病院を後にした私たちは歩いていた。
帰り道。ゆっくりと歩いた。それはまるで終わりが来てほしくないかのように、ゆっくりと歩いた。
見覚えのある公園が視界の奥の方に見えた。
「来衣先輩、公園で話しませんか?」
提案したのは私だった。なんとなく、なんとなくだが、私でいられる時間が迫ってきている。そう感じていた。
風が強くなってきて、胸がざわついた。嫌な胸騒ぎがするのだ。胸騒ぎが確信に変わるように強い風が吹く。
「あっ、」ふわりと来衣先輩が被っていた帽子が風と共に舞い上がる。場所を少し移動した帽子は、静かに道路に落ちた。風は強く吹く。また飛ばされるかもしれない。
杏子ちゃんからプレゼントされた大切な帽子。
車に轢かれでもしたら、汚れてしまう。考えるよりも先に私の足は動いていた。
「未蘭!」
「私は平気ですから! 私、幽霊なので車が来ても轢かれません! だから、来衣先輩は、そこにいて!」
帽子に向かって走りながら声を上げた。そう、私は幽霊なので車に轢かれることはない。自転車にぶつかることなく、通り抜けたことで実証されていた。来衣先輩の心配する声を背中に、帽子が落ちた道路へと向かっていく。
車が来ようとも、私のことは通り抜ける。焦る必要はない。ゆっくりと帽子を拾った。飛ばされた帽子を手に取り、戻ろうと振り返る。
この時の私は、来衣先輩と一緒に過ごしすぎて、初歩的なことを忘れていた。
来衣先輩は、常に危険が隣り合わせだということを――。
来衣先輩が立っていた場所は狭い歩道だ。
並列で並んで走る自転車が視界に入る。車道の横に自動車専用レーンがある。なのに、自転車は歩道を走り続ける。
歩道には来衣先輩がいる。自転車が直前で来衣先輩に気づき、よけようとするも、軽く接触してしまう。
「あー、すいません」
自転車に乗っていた人は軽く謝り、すぐその場を去った。
健常者なら、問題はないかもしれない。
ただ、来衣先輩は目が見えない。
そうだ。自死だと勝手に決めつけて、事故死の可能性を見落としていた。
目の不自由な人が、健常者よりも、危険が多いことを身をもってわかっていたはずなのに。
自転車と接触した来衣先輩が、一歩足を踏み出した先は道路だ。点字ブロックはない。杖をコツコツと鳴らし、辺りを探るも、方向を見失った彼はまだ歩道には戻れていない。
車が迫ってくる。
走っても間に合わない。
近くの人は、危険に気づいていない。
気づいている人もいるが、助けに動こうとはしない。心配そうな表情で見ている。見ていても、いくら視線を送っても、助けることはできないのに。
必死に走った。走ったけど遠い。視界の中にいて近くなのに、手を貸して助けるにはあまりにも遠い。私の走るスピードの無力さ。
次に誰かに私の存在がバレたら、私の魂は、自分の身体に戻ることも、来世に生まれ変わることも出来ずに、死後の世界へ消えていく。
楓さんの忠告が頭を過る。
声を上げたら、ルール違反だ。今度こそ私は死後の世界に強制連行。全て分かったうえで、大きく息を吸い込んだ。
「誰か! 助けてください。彼は目が見えません! 歩道まで手を引いてください」
声を張り上げた。もちろんルール違反だ。それを承知で、あたり一面に響き渡るほどの大声で叫んだ。
どこからか聞こえてくる大声に、反応した人が数人。
ハッとしたように、みんな道路に取り残された来衣先輩に向かう。
近くの人々が駆け寄ってくれたおかげで、来衣先輩の命は助かった。
これは完全に油断していた私のせいだ。
彼はいつも危険と隣り合わせなのだ。
「来衣先輩、大丈夫ですか?」
「……未蘭、声出して平気か?」
命の危険があったというのに、私の心配をしてくれる。
どうしようもない愛しさが込み上げる。
幸いなことに来衣先輩は尻餅をついたくらいで、怪我はないようだった。目の先にまで来ていた公園のベンチに腰掛けた。
「病院行かなくて大丈夫ですか?」
