外にまで漏れ出す音楽が大音量で聴いていることを教えてくれた。
先輩となる柊と一緒に担当の若菜さんの近くに待機している。
私たちは人からは視えていないので、こっそりする必要はないけれど、存在をばれてはいけないと言われると、衝動的に物陰にこっそり隠れてしてしまう。
「未蘭、隠れる必要はないんだよ?俺たちは、人には視えてないんだから」
「分かってるんだけど……なんか、ね。バレてはいけないと聞くたら隠れちゃうよね」
「まあ、距離が近過ぎると、驚いた時とかに思わず声が漏れて、それが聞こえちゃう時があるから、近づきすぎも要注意だね」
「……声は聞こえちゃうんだっけ?」
「あれ? 言わなかったっけ?」
情報量が多すぎて、頭がパンクしそうだった。事前に教えられていても全てを覚えきれていない。
記憶を思い返すと、最初に言われた気もする。
ちゃんと覚えておこう。そう心で反省した。
若菜さんと私たちの距離は10mほど距離がある。離れてるように感じるが、何か危険があればスッと手を伸ばせる距離でもある。
「カーッカーッ」
空から甲高い鳴き声が降ってきた。空を見上げるとカラスの群れが私達のちょうど真上を飛び交っている。
「これは……まずいな。来るぞ!」
「なっ、なにが?」
来るって、一体なにが?!
柊の言ってる意味が少しも理解できなくて、ひたすらに戸惑っていた。
「――来た! 走って! 手で掴むんだ!!」
俊は言葉を発したと同時に、私の背中を力強く押した。私は押された反動で足が前に出る。
「手で掴むんだ!」柊の言葉が頭の中に浮かんできて、気付くと手を高く伸ばしていた。
――ボトッ。
鈍い音と共に、何かが手のひらに落ちた感触がした。手のひらには生ぬるい感触。……嫌な予感しかしない。見たくなかったが、勇気を振り絞って、チラッと視線を手のひらに向けた。
ああ、やっぱり、カラスの糞だ。うわあ……最悪だ。
守護対象者の森本若菜さんの頭に落ちるはずだったカラスの糞は、今私の手の中にある。つまり、私が森本さんの危険を救ったということだ。
「私たちの仕事って……こういうこと?」
「そういうこと!」
柊は口角を上げて満面の笑みを浮かべる。その笑顔とは反対に、私の心はげんなりしていた。
守護霊代行の初仕事を遂行できて嬉しいはずなのに、手の中に残るカラスの糞の温もりが、私を意気消沈させる。生前、カラスの糞が落ちてきた人を見たことは何度もあったけど、自分に落ちたことはなかったな。私にカラスの糞が落ちないように、守護霊が守ってくれてたのかな?ありがとう。
――って。
なんか、思ってた仕事と違うんだけど!
心の中で悪態をついた。
不満を引き摺る私をよそに、登校時間の通学路はたくさんの生徒たちが溢れかえっている。
見覚えのある校舎にたどり着くと、思わず足が止まった。見慣れたはずの学校は、最近まで通っていた学校のはずなのに懐かしく感じて心の奥がぎゅっと締め付けられる。
後者に1歩足を踏み入れると熱気と生徒の笑い声に包まれ、エネルギーが爆発してるようだ。
事故に遭うまでは、ここに通っていたはずなのにすごく久しぶりに来たような……変な気持ちが込み上げた。
私は今人には視えていない。誰よりも死に近い存在だ。この学校に通うことはないかもしれない。そう考えると、途轍もない寂しさが襲ってくる。
生前はなんとなく通っていた。別に好き好んで行くわけではない。ただ毎日当たり前のように通っていた。
今の立場になって寂しくて仕方ない。あちこちから飛び交う笑い声も、楽しそうな雑談の声も。入り込むことができないその空間は、外から見ると尊いものだと身に沁みて思う。
何気ない日常は小さな幸せの積み重ねだとはじめて感じた。
生徒たちの笑い声が耳に届くたびに、今の私には心に錘がのしかかったように辛かった。
はじめての感情に戸惑いながら校舎を歩いていると、ある人物の名前が何度も聞こえてきた。
「最上来衣先輩ってさ……」
「最上が今日も来るらしいよ」
「最上来衣先輩、大丈夫なのかな」
校舎に入ってからというもの、生徒たちの雑談の中から、やたらと同じ名前が耳に届く。
最上来衣先輩。
生前に何度も聞いたことのある名前だった。
来衣先輩は他校にファンクラブがあると噂されるほどの有名人だった。高身長に整った顔立ち、パーツの配置も完璧で、そこにただいるだけで目立ってしまうような人だった。目立たなくて地味な私とは生きてる世界が違うような人だった。
来衣先輩の名前が上がるのは生前もよくあることだったので、特に不思議には思わなかった。
この時は、来衣先輩の名前が至る所から聞こえてくるのは、本当に人気なんだな……。くらいにしか思っていなかった。
――来衣先輩の身に起きていることに、この時は気づきもしなかった。