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 最初で最後のデートという名の見守りをすることになった。プランは全て来衣先輩が考えてくれるらしい。「どこに行くんですか?」と聞いても、頑なに教えてくれない。


 黒のスキニーデニムに、真っ白のラフなTシャツ。シンプルなコーディネートが来衣先輩のスタイルの良さを際立たせていた。被っていた帽子は来衣先輩にとても似合っていて、おしゃれ度をアップさせている。素材が良いと何でも似合う。


「来衣先輩、帽子も似合いますね」

「あー、白杖使ってると好奇な目で見られて、視線をたくさん受けるんだ。それが嫌で悩んでる時に『少しでも視線を遮れるように』って杏子がお小遣い貯めてプレゼントしてくれたんだ」

「杏子ちゃん、本当に良い子ですよね」

 照れたのを隠すように帽子を深く被り直した。大好きな妹からもらった帽子を大切にしてると感じて微笑ましくなる。
 
 白杖とアスファルトの打撃音がコツコツと一定のリズムで響く。この音を聞くのが当たり前のように感じて、耳に残る音がが心地よい。

「慣れたつもりでも白杖に集まる視線は感じるし、隣に未蘭がいると安心して歩ける」

 肩を並べてゆっくりと歩いた。周りに人がいないときは堂々とお喋りをしながら、行き先が分からない私は来衣先輩の足に合わせた。

「バスに乗るから。バスでは喋れないね?」

 バスが到着すると、ゆっくりと車内に乗り込んだ。若干のぎこちなさはあるが、目が不自由には見えないほど自然だった。

 あまりにも堂々として見えたのでこっそりと聞くと、病気になる前はバスで通学していたので、手順や場所を身体が覚えているらしい。身体が覚えているのを忘れないように、定期的にバスを使うことも教えてくれた。

 しばらくバスが進んでいく。
 降車ボタンを押したのは、総合病院手前のバス停だった。来衣先輩は何も言わずにバスを降りた。そして総合病院に向けて歩いていく。

 なぜこの場所で降りるのか不思議に思ったが、同じバス停で降りた人が沢山いたのでむやみに話しかけることが出来ない。

 来衣先輩の検診かな。でも、今日は日曜日。外来も休みなはずだ。聞けない答えを探して、頭の中で考えていた。

 初めてではないのか、迷う様子もなく病棟に向かっていく。

「ら、来衣先輩、病院で何するんですか?」

「……」

 返答はない。ヒソヒソ声で話しかけているが、耳元で話しかけたので絶対に聞こえているはず。意図的に無視をしているということだ。それから何度も問いかけるも、完全に無視される。

 もしかして、本当に聞こえていない?
 急に不安が押し寄せる。そのくらい.来衣先輩の顔色が変わらなかった。まさか、私消えてしまった――?

 一気に不安が込み上げて足が止まる。
 すると、やっと来衣先輩は口を開いた。

「……着いたよ」

 病室の前で立ち止まらり、しばらくぶりに声を発した。私は消えていなかった。意図的に無視していたということだ。

「来衣先輩! なんで無視してたんです……か」

 勢いよくまくし立てた声は、後半になり力がなくなる。それはこの病室に何かを感じ取ったからだ。どくんと心臓が跳ねる。

 なんだろう。
 この緊張感は……。
 もしかして――。


 換気をするためか病室のドアが開いていた。中にいる人の声が廊下まで届く。

「未蘭……っ! お母さん、未蘭が誰よりも大切だから。……宝物だからね」

 悲痛の叫びの持ち主は聞き覚えのある声だった。
 事故に遭う朝、喧嘩別れした母の声だ。泣きながら話す声は震えて枯れ果てた声はしゃがれている。
 
 足は勝手に前に進み、病室に踏み入れていた。
 ベッドに眠るのは私。正確いうと私の身体だ。

 どくん、どくん。心臓の音がやけに耳に響く。
 目の前のことは現実なのに、夢のように感じてしまう。

 母はベッドの横でパイプ椅子に座り、眠っている私に話しかける。

 お母さん、こんなに背中小さかった?
 目の下には、くっきりとクマが出来ている。
 
 ねえ、ちゃんと寝てるの?
 数日でやつれたんじゃない?