「……大丈夫だって。心配すんな」
よかった。来衣先輩が車に轢かれなくて。
まだ心臓がバクバクと鳴っている。
もうすぐ早川未蘭としての時間が終わる。そう感じるのだ。
最後にルール違反を犯した。ただ、そのおかげで来衣先輩の命が救えた。後悔はない。後悔はないけど、未練はある。
また来衣先輩とこうして楽しく過ごしたい。楽しくて、幸せだと、人は欲が止まらない。
伝えたい気持ちはたくさんあるけど、口を開けば我慢している感情が爆発しそうで怖かった。
「来衣先輩と過ごせて幸せでした」
自分を守るために、必要以上に底抜けに明るい声を出した。空笑いをしながら無理やり下手くそに笑うことで、平然を装い続けた。
そんな私の顔は視えなくても、全てお見通しのように優しく微笑む。
「俺さ、未蘭と出会えて幸せを知った。未蘭に出会えたから、見えない世界にも希望や未来が見えた。この気持ちが消えない限り、俺は頑張れる気がする。病気にも今まで以上に向き合うよ」
「私も、来衣先輩と出会えて初めて恋を知れた」
来衣先輩の言葉に、蓋をした感情も涙も溢れ出しそうだった。
「――好きだ」
唐突に放たれたずっと聞きたかった言葉は、強がりの仮面を溶かしていく。終わりが来ることを感じたのは彼も同じだったようで、瞳には涙が滲んでいた。
「ごめん、私はルール違反をしたから……消えてしまう、の」
「なんで……俺のせいか?」
「違う。私自身がしてきたルール違反のせい」
「な、んで、未蘭なんだよ。幽霊のままでいいから、消えるなよっ」
今まで我慢してた想いが零れた。一度零れてしまった想いは、とめどなく溢れてくる。
必死に我慢していた想いが、溢れて止まらない。
「……っ来衣先輩と、もっと、うっ……一緒にいたかったっ、」
「俺だって、未蘭と出会えたから、また生きていけるんだ。絶望の暗闇にいた俺を救い出してくれたんだ……消えないでくれよっ」
「消えっ、たくない。私、消えたく、うっ、ないよ……」
「俺、目が見えなくても、未蘭がいてくれればそれだけで……光なんだよ」
こらえていた涙が零れると、あとはボロボロと止まらない。溢れ出る涙を抑えることはできなかった。
「来衣先輩を……好きになったことも、この思い出も、全部忘れたくない」
「俺は忘れない! 俺の中では絶対に消えない。7日間の未蘭は俺の中で生き続けるよ」
この気持ちを忘れたくないよ。
こんな幸せであたたかくて、苦しい気持ちが消えてしまうなんて。
やだよ、消えたくない。
「俺が見つけ出すよ。生まれ変わった未蘭を、必ず見つけ出すよ」
「そ、そんなっ……無理ですよ。誰に生まれ変わるかなんてわからない」
「見えないけど、きっと見つけ出すから」
幽霊で誰にも見えなくなった私を来衣先輩は見つけてくれた。
無理だとわかっているのに、心のどこかで期待をしてしまう。
「来衣先輩、もし、早川未蘭に戻れたら……7日間の記憶がなくなった私でも見つけてくれますか?」
「……必ず見つけるよ」
「でも、私の中の来衣先輩への気持ちは消えてるんですよ?」
「もう一度、俺に惚れさせればいいだけの話だろ?」
来衣先輩は消えゆく私に向かって手を伸ばした。透けていく私の体を通り抜ける。
その手に触れようと手を伸ばした。
私からは触れられるはずなのにスッと通り抜けた。目の前の事実が、もうすぐ私が消えてしまうサインだと感じる。
「また出会えたなら……私と、もう一度、恋してくれますか?」
「あたりまえだろ」
「……ぐすっ、7日間の私のこと、忘れないでいてくれますか?」
「忘れない、忘れられるわけねえだろ」
「忘れてもいいです。ただ、来衣先輩の灯りになりたかった……。どうか、生きてください……」
「死に際の挨拶みたいなこと言うなよ、」
「……私、来衣先輩のことが、す、…」
最後になる予感がして、急いで言葉を放つ。
瞬きする0.1秒の間に、私の目の前は眩い光に包まれた。