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杏子ちゃんと過ごしていると、次に家の扉を開けたのは来衣先輩ではなかった。
私が恐れている人物。
しかしきちんと話をしなければいけない人物。
来衣先輩のお母さんには、私のことをまだ認めていない。恐怖で足は震え出したが、納得してもらえるまで説明しようと心に決めた。
「……あの、お話していいですか?」
私は自ら来衣先輩のお母さんの元へ歩み寄った。まさか私から話しかけてくるとは思っていなかったのか目を見張っていた。
息を呑み、決意を吐き出した。
震える声で今の現状をもう一度説明する。
全て話し合えると静寂を破ったのは来衣先輩のお母さんだった。「……そう」と静かに一言つぶやいた。
「私に来衣先輩を守らせてください。守護霊代行としての最後の日、必ず命を守ります!」
私は腰を下げて深くお辞儀をする。そんな私の行動に驚いたように目を見開いた。そして不意に柔らかく微笑む。
「……ありがとう」
来衣先輩のお母さんの対応に困惑する。お礼を言われるとは夢にも思っていなかった。
それに加えて腰を深く折って頭を下げたのだ。
「……えっ! いや、いや! 頭を上げてください!」
大人に頭を下げられた経験など初めてだ。どうしたらいいのか分からず、あたふたしてしまう。
「……大丈夫?」
殺伐とした雰囲気を心配するように、憂わしげな表情を浮かべる杏子ちゃんがリビングへと降りてきた。
「大丈夫よ。お茶でも飲みましょう」
その言葉を聞いて、昨日の光景が頭の脳裏に浮かぶ。また盛り塩出されるのではないかと、緊張感が全身を駆け巡る。
どうしても顔が俯いてしまう。
テーブルの上にコトンとなにかが差し出された。見たくないものを確認するように薄らと目を開ける。
「……これって」
「見たらわかるでしょ?」
「……え、えっと」
目の前には盛り塩じゃなかった。
コップに水が注がれていた。それだけのことだけど認めてもらえた気がして嬉しい。嬉しくて目の奥が熱くなる。
ガタッ、という物音と共に来衣先輩のお母さんが勢いよく立ち上がった。私の心臓はドキリと跳ねた。
「未蘭さん、ありがとう。……消そうとして、ごめんなさいね」
「え、あ、いえ……」
喜んでいいはずなのに喜べそうにない。
やっぱり私のこと消そうとしてたんだ。
それは知りたくなかったなあ。
そう思いつつも、来衣先輩のお母さんの本当の笑顔が見れたことが嬉しかった。
来衣先輩のお母さんの許しが出たので、私は堂々と来衣先輩の守護霊代行の仕事ができる。守護対象者に存在がばれてる守護霊代行なんて、今までいなかっただろう。前代未聞である。
「お兄ちゃん、まだ帰ってこないね……」
すぐ帰るといったのにだいぶ時間が過ぎている。来衣先輩がまだ家に帰ってこない。すぐに帰ってくると言ったのに、時計の時刻を見ると17時を過ぎていた。
もしかして、今ごろ――。
考えたくない、最悪の想定が頭に浮かぶ。いてもたってもいられなくて玄関に足を進めた。
ガチャ。玄関ドアがゆっくり開いた。
コツ、コツ、聞き覚えのある白状の音。
「遅いですよ……!」
不満を口にするも心の中は嬉しい気持ちで溢れていた。来衣先輩が帰ってきてくれた。
不安に心を支配された私は、自分の気の緩みを咎めた。
もう一瞬たりとも、来衣先輩から目を離したりはしない。心に固く決意する
♢
「ちょ! え、未蘭?! こ、ここ、お風呂なんだけど? お風呂まで入ってこなくていいから」
「いえ、お風呂は危険ですから。滑って頭を打つかもしれません」
「見られてたら、身体を洗えないから!」
「では、大事なところを洗う時だけ、教えてもらえれば目を瞑ります」
「……そういうことじゃなくて!」
このやり取りを何度もして、仕方なく私が折れた。お風呂場のドアの外で待機する。
「おーい! さすがにトイレは勘弁してくれよ」
「トイレも危険ですから」
「なにが危険なんだよ……出るものも出ないんだけど」
「あ、時間かかるタイプですか? 私、匂いとか気にしないので」
トイレでも頑なに拒否された。無理やり追い出されて仕方なくドアの外で待機する。
なりふり構っていられない。
絶対に来衣先輩の命を守りたい。
♢
窓の外は暗闇に包まれ、部屋の照明の電気は消えている。窓から差し込む月の淡い光のおかげでほんのりと薄暗い。私は来衣先輩の部屋にいた。
固く決意したはずなのに簡単に崩れ落ちた。
「さっきまでの威勢はどこにいったの?」
「い、いや、えっと」
「24時間近くで見守るんだろ?」
「そ、そうですけど、これは例外というか」
「お風呂も覗き見しておいて?」
「い、いや、でも……! 同じベッドに入る必要はないかと」
薄暗い部屋で同じベッドに入ることを強いられていた。しかしそれは断固として拒否をする。
薄らと暗い雰囲気に部屋に2人きりなだけで、心臓はバクバクと高鳴り続けている。
それなのに同じベッドに横になるなんて、心臓が破裂してしまう。
「わ、私は、ベッドの横にいます! 幽霊なので」
「ははっ、トイレまでのぞき見されたから、ちょっと意地悪した」
「……のぞき見じゃないです」
「同じベッドに入らなくていいから、話が尽きるまでしゃべろう?」
「はい」
「今日ありがとうな、映画に付き合ってくれて」
「……来衣先輩の家族は良い家族ですね」
「未蘭の家族は?」