 聞きたいことが山ほど出てくる。目の前で泣きじゃくる母を抱きしめることが出来ない。母の涙を見たのはいつぶりだろう。

 思わず手を伸ばした。
 だけど、触れてはいけない。伸ばした手を引っ込めると同時に後悔の念が押し寄せた。

 もっと「ありがとう」って伝えればよかった。伝える時間なんて無限にあったのだから。

 明日も明後日も会えることを信じて疑わなかった。別れが訪れるなんて、考えたことなかった。分かっていたら、絶対にあんな酷いこと言わなかったのに――。

 事故に遭った日の朝、私は母に「大っ嫌い、死んじゃえ」そう言い放った。
 本心ではなかった。ただあの時は怒りの矛先がなくて、暴言を吐くことでしか発散できなかったんだ。

 もしかしたら、私はこの身体に戻れないかもしれない。ルール違反をした報いを受けることになるかもしれない。

 ねえ、ママ。
 本当は、誰よりも大好きだよ。

 ただのヤキモチだった。母を男に取られたみたいで悔しかった。だけど素直に言えなくて、暴言ばかり吐いてしまった。隣の男じゃなくて私を見てよ。そう願っていただけ。

 今の私の顔は超絶不細工だ。涙と共に鼻水も垂れ流している。だって、鼻をすすれない。すすった音で気づかれてしまうから。立ち尽くす私の横を、白杖が鳴らす音と共に通り過ぎる。


「あれ、今日も来てくれたの?」

「――はい」

 初対面のはずの母と来衣先輩は、顔見知りらしい。驚いて思わず声が出そうになるのを、口を両手で抑え込み耐えた。

「昨日、言ってましたよね。凄く後悔してるって……」

「そうね。後悔しても……っ、しきれないわ。毎日、愛してると伝えればよかった。未蘭が生まれてきてくれて、ありがとうって。っ、未蘭がいなくなったら……お母さん、どうやって生きていけば、」

 いつになく弱さを感じた。ハンカチで目元を抑えながら、枯れた声で話す母の言葉が心に刺さる。

「伝わると思います」

 彼が泣きじゃくる母にかけた言葉は優しくて、温かい声だった。

「『私はいつまで子育てする母でいなくちゃいけないの?』なんて酷いこと言ってごめん。ずっと未蘭の母でいたいよ。大好きよ。産まれてきてくれてありがとう」

 声を押し殺すために両手で口元を抑え込む。それでも涙と共に声が漏れ出してしまいそうだ。
 存在を悟られるわけにはいかない。これ以上ルール違反をしてしまったら、私は死後の世界に送られてしまう。いよいよ嗚咽が漏れそうになり、その場を急ぎ足で後にした。

 廊下を進みしゃがみこむ。人はいない。声を出して泣いてもいいだろうか。
 いや、ダメだ。誰もいないところから泣き声が聞こえてきてしまったら、それこそ心霊現象だ。

 必死に我慢していると、優しい香りが鼻に着く。来衣先輩だった。彼は私を覆うようにしゃがみこむ。

「いいよ。泣いて」

「え、でも、泣いたらバレちゃう」

「大丈夫。誰かに見られても、俺が泣いているようにしか見えないから」

 彼の言葉が耳に届くと同時に、堰ためていたものが崩れ落ちるように涙腺が崩壊した。

「うっ、……っひっ、ママあっ、っう」


 涙を止めたいという意識に反抗するように、流れる涙を止めることが出来ない。来衣先輩がそばにいてくれる安心感から、隠していた感情が素直になる。周りを確認する余裕がなくて、ひたすら泣きじゃくった。

 どのくらい泣いていただろう。傍から見れば、私の姿は視えていない。長身のでかい身体の男がしゃがみこみ、「ママー」と泣きじゃくっているようにしか見えないのだ。白い目で見られても仕方ない。しかし来衣先輩は急かすこともなく。文句を言うわけでもなく。ただただ、その場にいてくれた。
 

「あのー、大丈夫ですか?」

 さすがに長時間泣いてれば、ここは病院、心配して病棟の看護師さんが駆けつけてくれた。

「大丈夫です」

 しゃがみこんでいた来衣先輩は、ゆっくり立ち上がる。その顔には、涙一粒流れていない。不思議そうに見つめるも、特に追及することなく持ち場に戻っていった。


「ありがとう、ございました。でも、なんで……」

「昨日、憶測が確信に変わった後、病院を回って探したんだ。二件目で見つけられてから良かった」

「……っ、」

 あの日、だから帰ってくるの遅かったんだ。
 私が幽霊だと打ち明けた後、一人で病院を探していたなんて知らなかった。一時引っ込んでいた涙が、また込み上げる。どうして、そんなに優しいの。愛おしくて仕方ない。

「ありがとうございます……ママに会えてよかった」

「未蘭の家族も良い家族だな」

「……うん! 大好きな家族だよ」