私の家族。私に家族は母しかいない。
しかし母には新しい家族になるかもしれない彼氏ができた。……私は独りだ。
「私は、一人になっちゃうかもしれません」
「一人になったら……俺が味方になるよ。どんな時も必ず未蘭の味方になる」
その言葉は心のど真ん中に刺さる。
母に突き放されて、私は孤独に取り残されていた。
誰か味方がいてくれるとこんなに心があたたかくなるんだ。
何時間話していただろう。話したいことは次々と出てきて尽きることはなかった。
いつのまにか来衣先輩は寝落ちしたようで、いびきが聞こえてきた。
窓から差し込む月の光が、来衣先輩の顔をうっすらと照らす。その顔を飽きることなく見つめていた。
♢
カーテンから朝日が差し込み、部屋がほんのりと明るくなる。幽霊で睡眠の欲求がない私は眠っている来衣先輩の顔を見つめていた。
彫刻のように綺麗な顔で眠る来衣先輩。朝起きたら好きな人の寝顔が見られる。私が生きていたら、こんな幸せを送れたのだろうか。
そんな妄想をしたところで、なんの意味もないことはわかってる。
なのにどうしてあるはずのない未来を考えてしまうんだろう。
私の7日間の記憶は消えてしまう。仮死状態の自分に戻れたとしても、来衣先輩と過ごした記憶は存在しないのだ。来衣先輩と過ごして、幸せだと満ち溢れた想いも。心臓が張り裂けそうなくらいドキドキした記憶。誰かを守りたいという尊い気持ちも。全て忘れしまうんだ。
悲しい。
辛い。
生きたい。
忘れたくない。
この儚い気持ちを忘れたくなくて、心のメモに書き留めた。様々な感情の波が押し寄せて、涙が我慢を超えてきそうだった。
自分の現状を受け入れていたはずなのに。来衣先輩との幸せな記憶が忘れたくないという気持ちを呼び起こす。
「……っ、」
彼は聴力が研ぎ澄まされている。
聞かれるわけにはいかない。声を押し殺して唇を噛み締めた。
「……未蘭?」
涙で視界が滲む。霞む視界の中寝起きの重い瞼を薄らと開けて、かすれた声で私の名前を呼ぶ来衣先輩が見えた。彼の手が私の顔めがけて伸びてくる。
「……あ、れ、」
彼の大きい手は私に触れることなく、するりと通り抜けた。
そう、これが現実。私は幽霊なのだ。
守護霊代行のルールで私たちから触れるものには触れる。けれど人から私たちには触れられない。
来衣先輩から私に触れることはできない。
「そうだったな」
来衣先輩は何か考えるように伏し目がちに呟いた。
「……おはようございます」
「おは、よう」
涙を拭って、泣いたことがばれないように、高らかな声を発した。
~♪
支給されているスマホの着信音が流れる。今まで担当の情報を知らせるメールの着信音とは違う。なんだか嫌な気配がするような音だった。画面を見ると着信のようだ。相手は分からない。おそるおそる通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
「あー、未蘭ちゃん。楓です。」
電話の主は楓さんだった。知らない人ではなかったことに心底ほっとする。
しかし楓さんの声からはきっと良くないことなのだと、瞬時にそう感じた。
「未蘭ちゃん、彼に自分のこと打ち明けたのね?」
「……はい」
「それは立派なルール違反よ? それに、彼の妹さんにも打ち明けたみたいね」
「はい。すみません」
杏子ちゃんに打ち明けたことも、どうやら全てお見通しらしい。
「上層部から指摘があったの。未蘭ちゃん、これ以上ルール違反を繰り返すと、死後の世界に強制連行されることに決定したの」
「それって……」
「未蘭ちゃんは死ぬってことよ」
「……」
その二文字に、頭が銅器で殴られたように衝撃を受けた。「死」近くにあったはずなのに、どこかでまだ遠い存在だと思ってしまっていたかもしれない。思い返せば、ルール違反を数えきれないほどしている。罰を受けるのは当然だ。
「未蘭ちゃん?」
「はい……楓さん、迷惑をかけてすみません」
「なんとか説得出来て、すでに犯したルール違反については、目を瞑ってくれるから。ただ、これからルール違反をしたら……分かってるわよね?」
「はい……」
通話がぷつりと切れた。「死」がすぐ隣にいることを実感させられて、スマホを持つ手が震える。抑えようとしても震えが止まらない。
「未蘭? なにかあった?」
気配を感じ取った来衣先輩が眉を八の字下げて心配そうにしている。
きっと今の私の表情には、動揺や恐怖が顔に現れているだろう。しかし来衣先輩には視えていない。深く深呼吸をして乱れる心を落ち着かせた。声が震えないように気を配る。
「だ、大丈夫です。なにもありませんよ?」
「うそだ。何かあっただろ?」
必死に動揺を隠したつもりだったが、彼には声だけでバレてしまった。
「……」
「言えないなら、無理して聞かないけど」
どこからがルール違反になってしまうのか、判断が難しい。もし言ってはいけないことを言ってしまったら……私は死ぬ。そう思うと簡単に口を開くことが出来ない。
「未蘭、今日さ、本当のデートしない?」
「ほ、本当のデート?」
「昨日は杏子がいたからな。二人きりでのデート」
黙り込む私に気を使ってくれたのだろう。それ以上、追及することはなく話題を変えてくれた。
「デート……」
もちろん私がデートなど出来る立場ではない。そんなことわかりきっている。
そう最後の日はデートではない。
来衣先輩を守るんだ。